2023年08月07日

ドブス判決と米国の分断-各州が中絶を禁止できる米国になって1年-

保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴

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5――連邦最高裁判事の構成

米国において、連邦最高裁判事の任命は必ずと言ってよいほどテレビニュースのトップで報じられる。誰が最高裁判事になるかによって司法の最高判断が変わりうるからであり、これまで述べてきた中絶に関する判例の変遷も最高裁判事の構成変化を反映していると言えよう。

1)一般的な事情
連邦最高裁判事は大統領が任命し上院の承認を得る必要がある。よって連邦最高裁の構成、保守派とリベラル派の比率は任命する大統領が選出された際の民意が反映されるべきところ、以下の事情により必ずしもそうなるとは限らない。

(1) 連邦最高裁判事の任期は終身のため、どの大統領のときに交代が起きるか、すなわち新しく任命を行えるか予測できない。

(2) 定員9名は明文化されていないため増員は可能であるものの、大統領が恣意的な司法支配を企んでいるとみなされ35実際には難しい。

(3) 大統領と同じ政党が上院の過半数を握っていない場合、上院の承認を得られずに終わる36ことがある。

さらに、任命された判事が必ずしも任命した大統領の意向に沿うわけではない37ことにも注意を要する。
 
35 1937年、2選を果たした民主党のルーズベルト大統領は70歳以上で退任しない連邦最高裁判事1名に対し同等の権限を持つ判事1名を任命する計画を発表した。実現すれば判事は最多15名まで増える可能性があった。その背景には連邦最高裁がニューディール政策関連の法律に次々と違憲判決を出してきたことがあったが、前年の大統領選で圧勝した後にも関わらず広く支持を得ることはできなかった。
36 スカリア判事の死去を受け、2016年5月、民主党のオバマ大統領はガーランド氏を任命したものの、上院で多数を握る共和党は11月の大統領選が近いことを理由に承認のための投票を行わず、ガーランド氏の就任は実現しなかった。一方、ギンズバーグ判事の死去を受け、2020年9月に共和党のトランプ大統領がバレット氏を任命した際は、大統領選まで2カ月を切っていたにも関わらず投票を決定し同年10月に承認された。
37 1954年、共和党のアイゼンハワー大統領は保守派と期待してウォーレン氏を任命した。実際にはウォーレン氏が主席判事を務めた時代(Warren Court)に連邦最高裁はリベラルな姿勢を保ち、アイゼンハワー大統領はウォーレン氏を任命したことに対し最大の間違いだったと口汚く述べたと伝わる。
2)ロー判決以後の推移
前述の通りロー判決は7名という多数の判事の賛成によって決せられた。そのうち5名は共和党が任命した判事であり、これらの判事が任命された時点38では中絶の可否に関するスタンスは保守派の要件として大きなものでなかったことが伺える。

その後、中絶禁止を明確に打ち出すレーガン大統領が登場し、共和党政権による判事任命39を経て連邦最高裁の保守化が進んでいく。
【図表2:ロー判決(1973年)以後の連邦最高裁判事任命数】 ロー判決以降、共和党政権と民主党政権の期間に大差がないにも関わらず、前者が任命した連邦最高裁判事の数は後者のそれの2倍を超えている。背景は前項で述べた通りである。

流れとしては、1980年代以降の連邦最高裁の保守化が1989年のウェブスター判決や1992年のケイシー判決につながり、ロー判決は破棄まであと1歩のところまで追い込まれる。しかし民主党政権が誕生し1993年と1994年にクリントン大統領がリベラル派判事2名を任命したことで安泰な状況が生み出された。その後、オバマ大統領が判事2名を任命したことで揺り戻しはあったものの、基本的には再び共和党政権による任命が多くなった。特筆すべきはトランプ大統領が4年間の在任期間の中で2017年以降3名の判事任命に成功したことである。

次章のドブス判決時点では共和党任命判事6名、民主党任命判事3名の体制であった。尚、ロー判決のときは判事全員が男性であったところ、ドブス判決では3名40が女性判事である。
 
