コラム
2023年12月15日

トルーマン大統領に学ぶ

保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴

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1――準備なく難局に登場

1945年4月、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は第二次世界大戦の終結を見ずして療養先のジョージア州ウォームスプリングスにて死去した。第4期目に入ってわずか3か月であった。

1933年に就任し大恐慌後も続く経済不況と第二次世界大戦に立ち向かい、12年以上米国を率いた彼を建国から現在まで続く歴代大統領の中で五指に入る傑物と評することに異論は出ないだろう。健康状態に不安を抱えながらも4度目の大統領選挙に出馬したことは当然理解しうる。勝利が見えた第二次世界大戦後の世界を構築しうるのはルーズベルト大統領しかいない。それは衆目の一致するところであり、実際に大統領選挙では共和党候補に圧勝した。だが自らに万が一のことがあった場合は考えていなかったように思われる。車椅子生活で持病と上手く付き合いながらも大統領職を長く続けてきた実績がむしろ判断を鈍らせたのだろうか。

米国では大統領が職務を継続できなくなった場合、副大統領が任期を引き継ぐことが憲法で定められている。これ以前の過去にもいくつか実例はあった。しかし副大統領候補を選ぶ前年の民主党大会でルーズベルト大統領がハリー・トルーマン氏を希望したのは投票予定日の前日1と言われ、同氏が副大統領に就任した後もルーズベルト大統領との接点は乏しく2、1945年2月に行われたヤルタ会談の秘密協定3も、原子爆弾(以下、原爆)開発のためのマンハッタン計画4も、トルーマン副大統領には共有されなかった。

ルーズベルト大統領の死去を受けてトルーマン副大統領が大統領に昇格したとき、米軍は沖縄に上陸し凄惨な地上戦に移行しつつあった。欧州ではドイツの降伏が秒読み状態の中、同盟関係にあるはずのソ連は解放された東欧諸国を支配せんと不穏な活動を展開していた。

このような難局の折、諸外国はおろか米国民の多くもトルーマン大統領が何者なのか知らなかった。
 
1 民主党大会の前々日、現職副大統領のウォレス氏を次期副大統領候補に希望するというルーズベルト大統領の書簡がウォレス氏サイドより公表された。トルーマン氏は別の候補を応援するため会場のあるシカゴに入っていたところ、大会初日、民主党有力者たちとの会合の席にルーズベルト大統領(公務のため大会には欠席)から電話があってトルーマン氏を希望したと言われる。同氏の回顧録ではルーズベルト大統領と直接話していないとあるが、話したという証言もあり情報は錯綜している。いずれにせよトルーマン氏が次期副大統領候補に選出されたのはそのような混乱の中、党内力学に基づくものであった。
2 第4期目の3か月において、トルーマン副大統領がルーズベルト大統領を公式に訪問したのは2回とされる。
3 米国、英国、ソ連の首脳がクリミア半島のヤルタにて戦後処理について会談し、欧州における戦争終了後2~3か月でのソ連の対日参戦とその見返りが秘密協定として締結された。
4 1942年9月にスタート。当初はドイツより先に原爆を開発することが目標とされた。

2――どこにでもいる平凡な男

わが国でトルーマン大統領について尋ねたならば、回答は「知らない」の他に「日本に原爆を落とした大統領」「トルーマン・ドクトリン5って世界史で習ったような」くらいであろうか。大統領就任までの略歴は下記の通りである。

・1884年、地理的に米国のほぼ中心に当るミズーリ州(以下、同州)の農家に生まれる。

・高校卒業後、職を転々とし農場経営に落ち着く。

・33歳と当時の兵士としては高齢であったが、志願して第一次世界大戦に加わりフランスに駐留。中隊長まで昇格。

・復員後、同州で衣料品会社を興すも失敗。

・1922年、戦友の縁者である地元民主党の有力者(以下、有力者)の薦めで同州ジャクソン郡の判事6選挙に出て当選。一度は落選するが主任判事として再選を果たし地方行政に従事。

・1934年、有力者の薦めで同州の上院議員選挙に出て当選。翌年首都ワシントンにオフィスを構える。このとき51歳。

・1940年、有力者が投獄されていたため困難と思われたが、同州の上院議員選挙で再選を果たす。折しも米国の軍事費が膨張を続ける中、上院で浪費や不正を正すトルーマン委員会を率いて知名度が向上する。

