コラム
2025年02月19日

ロイズがコーヒーハウスだった頃-情報で結ばれた保険関係者-

保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴

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1――ロイズとは何か

英国1のロイズは劇画「ゴルゴ13」などにも登場することから、保険業界以外でもある程度は知られていよう。大きな事故や災害が発生した場合に多額の保険金を支払う責任を負い、巨大なリスクから世界を守っている組織のようにイメージされる。2023年の総収入保険料は約521億ポンド、同年の平均為替レートで換算して約9.1兆円2である。

そのようなロイズを簡単に説明しようとする情報ソースの中には、ロイズを保険会社と称するものも稀にあるが、多くは保険会社ではないと明言している。他方「保険市場」「保険組合」といった手短かな表現ではなかなか実像に近づくことができない。誤解を恐れず簡潔に述べるならば、何らかのリスクを懸念し保険(再保険を含む、以下同様)をかけたい人<契約者>、その代理人<ブローカー>、適正な保険料を計算する人<アンダーライター>、その保険を引き受けて保険金支払い義務を負う人<保険者>、その手続きや実務を代行する人<エージェント3>の集合体である。

とはいえ誰でも入れて規律がないような組織が巨大なリスクを負えるはずもない。それぞれに求められる資質を定め、全体の管理と監督に責任を負うロイズ評議会が設置されている。このようなガバナンス体制は1871年以来、ロイズ法という特別法で定められてきた。

保険者からは無限責任を負う個人が減少し保険会社などの法人が増え、保険会社と同様にPRAとFCAの監督下4に置かれている。そのように時代に応じた変化を経ながらも、集合体という特殊な形態のままで今日に至っている。

では何故その集合体をロイズと呼ぶのだろうか。そもそもロイズ(Lloyd’s)とは「ロイドの店」の意であり、何の店であったかと言えばコーヒーハウスであった。一旦はロイズから離れて、英国においてコーヒーハウスとはどのようなものであったか確認したい。
 
1 1707年にイングランドとスコットランドの合邦でグレートブリテン連合王国が成立する前はイングランドと称することが適切と思われるが、このレポートでは簡略化し英国で統一する。
2 参考までに東京海上ホールディングス(東京海上日動、日新火災、海外保険会社、その他)の2023年度正味収入保険料(出再保険料は含まず)は約4.8兆円。
3 エージェントから保険契約締結の権限を委任された代理店をカバーホルダーと呼ぶ。
4 英国における保険会社規制はFSMA2000(Financial Services and Markets Act 2000)に依拠し、その法改正を受けて2013年からは保険会社の健全性を確保するためのPRA(Prudential Regulation Authority、健全性規制機構)と消費者保護を目的とするFCA(Financial Conduct Authority、金融行動規制機構)が監督を行っている。

2――英国のコーヒーハウス

17世紀の英国コーヒーハウスのイメージ 東アフリカを原産地とするコーヒーはイスラム世界から欧州に入ってきた。英国のロンドンに初めてコーヒーハウスが建てられたのは1652年であり、この点に異説はないようだ。ピューリタン革命で国王が斬首されてから3年後、共和制の時代である。17世紀の英国はこの後、王政復古から名誉革命に向かっていく。

ロンドンに登場したコーヒーハウスでは、既に存在していたパブとの競合を避けるためアルコールと食事は供されないものの、その代わりに入場料は安かった。入れるのは男性だけであったが、入場後は中でコーヒー代を支払うだけで長く居続けることができた。市民の住宅事情は悪く自宅に大勢が集まることは困難であった時代、異国情緒に溢れたコーヒーというノンアルコール飲料を楽しむばかりでなく、談論風発の場を提供したことでコーヒーハウスは急増していった。特に1666年のロンドン大火の後、コーヒーハウスが市民の集まる場所となって商業の復興に大きく貢献した。

17世紀末のロンドンでは男性100人に1軒の割合でコーヒーハウスがあった5とされる。ピューリタンがアルコールを忌避する時勢にも適合6し、コーヒーハウスが英国の近代市民社会形成のインフラになったとも言えよう。

人が集まりやすいとなると本来の機能以外の役割も自然と求められてくる。現在のわが国において、コンビニが物を買うに止まらず、多様な目的で使われるようになったことと同様であろう。

