2024年04月04日

米国で政争に巻き込まれる体外受精-アラバマ州最高裁判決の波紋-

保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴

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1――はじめに

本年2月16日、米国南部アラバマ州の最高裁判所は体外受精後に凍結された胚を子どもとみなすとの判決を下した(以下、アラバマ州最高裁判決)。凍結胚を破棄した場合はその責任を問われることになる。

胎児は既に生命であるとの前提の下、妊娠中絶に反対する考えを米国ではプロライフ(Pro-Life、生命重視)と称する。アラバマ州はプロライフが強く、母体の生命の危険などの緊急事態を除き、州法で妊娠期間を問わず中絶を禁止している。その思想の延長線上として、凍結胚を生命とみなし尊重する判断はありえるものの、実際に凍結胚の破棄に法的責任が生じるとなれば医療関係者が体外受精に従事することを困難にする。

米国では1980年代より中絶禁止を求めるプロライフが共和党と結びついて政治勢力化し、これに対し中絶支持派は民主党と結びつき政治論争が継続1してきた。このレポートでは、今般のアラバマ州最高裁判決を受けて体外受精が中絶問題と同様に政争に巻き込まれつつある現状をお伝えしたい。
 
1 詳細は拙稿「ドブス判決と米国の分断-各州が中絶を禁止できる米国になって1年-」(2023.8.7)第4章を参照いただきたい。

2――アラバマ州最高裁判決

2――アラバマ州最高裁判決

2020年、アラバマ州の体外受精を行うクリニックで1人の患者が凍結胚の保存場所に迷い込み、他の患者の凍結胚を取り出し落下させることで破損させた。これに対し3組の夫婦がクリニック側に対し訴訟を提起の上、同州の未成年者不法死亡法2における責任を問うた。

一審は凍結胚について未成年者不法死亡法における保護対象ではないとしたところ、本年2月のアラバマ州最高裁判決はこれを覆し、凍結胚は子どもとみなされると判示した。また、未成年者不法死亡法は全ての出生前の子どもに対し、どこにあっても(たとえ子宮外であっても)適用されるとした。主席判事による補足意見は「受精の瞬間から、人はそれぞれ神の似姿を反映するよう創造されたと信じる」など宗教観に満ちており、同州の体外受精業界に壊滅的な打撃を与えるとの反対意見に対しては、欧州と異なり米国は規制が乏しい点を指摘しつつ、立法府で対応を決めるべき問題としている。

尚、アラバマ州は共和党色が濃く、判事はすべて共和党支持者であったと報じられている。

この判決は即座に波紋を巻き起こした。事案となった過失による破損でなくとも、一般に凍結胚を破棄する必要が生じるためだ。体外受精は必ず成功するわけではないことから数に余裕を持って行われるため、使われない胚が生じる。永遠に凍結保存するとなれば大変な費用を伴うし、両親が死亡した場合に誰が責任を継続するのかという問題もある。全米では凍結胚が150万以上ある3とも言われている。

この判決の後、アラバマ大学内の診療所など同州内のクリニックが体外受精を見合わせる動きが報じられた。
 
2 Wrongful Death of a Minor Act。この法律が制定された1872年に体外受精は行われていなかった。
3 Johns Hopkins Bloomberg School of Public Health: The Alabama Supreme Court’s Ruling on Frozen Embryos (2024.2.27)

3――距離を置く共和党

3――距離を置く共和党

共和党の大統領候補になることが確実視されていたトランプ氏は、判決から1週間後の2月23日、体外受精を強く支持すると表明し、アラバマ州の議員は体外受精を引き続き行えるよう対応すべきだと呼びかけた。

他には共和党上院選の広報責任者が「体外受精を禁止したい共和党の上院議員は1人もいない」と表明するなど、共和党の政治家の多くが今般のアラバマ州最高裁判決から距離を置こうとしている。

中絶問題でプロライフに支持されてきた共和党であっても、既に米国内で普及した体外受精を妨げれば本年11月の大統領選挙/連邦議会選挙で勝てないとの判断があるためだ。
【図表1: 2021年の州別出生数データ】 図表1は、2021年の総出生数のうちART(Assisted Reproductive Technology)による出生数の比率を示している。尚、ARTの99%以上は体外受精と明記されている。

全米では総出生数の2.3%に相当する8.6万人強がARTによって誕生している。尚、全米各州のうち最も比率が低いのは今般の判決が出されたアラバマ州の0.6%である。
現時点で本年11月の大統領選挙において鍵を握ると目される激戦7州4を見たところ、ART出生数比率が全米平均より高いのはペンシルバニア州のみながら、他の6州も1.7%以上と全米平均より著しく低い水準ではない。

他方、母体年齢別のARTによる出生数割合について図表2の2023年データを参照いただきたい。40歳から44歳では9%弱、45歳以上になると31%強がARTを利用している。

体外受精ができなくなった場合、特にこれらの年齢層より強烈な反発が予想される。
【図表2: 2023年の母体年齢別ARTによる出生数割合】
前述の通りアラバマ州のART出生数比率は低いものの、今般のアラバマ州最高裁判決によって体外受精が実質的に利用できなくなっては州民の理解を得られないと判断した州議会(共和党多数)が動き、体外受精に従事する医療関係者を法的責任から保護する法案が可決された。