・1944年、民主党の副大統領候補に選出される。

・1945年、副大統領に就任。その後わずか3か月で大統領に就任。

大統領に就任したときは60歳であったが、平均寿命が今よりも短いこともあって、これ以前に60歳以上で大統領に就任した例は数えるほどしかない。今の感覚ならば、60歳を過ぎて初めて国政に出て、70歳台前半で大統領になったイメージであろうか。

若き日に何かをなしたという経験はなく、兵役を除けば上院議員になるまでミズーリ州で暮らしたこの人物は、元はどこにでもいる平凡な男であった。偉大なるルーズベルト大統領亡き後、米国の、そして世界の運命はこの平凡な男の双肩にかかることになった。
 
5 1947年3月、トルーマン大統領はソ連による共産主義圏拡大の脅威に対抗すべく議会演説を行った。世界のどこであっても自由主義国が脅威を受ける場合は米国の国防に関わるものとみなすとし、後にトルーマン・ドクトリンと呼ばれるようになった。
6 英語ではJudgeであるが、主には税の徴収などを行う行政官であった。

3――原爆投下の責任を負う

1945年8月、米国はわが国に開発したばかりの原爆を投下した。米国でも、世界唯一の被爆国であるわが国でも、その理由や背景について多数かつ多様な著述が出ているところである。概括するならば、

・原爆投下の代わりに日本の本土で地上戦を行った場合、多数の米国兵士の死傷が想定されたこと、

・共産圏拡大と日本への領土的野心を隠そうとしないソ連のスターリンに対し、米国の力を示す必要があったこと、

・莫大な予算と人員を費やして完成した原爆を交戦国に使用しないならば、議会に対し説明ができないと思われたこと、

・真珠湾攻撃や捕虜虐待などで日本を憎悪する米国民の感情を踏まえ、日本が受け入れ難くとも無条件降伏以外での戦争終結は難しかったこと、

などの要素が絡み合ってのものと論じられている。

原爆投下は当時在任であったトルーマン大統領の決定とされるが、公式な投下決裁文書は存在しない。わずか3か月前の大統領就任後に開発計画を知らされ、科学的知見も持たないトルーマン大統領が実質的に決めたことがあるとすれば、組織の既定路線に乗る、ということだけであったであろう。トルーマン大統領は自らの回顧録で議会に二十一カ条の教書を出した日を振り返り「1945年9月6日は、私が自力で大統領の職務を担当し始めた象徴すべき日であった」と書いている。特段の引継ぎもなく大統領に就任後、ドイツのポツダムに赴いてチャーチルやスターリンと対峙するなど困難な環境に置かれた身として、9月6日より前に自らの考えで動くことなどとてもできなかった7であろう。

原爆による惨状が広く知られるにつれ、当時の高官の中には政治的思惑もあって「原爆投下の必要はなかった」と述べる者たちが現れた。しかしそれは時が経過してからのことであり、原爆投下時点において米国政府内で反対意見は非常に少なかった8と言われている。

その一方、トルーマン大統領は終生、原爆投下の決定を正当であったと述べて1972年、88歳で世を去った。それが本心であったかは本人のみ知るところである。原爆投下の非人道性が強調されていく中、もしかするとわが国の転勤族サラリーマンのように「あの話はオレが来る前から決まってたんだ!」とでも言い訳したかったのかもしれない。しかし組織のトップが正当でなかったと述べては原爆開発や投下に携わった多くの米国民の立場もプライドもない。自らの決定として責任をすべて背負って死んでいった平凡な男はリーダーの身の処し方を知っていたのだろう。
 
7 半藤一利・湯川豊「原爆が落とされた日」(PHP文庫)364頁「戦争のスケジュールは、かれらを容赦ない力で前におしやった。それは、グローブス少将が回想録で描写したトルーマン大統領の姿が、象徴的に語っているであろう。「大統領はその時点では、承認するもしないもなかった。あたかもソリに乗った少年のようなものだった」かくて原爆投下計画は政治上の問題の域を脱した。」
8 海軍のバード次官はトルーマン大統領に投下中止を進言したと伝わる。

4――不人気を厭わず

大統領に就任して間もない第二次世界大戦の終結と原爆投下の決定ばかりではない。トルーマン大統領在任時の国際情勢の中で大きなものを挙げるだけでも、国連の発足、中国での共産党政権成立、ベルリン封鎖、イスラエル建国、NAТО(北大西洋条約機構)創設、朝鮮戦争勃発などがある。この頃に東西冷戦構造が確立したとは後の時代になってから言えることで、当時は核兵器使用を伴いうる第三次世界大戦に突入する危険と隣り合わせであった。

