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メディケイドとCHIP:米国の医療セーフティネット-コロナ後の通常運営で加入者は減少中-
保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴
1――はじめに
保険料が高額であることもあって、富裕層は立派な民間の医療保険に加入できるけれども低所得者には加入が難しい。その現実から自己責任、小さな政府、ひいては弱肉強食などステレオタイプの米国のイメージが浮かんでくるところだが、上述の通り低所得者にはメディケイドという公的制度がある。
実際のメディケイド加入者は、新型コロナウィルス感染拡大時に膨らんだ後で減少傾向にあるものの、それでも米国民の2割を超えているとみられる(第7章参照)。
このレポートでは、わが国では語られることの少ない米国の低所得者向け医療保険メディケイドと、さらに児童向けに対象範囲を拡大したCHIPについて、経緯と現状を論じていきたい。
2――公的制度の挫折と民間医療保険の普及
急速な経済発展は貧富の格差を拡大させ、20世紀に入る頃には看過できない社会問題となっていた。知識階級を中心に改革が検討される中、1905年に設立された米国労働立法協会は公的な医療保険の発足を目指した。
1911年に英国で国民保険法が成立したことにも刺激され、1915年、米国労働立法協会と米国医師会はドイツの制度1に範を取り各州が労働者向けの医療保険を導入するためのモデル州法案2を発表した。
しかし1917年に米国が第一次世界大戦に参戦すると医療保険への関心は下がり、また、敵国ドイツの制度を手本としていることが反対派からの攻撃材料ともなった。特に大きな影響を与えたのは米国医師会が反対の立場に転じたことであった。実際に各州で議論される中で多くの医師が自らの患者との関係に州政府が介入することに否定的な見解を抱くようになる中、1920年、米国医師会は如何なる形でも医療保険を義務化することに反対の意思を公式表明した。
最終的に米国労働立法協会のモデル州法案を採用する州は現れずに終わった。
尚、この時期には既に民間医療保険が登場していたものの、医師と患者との関係に介入するという懸念は同じであるため米国医師会は否定的なスタンスを保ち、普及は限定的であった。
1 公的制度として医療保険を初めて導入したのはドイツ帝国の初代宰相ビスマルク(1815年~1898年)である。
2 天野拓「オバマの医療改革」(2013年)3頁によれば「(1)給付内容は、医療、手術、看護などを含む包括的なものとする、(2)4日間から最大26週間、週給の3分の2に相当する金銭的な給付を提供する、(3)出産や、(4)葬送費用に対する給付(最大50ドルまで)も保険対象に含める、といった点を特徴としていた。保険料は、労働者、雇用主、州政府が分担し、その拠出割合は、それぞれ労働者(40%)、雇用主(40%)、州政府(20%)と定められた。」
1929年の大恐慌の後も失業率が高止まりする中、1935年、民主党のフランクリン・ルーズベルト政権はニューディール政策の一環として社会保障法を成立させた。失業保険と老齢年金という2つの社会保険を中心とする同法は、大恐慌からの立ち直りを企図した労働政策の色が濃いものの、包括的な3社会保障制度を成立させた点において画期的と評価してよいだろう。
半年強の準備期間で立案された同法であったが、医療保険は検討の過程で除外された。
原案を作成するスタッフが医師ではなく公衆衛生学者であったこと、米国労働立法協会の会員でもあり当初案は1915年のモデル州法案と大差なかったことから、米国医師会の反発を招いた。米国医師会が強制的な医療保険に反対する旨の決議を採択する中、州の裁量を拡大するなど法案に修正が施されたものの、最終的にフランクリン・ルーズベルト大統領は医療保険を除外する決断を下した。医療保険が入ることによって、ニューディール政策の一環たる社会保障法案の成立が妨げられる危険を回避するためであった。
尚、法案修正の過程で州が低所得者を強制加入対象から外すことが認められた点については、中産階級が民間医療保険に加入し低所得者には医療費を扶助すればよいという考え方を導くことにもなった。
同じ頃、反対の姿勢を取っていた各地の病院や医師たちから民間医療保険の新局面が開かれつつあった。非営利で病院が運営し病院サービスを対象とする保険はブルークロス4と呼ばれ、1930年代前半に広がっていた。また、地方の医師会が認め医師サービスを対象とする保険はブルーシールド5と呼ばれて1940年代に普及していく。
3 但し当初は失業保険も老齢年金も加入者の職種が限定され、主に正規雇用の労働者が対象であった。
4 1929年、テキサス州のベイラー大学病院が医療費の高騰に悩む教員グループを対象に1人年間6ドル前払い制の保険を始めたことがブルークロスの嚆矢とされる。
5 1939年、カリフォルニア州は州医師会が運営し任意加入による医療保険を承認した。非営利団体とされ、保険業に関する規制の対象外であることも確認された。
第二次世界大戦中の1945年4月、フランクリン・ルーズベルト大統領は他界しトルーマン氏が副大統領より昇格した。トルーマン大統領は社会保障法から脱落した医療保険を国民皆保険として導入することに意欲を示したものの、1946年の中間選挙で上下両院とも過半数を共和党に制された。
折しもソ連との対立が深まっていく中、共和党や米国医師会は国民皆保険案を社会主義化6と痛烈に批判した。1948年の大統領選挙では民主党が分裂し支持基盤が弱まったにも関わらず、トルーマン大統領は番狂わせの当選を果たした。また、上下両院とも民主党が過半数を奪還し公的医療保険発足の期待が高まった。