3月7日、同州のアイビー知事(共和党)がこの法案に署名した。
 
4 大統領選挙においては基本的に各州別の勝者がその州の選挙人を総取りする。多くの州では選挙前から共和党と民主党のどちらが勝つか確実視されており、勝敗が読めない少数の激戦州の結果が実質的に勝敗を左右する構造にある。本年11月の大統領選挙においては図表1に記載したアリゾナ州、ジョージア州、ミシガン州、ネバダ州、ノースカロライナ州、ペンシルバニア州、ウィスコンシン州が激戦州と目されている。

4――争点にしたい民主党

4――争点にしたい民主党

奇しくも同じ3月7日、民主党のバイデン大統領による一般教書演説が連邦議会で行われた。この場にアラバマ州より招かれた女性を紹介し、14か月前に体外受精で出産し、さらに体外受精で第2子の出産を準備していたところ、今般のアラバマ州最高裁判決のために中断されていると述べた。そして、このような事態を避けるため体外受精の権利を全米で保障すると強調した。

一般教書演説に先立ち、同日、ホワイトハウスはホームページに「バイデン・ハリス政権は生殖自由のための戦いを続ける」と題するファクトシートを登載5している。中絶の権利を憲法上認めたロー判決6が2022年に連邦最高裁で破棄されて以降、共和党主導で中絶が禁止されている州で多くの女性が苦しむ現状を示しつつ、バイデン政権は中絶へのアクセスを保護していく旨、包括的に訴える長文である。この中でアラバマ州最高裁判決とその影響は子どもを望む家族を挫折させるものと位置付けられている。

このファクトシートの中でも触れられている通り、時間は前後するが2月28日、上院で体外受精などARTの利用を全米で保護する法案が否決された。同法案を共同提出した民主党のダックワース上院議員7は、アラバマ州最高裁判決が報じられた後は体外受精を擁護すると語りながら同法案には反対した共和党上院議員の偽善を非難した。同法案の提出はアラバマ州最高裁判決の前月であったもののこのタイミングで全会一致での採択を求めたことは、その偽善を世に知らしめることが目的の一つであったとも推測される。

民主党にとっては、アラバマ州最高裁判決が惹起した体外受精利用への不安を風化させるわけにはいかない。2022年11月の中間選挙では、民主党の大敗が予想されていたにも関わらず、上院では過半数を維持し下院の過半数は共和党に奪われながらも僅差に止めることができた。これは同年6月に前述のロー判決が破棄されたことが一因と分析されている。共和党政権の任命による保守派判事が多数を占めるようになった連邦最高裁において、中絶が憲法上の権利と認められなくなったことから、今後に不安を感じる層の票が女性の自由な選択を重視し中絶を支持してきた民主党に集まったとされる。

来る大統領選挙で共和党のトランプ氏の支持率がバイデン大統領に先行している状況の下、2022年中間選挙の成功体験を踏まえ、民主党が今後の両候補の論争の中で決して埋没させたくないのが中絶問題である。加えて、子どもが生まれない中絶とは逆の方向、「子どもがほしい」という思いで行われる体外受精ができなくなる、それはプロライフすなわち共和党の凝り固まった思想や宗教観によるとの主張は米国民への訴求力を高めることになろう。
 
5 FACT SHEET: Biden-⁠Harris Administration Continues the Fight for Reproductive Freedom
6 1973年のRoe v. Wade, 410 U.S. 113。内容は拙稿「ドブス判決と米国の分断-各州が中絶を禁止できる米国になって1年-」(2023.8.7)第3章を参照いただきたい。
7 体外受精によって2児の母となった。第2子は上院議員在任中に出産。

5――おわりに

5――おわりに

本年3月26日、不祥事で辞任した共和党議員の後任を決めるアラバマ州議会議員補欠選挙が実施された。前回の落選を経て出馬した民主党候補は、中絶と体外受精の問題を前面に出し自らの中絶の経験を語り、大差で共和党候補を破った。敗北した共和党候補は中絶と体外受精の問題には触れることなく地域問題を中心に選挙戦を展開していた。

通例ならば全米メディアで取り上げられることのない地方選挙が広く報じられるのは、その中に来る大統領選挙/連邦議会選挙の構図が透けて見えるからであろう。

国政における争点は他にも経済や移民など多々あるが、方法論に終始するなど米国民にとってわかりにくくなればなるほど中絶問題が浮き上がってくる。これに体外受精の可否も加われば選挙結果への影響は少なくないものと思われる。

アラバマ州最高裁判決が惹起した体外受精利用への不安から距離を置きたい共和党、逆に争点にしたい民主党との綱引きに引き続き注目したい。
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保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴 (いそべ ひろたか)

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴
  • 【職歴】
    1990年 日本生命保険相互会社に入社。
    通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
    日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
    2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
    資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

    【加入団体等】
    日本FP協会(CFP)
    生命保険経営学会
    一般社団法人アフリカ協会
    2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

(2024年04月04日「基礎研レポート」)

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