そのような中、成否はさておきトルーマン大統領が不人気となることを厭わず取った行動を3つ紹介したい。
1)人種差別撤廃:
19世紀に黒人奴隷は解放されたものの、この当時は米国内に人種差別は広く残り、特に南部州では公然と人種隔離政策が取られていた。

トルーマン大統領は大統領公民権委員会を組織し、その報告書に基づいての法制度整備を議会に求めるなど人種差別撤廃のための取組を進めていたが、自らが所属する民主党の南部州勢力からの反発も招くことになった。

1948年7月、同年の大統領選候補者を選ぶ民主党大会にて南部州勢力は退席した。候補者になったトルーマン大統領は、南部州勢力に対抗するかのように同月内に米軍における人種差別撤廃を義務付ける大統領令に署名した。脱党した南部州勢力は別の候補を大統領選に立て民主党は分裂選挙となり、支持基盤の弱まったトルーマン大統領の当選はメディアから絶望視された。

実際にはトルーマン大統領は逆転勝利9を飾った。1948年の時点でトルーマン大統領が南部州勢力に妥協していたならば、1964年の公民権法、翌年の投票権法成立に至る公民権運動の歩みはずっと遅れていた可能性もある。
 
9 トルーマン大統領は共和党候補が当選したとする誤報の新聞を手に持って写真に収まった。また、このときの議会選挙で上院下院とも民主党が過半数を奪還した。
2)国民医療保険導入:
貧困で治療を受けられない病人をみてきたこと、徴兵検査などで示される米国民全般の不健康さを知ったことからトルーマン大統領は国民医療保険導入が不可欠と判断するに至った。

早くも1945年9月の二十一カ条の教書で言及し、同年11月には国民医療保険導入を勧告する教書を議会に送ったことを皮切りに、在任期間を通じてトルーマン大統領は国民医療保険導入を目指した。

1948年の議会選挙で民主党が上下両院の過半数を制し実現の機運が高まるに際し、かねてより国民医療保険に反対の姿勢をとってきた米国医師会は危機感を露わに「社会主義医療」と酷評し猛烈な反対活動を展開した。また、民主党議員の中でも南部州出身者は国民医療保険を通じ病院で人種統合が行われることを懸念し反対にまわった。

折しも国際情勢の緊迫化もあって、トルーマン大統領は抵抗勢力を打ち崩せないまま任期を終えた。その後、民主党政権による部分的な公的制度導入10はあったものの、現時点においても米国民全員を対象とする公的な医療保険制度は存在しない。医療保障だけが社会福祉ではないものの、トルーマン大統領在任時に国民医療保険がもし導入されていたならば、現代に生きるわれわれは「自己責任」や「小さな政府」といった低福祉のイメージを米国に対して抱いたであろうか。
 
10 1965年に高齢者向けのメディケア(後に障害者も対象に加わる)と低所得者向けのメディケイド、1997年に児童を対象に低所得家庭の範囲を拡大したCHIP(州児童医療保険プログラム)が導入された。メディケイドとCHIPは連邦政府による財政支援を受けつつ各州が運営する制度である。2010年にはオバマケアの中でメディケイドの加入資格拡張が定められたものの、連邦最高裁による違憲判決を受けて拡張実施は各州の任意とされた。どれも民主党政権による。
3)文民統制:
1951年4月、朝鮮戦争で休戦を模索していたトルーマン大統領は国連軍司令官のマッカーサー元帥を解任した。

マッカーサー元帥は核兵器使用も視野に入れ戦線の拡大を希望していたが、独自に声明を出して世論を形成しようとする手法はトルーマン大統領の容認するところではなかった。外交政策はあくまで選挙で国民に選ばれた政治家が決するものであり、軍人など他の者が行っては国を誤らせるという文民統制の考えに基づく解任であった。

とはいえ積極策を主張し人気のあったマッカーサー元帥を解任したことは、弱腰批判とともにトルーマン大統領の不人気につながった。

時代と国は異なるが、トップとして責任を負い、不人気を厭わず信じるところを進めたトルーマン大統領に、わが国のリーダーたちも学ぶところは多いのではないだろうか。
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保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴 (いそべ ひろたか)

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴
  • 【職歴】
    1990年 日本生命保険相互会社に入社。
    通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
    日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
    2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
    資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

    【加入団体等】
    日本FP協会(CFP)
    生命保険経営学会
    一般社団法人アフリカ協会
    2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

(2023年12月15日「研究員の眼」)

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