当時の英国には官営郵便制度があったが信頼度は高くなかった。そこでコーヒーハウスを集積所とする私営郵便制度が生み出され、その廃業の後、官営郵便制度でもコーヒーハウスが採用されていった。また、マスメディアの発展への寄与も多大であった。既に新聞と呼べる印刷物はあり、それらはコーヒーハウスに常備されて自由に閲覧された。まだ識字率が低かった時代、文字を読めない人は読める人に読み上げてもらって内容を把握した。当初は新聞との境界が曖昧であったものの、やがて雑誌もコーヒーハウスから生まれてくる。逆に記者はコーヒーハウスで得た情報を基に記事を新聞や雑誌に掲載していく。

時間が経つとコーヒーハウスにもそれぞれの特徴が生まれてくる。「このコーヒーハウスには必ずあの人がいる」といった形で、共通の思想や目的を持つ人たちが決まったコーヒーハウスに集まるようになった。18世紀の半ば頃からコーヒーハウスは減少していくのだが、その要因の一つとして、各店ごとの客層が固まりクラブと化していったことが挙げられる。入場料さえ払えば誰でも入れたコーヒーハウス時代とは打って変わり、特定のメンバーだけの閉鎖的空間としてアルコールや食事も供するようになった。その頃には市民の家も客を呼べるほどに整い、コーヒーハウスに行かずとも新聞は読めたようだ。
 
5 小林章夫「図説ロンドン都市物語 パブとコーヒーハウス」(1998年、河出書房新社)50頁「こうしてロンドンのコーヒーハウスは、17世紀末には2000軒とも3000軒ともいわれる数に達したのである。人口60万、女子供を除くと、100人に1軒あたりの密度で店があったことになる」。
6 臼井隆一郎「コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液」(1992年、中公新書)70頁「ピューリタン革命とそれに続く王政復古の時代のイギリスにおいて確立されたコーヒー・ハウスという近代市民社会の公共的制度と、コーヒーという商品イメージは、ソウバー・ピューリタン(謹厳なるピューリタン)のイデオロギーとの内的関連抜きにはおよそ考えることができない」。

3――ロイズがコーヒーハウスだった頃

1680年頃にカンタベリーからロンドンにやってきたエドワード・ロイド氏(以下、ロイド氏)がコーヒーハウスを開業した。その店は海軍省に近く、自然と海運関係者が集うようになった。ロイド氏の前歴は知られておらず、もともと海運に馴染みがあってその場所を選んだのか、たまさか持てた店がその場所にあっただけなのかは定かではない。

人類史上、保険の起源は中世の地中海貿易における冒険貸借7にあり、そのリスク移転機能が海上保険に発展したという説が有力である。ロイド氏がコーヒーハウスを始めた17世紀後半の英国ではオランダと競争する中、海運業が急速に発展し関係者の間で海上保険の重要性が十分に意識されていた。

1691年、ロイズは他の著名なコーヒーハウスも並ぶロンバード通りに引っ越した。さらにロイド氏は常連の海運関係者が興味を持つ情報を掲載したロイズニュースを1696年から翌年にかけて週3回、計76号発行した。世紀が変わった後にはロイズで行われる取引は海運関係に絞られていき、海上保険のブローカー達はいつもロイズにいるので住所を必要としなくなったようだ。1713年にロイド氏は死去し、コーヒーハウスの経営は親族に引き継がれていく。

その間、海上保険が必ずしも順調に発展したとは言えない。1693年のラゴスの海戦8で英国とオランダの商船に甚大な被害が生じたことを受け、海上保険金の支払い責任を持つ保険者が多数没落した。当時の保険者は個人であったが、やがてこれを法人にしようという機運が生じる。紆余曲折の末、1721年に2社(ロイヤル・エクスチェンジとロンドン・アシュアランス)に勅許が下りた。とはいえ従来通り個人の保険者は認められたため、この2社への認可は他の法人が海上保険に参入することを抑止し、結果として規制の対象外である個人の保険者が組織化されてむしろ業容を拡大していく。その舞台は海運関係者が集うコーヒーハウス、ロイズであった。