38 ブレナン判事が最も古く1957年、最も新しいパウエル判事が1971年の任命である。
39 但しレーガン大統領が就任後に初めて任命したのは女性で中絶に関するスタンスが不明とされるオコナー氏であった。女性の連邦最高裁判事任命も公約にしていたためであるが、中絶禁止派は不満を呈し上院での共和党議員による反対も懸念されたものの、最終的にオコナー氏は全会一致で承認され、初の女性連邦最高裁判事に就任した。
40 現時点では2022年4月に上院の承認を得たジャクソン判事を含めた4名であるものの、ドブス判決にはジャクソン判事の前任のブレイヤー判事(男性、退任は同年6月30日)が入っている。両名とも民主党政権の任命である。

6――2022年 ドブス判決

6――2022年 ドブス判決

1)事案と概要
2018年3月、ミシシッピ州で妊娠期間法が制定された。同法は、妊娠15週以上の場合、医療上の緊急事態または重度の胎児異常を除いて、中絶を行い、誘発し、試みてはいけないとする。強姦や近親相関に関する例外規定はない。

同州内の中絶施設と医師が同法の差止め命令を要求する訴訟を提起したところ、連邦地裁も控訴審裁判所も同法を違憲とした。連邦最高裁は2021年5月に上訴を受理した。保守派の判事が多数を占めている状況などから中絶禁止派がロー判決破棄を期待する中、2022年5月には同年2月時点の法廷意見原案が漏洩し報じられるという前代未聞の事態が発生した。こうして全米の関心を集める中、同年6月24日、ついに判決が下された。

結論は漏洩された原案と大きく変わることなく、賛成6名反対3名で同法を合憲とする一方、判事5名41による法廷意見はロー判決ならびに1992年のケイシー判決を破棄した。ロー判決を「最初から著しく間違っていた42」とまで酷評しつつ進められた判示は、米国における中絶の権利への憲法上の保障を終了させるものであった。
 
41 ロバーツ主席判事は同法を合憲とする結論に同意しつつも、この事案ではロー判決とケイシー判決の破棄までは必要ないとし法廷意見には加わっていない。
42 原文はRoe was egregiously wrong from the start.である。
2)法廷意見の概要
(1) 米国の歴史と伝統からの判断
ロー判決は憲法修正第14条を根拠に中絶の権利を認めた(実体的デュー・プロセス論)が、同条で守られる権利は米国の歴史と伝統に深く根ざし、秩序ある自由という概念の中で黙示されている必要があるとする。

その上で、コモン・ロー時代は胎動初覚後の中絶は犯罪とされたこと、19世紀には大多数の州が刑事罰で中絶を禁止していたことなどから、中絶の権利は同条で保護されるものではないとした。

尚、ロー判決が示した中絶の歴史は、その多くは憲法に無関係であり、コモン・ローでは中絶は犯罪でなかったとしたことを例に、一部は単に間違っていたと記している。

(2) 先例拘束性の否定
判例を覆すことは重大であり軽々に行うべきではないと言及しつつも、連邦最高裁は従来も先例拘束性を避けられない命題ではないと捉えてきたことを示し、ロー判決とケイシー判決を破棄した。

尚、中絶の権利を認めた象徴性からロー判決が人口に膾炙しているが、その後に不当な負担基準を定めたケイシー判決も先行判例であることから、同時に破棄する必要があった。

(3) 立法機関への返還
但し、中絶の権利を否定する判断を下したわけではない。中絶の可否とその制限は、民主主義における重要な問題と同様に、市民が互いに説得し投票することによって解決されるべきとした。すなわち、判断の権限を立法機関に返還したと言える。
3)反対意見の指摘
廷意見に対しリベラル派判事3名43が反対意見を示した。その中で繰り返し述べられているのは、中絶を禁止した州に居住する貧しい妊婦の問題である。貧しい妊婦は中絶を認める他の州に行くだけの経済的余裕はなく、仕事や育児を休むこともできない。よって安全と言えない方法で中絶を試み、身体や生命を危険にさらす結果となる。

また、中絶を禁止する州はいずれ、妊婦が中絶のために州外に出ること、州外から中絶薬を受領すること、州外で中絶を受けるための情報や資金の提供も犯罪とする可能性があると指摘している。
 
43 ブレイヤー、ソトマイヨール、ケイガン。いずれも民主党政権が任命した判事である。
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保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴 (いそべ ひろたか)

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴
  • 【職歴】
    1990年 日本生命保険相互会社に入社。
    通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
    日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
    2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
    資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

    【加入団体等】
    日本FP協会(CFP)
    生命保険経営学会
    一般社団法人アフリカ協会
    2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

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