しかし事は順調に進まなかった。議会で要職を占める南部州出身の民主党議員が共和党議員と同様に反対の姿勢を示した。その一因として、人種隔離政策を取っていた南部州では、医療保険導入で連邦政府が病院などでの人種統合に着手することへの懸念があったとされる。また、危機感に煽られた米国医師会は猛烈な反対運動に傾いていった。国民皆保険案に対し従前からの社会主義化批判を加えるのみならず、現状に鑑み一部戦略を転換し民間医療保険を支持する立場を取った。
戦時下に遡る1942年、企業には一定以上の賃金引上げを禁じる賃金統制が課されたものの医療保険料は対象外であったことから、優秀人材確保のために民間医療保険を導入する企業が増えていった。医療保険料に税制優遇措置が認められたこともこれを後押しした。前述のブルークロス/ブルーシールドを含めた民間医療保険加入者は1940年の人口比9.3%から、1948年には同41.5%に至った7。さらには、公的医療保険を支持していた労働組合においても、労使交渉を通じた民間医療保険の獲得や拡充に注力するようになっていった8。このような状況下、代案なくしては広く支持を得られないと判断した米国医師会は、国家に管理される公的保険ではなく、民間医療保険の拡張路線に舵を切った。
折しもトルーマン政権時代は、東西冷戦構造が固まり朝鮮戦争が勃発するなど対外情勢が緊迫した時期でもあり、政権末期には国民皆保険案は顧みられなくなっていた。
6 V. R. ヒュックス「保健医療の経済学」(1990年)には「第二次大戦後、ソ連邦からの亡命者たちが西欧でインタビューを受けたとき、彼らは例外なく西側世界を礼賛し、ロシアでの生活を告発したが、それには重要な例外が一つだけあった。亡命者たちはソビエト国家が提供する包括的な医療保険を失ったことを嘆いたのである(Field, 1967)。」との記述がある。
7 山岸敬和「アメリカ医療制度の政治史 20世紀の経験とオバマケア」(2014年)79頁。
8 長谷川千春「アメリカの医療保障 グローバル化と企業保障のゆくえ」(2010年)60頁には「UAW(United Auto Workers)のReutherは、1946年の時点で早くも、「われわれが政府に救済を求めるという信念に希望を与えるような証拠は何もない。近い将来、労働組合が労使交渉を通じてそのような保障を獲得できる範囲に限って、われわれは保障を勝ち取れるであろう」と言明していた。」とある。
3――社会保障法改正によるメディケイド導入
1950年代に民間医療保険が普及していく中、退職した高齢者が取り残され9、その救済のため公的制度の必要性が議論10されるようになった。共和党のアイゼンハワー政権ならびに民主党のケネディ政権時代にメディケア法案として高齢者11向け制度の検討が続いたが、現実化の契機となったのはジョンソン大統領12が「偉大なる社会」(Great Society)を標榜し1964年の大統領選挙で圧勝したことである。
議会選挙でも同時に民主党が大勝を果たし、同党内でもメディケアに反対する保守派が減少した。立法化が確実視される中、反対の姿勢を取っていた米国医師会も態度を軟化せざるを得なくなり、最終的な検討の中で加わった13のがメディケイドである。年齢を問わず貧困層を救済するという目的に加えて、導入は各州の任意、運営に関して各州の裁量が大きいなど、反対の可能性が少ない制度設計であった。
議会ではメディケアについて活発な議論が行われたものの、メディケイドは顧みられることが少なく居眠り制度(sleeper program)と呼ばれながら成立に至った。
尚、メディケイドを盛り込んだ社会保障改正法は1966年7月に施行されたが、前述の通りメディケイドの導入は各州の任意のため、施行後全米で速やかに採用されたわけではない。最後となったアリゾナ州が導入したのは1982年であった。但し同州の他は1972年までに導入済であったため、この頃までにほぼ全米の制度になったと評してよいだろう。
9 割安な保険料を提示して事業の拡大を図るため、営利保険会社は企業の現役従業員のみを対象に、良好な健康状態を前提とした経験料率を採用した。非営利団体であるブルークロスとブルーシールドも生き残りのためにそれまでの地域料率から移行するようになった。
10 退職後も医療保険を継続する要望を受ける中、現役組合員の負担増を避けたい労働組合としては高齢者向けの公的医療保険導入を支持するスタンスをとった。
11 メディケアの対象に障害者が加わったのは1972年であり、制度発足時点では検討に含まれていなかった。
12 ジョンソン大統領はケネディ前大統領の暗殺を受けて前年に副大統領から昇格していた。
13 社会保障研究所編「アメリカの社会保障」(1989年)246頁には「メディケイドを1965年の社会保障改正法に盛り込むかどうかは、Mills上院議員の「メディケアは、全国民を対象とした強制的医療保険制度の導入の橋頭保として位置づけられることから反対である、という反対論に対してどう答えていくのか」という問いかけがきっかけになって実現したと言われている。すなわち、この問いに対し「法案に低所得者階層を対象とした別の制度を盛り込むことによって、このような批判をかわすことができるのではないか」とし、メディケイド法案が作成されていった」とある。
14 退役軍人向けには古くより診療所などの医療サービスがあったが、第二次世界大戦で多数の退役軍人が見込まれる中、1944年に退役軍人援護法が成立し大きく充実した。
03-3512-1789
- 【職歴】
1990年 日本生命保険相互会社に入社。
通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。
【加入団体等】
日本FP協会(CFP)
生命保険経営学会
一般社団法人アフリカ協会
2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版
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