ロイズは海運関係者の中で情報ソースとしての信頼を確立していたようであり、1734年からはロイズリストが毎日発行されるようになった。出港と入港、各船の積み荷、他国の海軍や海賊の活動状況などを記したものである。尚、ロイズリストは現在に至るも週1回オンラインで提供されている。

とはいえ入場料さえ払えば男性は誰でも入れるコーヒーハウスという特性もあってか、海上保険の信頼性に反するような状況9が報じられてスキャンダル化する。そのような中、1769年、一部の保険関係者が別の場所で新ロイズを立ち上げた。その場所はロイズ(以下、旧ロイズ)の給仕の名で借りられ、コーヒーハウスも営まれた。新ロイズもロイズリストを発行し、しばらくは両ロイズの競争が続いたが、やがて旧ロイズは勢いを失い消滅する。一方の新ロイズは1771年、79人の会員が規約を整え王立取引所内に部屋を借りることとなった。その部屋でも旧ロイズの給仕がコーヒーハウスを運営したとあるものの、誰でも入れる場所ではなくなっていたであろう。

もはやロイドの店でもロイドの親族の店でもなくなったのだからロイズと名乗る必要はなかったはずだが、海運に関する正確な情報で結びついた保険関係者の集合体を形容するために、長年使われたロイズ以外の名称を思いつかなかったこと、想像に難くない。
 
7 船主・荷主など航海者を借り手とし、航海が成功した場合は高利とともに返済する一方、失敗した場合は返済の必要なしとする金銭貸借契約。
8 ルイ14世が治めるフランスに対し、英国やオランダなど周辺国が結束して対抗した大同盟戦争の一環として行われた。ラゴスはポルトガル南部の都市。英国とオランダの連合艦隊が約400隻の両国商船を護送し地中海に届ける目論見であったが、ラゴス沖でフランス艦隊に襲撃され敗れた。
9 H.E.レインズ、庭田範秋監訳「イギリス保険史」(1981年、明治生命100周年記念刊行会)145頁以降では、1768年のロンドン・クロニクルによるロイズへの攻撃を「ロイド・コーヒー・ハウスにおいて違法な賭博が驚くほどに行われている状態は、現代の退廃がことのほか根深く、陰鬱なことを示している。(中略)行政が介入する絶好の機会であり、こうした(何か悪い目的で行われるに違いない)保険の創始者や奨励者に、法律の厳格さを示し、うまく中止する良い機会である。」と紹介している。

4――おわりに(紅茶の国のコーヒー時代)

テレビドラマ「相棒」で英国に縁の深い主人公がカップに紅茶を注ぐシーンは有名であるが、英国と言えばコーヒーではなく紅茶である。

英国社会の中でコーヒーが衰退し、茶の中でもマイナー10な存在であった紅茶が浸透したことについては、コーヒーを確保するための競争でオランダに敗れたこと、上流階級を皮切りに女性が家庭で紅茶を飲むようになったことなど様々な要因があるようだ。前述したコーヒーハウスのクラブ化もその一つである。

そのような英国において、コーヒーが愛飲されコーヒーハウスが近代市民社会を形成したと言われる時代があったことはなかなか想像し難い。

当時のコーヒーハウスを舞台に郵便制度や新聞雑誌が発展したと述べたが、それらの現在形を理解するためにコーヒーハウスにまで遡る必要はないだろう。されど現在に至るロイズの特殊な組織形態を理解するには、ロイズに海上保険の関係者が自然と集まっていた様子を思い浮かべないと難しい。

ロイド氏が現代に蘇れば、死後300年以上が経過しても自分の名前が保険業界に残っていることにも驚くであろうが、コーヒーハウスを生業に選んだ身として、英国が紅茶の国になっていることにより強く驚くのかもしれない。
 
10 角山栄「茶の世界史」(初版は1980年、2017年に改版発行、中公新書)52頁以降によると、1702年時点では緑茶に対する需要が圧倒的に多かったところ、18世紀を通じて紅茶の割合が年々増加していった。

(2025年02月19日「研究員の眼」)

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保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴 (いそべ ひろたか)

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴
  • 【職歴】
    1990年 日本生命保険相互会社に入社。
    通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
    日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
    2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
    資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

    【加入団体等】
    日本FP協会(CFP)
    生命保険経営学会
    一般社団法人 アフリカ協会
    一般社団法人 ジャパン・リスク・フォーラム
    2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

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