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気候変動問題の生保への影響-アメリカのアクチュアリー会の議論を参考に
保険研究部 主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員 篠原 拓也
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1――はじめに
生保会社の場合、保険事業そのものへの影響も見逃せない。具体的には、死亡率をはじめとした各種の保険事故発生率への影響、保険契約者による解約などの行動変化、それらに対応するための追加費用の発生、などが検討のポイントとなる。
アメリカのアクチュアリー会ではこうした影響や対応策について、議論が行われている2。本稿では、その議論を参考に、気候変動問題の生保への影響について見ていくこととしたい。
1 ESG債は、環境改善効果や社会開発等に資する事業といった、ESG関連の課題解決を資金使途とする債券。グリーン債は、ESG債のうち環境改善効果をもたらすことを目的としたプロジェクトに要する資金を調達するために発行される債券。(「金融機関のための気候変動リスク管理」藤井健司著(中央経済社, 2020年)の第2章より)
2 議論の概要は、“Climate Risk Analysis for Life and Health Insurance Companies” Written by Didier Serre, FSA, MSc (June 2022)として、公表されている。
2――気候変動リスク分析の課題
1|気候変動リスクは複雑
気候変動リスクは、大きな不確実性を有しており、潜在的な影響を定量化することは難しい。その不確実性は、次のリスク特性に起因する。
(1) 複雑な連鎖反応
ある気候変動の事象が保険事故を引き起こし、保険金の支払いにつながるまでの経路は複雑である。ひとくちに、気候変動の事象と言っても、ハリケーン、台風、豪雨による風水災のように数日の間に急激に環境が損なわれる“急性のリスク”と、海面水位の上昇による居住環境の喪失のような長期間に渡る“慢性のリスク”がある。保険事故発生までの経路には、要因として、時間軸の異なるリスクの発現が含まれて複雑になることがある。
また、要因の中には、堤防や橋梁などのインフラの強度向上、住民の避難場所の設置や周知など、防災・減災に向けた人為的要素も含まれる。このため、連鎖反応を見定めることは簡単ではない。
(2) リスクの相互依存性と極端さの高まり
事象の中には、相互に依存するものもある。例えば、ある国において、水、食料、エネルギー等の資源不足と、国家の脆弱性は相互に依存する。その結果、両方の事象が深刻化してリスクを増幅させることもある。
また、そうした国で地域紛争が起こると、紛争→国家の脆弱性→資源不足→さらなる紛争拡大といった悪循環が生じて、リスクを増幅させる可能性もある。このようにして、気候変動の極端さが高まることもある3。
3 要因間を循環するうちにリスクが増幅していくものは、「正のフィードバック効果」と呼ばれる。
気候変動リスクの特徴として、トリガーや転換点の存在も挙げられる。例えば、地球温暖化が進み、気温が転換点を超えると、環境に不可逆的な変化が生じる。すなわち、その後、気温が下がったとしても、元の環境には戻らなくなる。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第1ワーキンググループが2021年に公表した第6次評価報告書によると、ある状態からの自然なプロセスによる回復が、対象となる時間軸に比べて大幅に長くかかる場合、「特定の時間軸で、不可逆的」とされる。不可逆的な変化には、回復までに何千年もの時間を要するものもある。また、ある生物種が絶滅することにより、生態系が変化してしまい、完全に同じ姿に回復することはできない、といった事象も含まれる。
(4) 二次や三次の影響があり、一次の影響を上回ることも
気候変動によって生じる影響には、一次の影響の他に、二次、三次の影響が生じるものもある。例えば、台風や豪雨の災害では、家屋の倒壊等により人々が死亡や傷害に至る一次の影響がある。しかし、それだけではない。避難所での生活が長期化するにつれて、避難者が持病の悪化や精神疾患の発症に至る。水道などの衛生環境が損なわれて、感染症の発生リスクが高まる。被害が甚大で生活再建や地域経済の回復に長時間を要する、といった二次、三次の影響が生じることもある。
場合によっては、こうした二次、三次の影響が、一次の影響を大きく上回ることもある。気候変動リスクとしては、被災後の長期的な影響を無視できないこととなる。
(5) 極端さの持続的な上昇
気候変動問題は、長期的に見ると、徐々に極端さが高まっていくものが多い。例えば、温暖化が進み、乾燥や落雷など条件が揃うと、広域に渡る深刻な森林火災が発生しやすい4。気候の極端さが高まることで、大規模な干ばつ、洪水の頻発といった事象も発生している。
さらに、気候変動リスクには、エマージング・リスクの要素を持つものもある。例えば、地球温暖化に伴う生物多様性の喪失、カーボン・プライシング等の温暖化対策の導入による移行リスクの発現など、極端さの定量化はおろか、リスクを具体的に抽出すること自体に困難を伴うものもある。
4 近年、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなど、世界各地で大規模な森林火災が頻発している。
一般に、モデリングは、様々なシナリオに結びついた仮定に依存している。極端なシナリオだけでなく、最も蓋然性が高いと見られるベスト・エスティメイト、のシナリオも重要となる。
通常、ベスト・エスティメイトのシナリオは、過去のデータと経験に基づいた仮定をベースにする。だが、気候変動リスクは多くの不確実な要素を有しており、シナリオ設定が困難となる。
例えば、IPCCの第5次評価報告書に見られる代表的濃度経路(RCP)のシナリオは、2100年までの温室効果ガス排出と、それに伴う地球の気温上昇の経路を提示している。また、同第6次評価報告書の共有社会経済経路(SSP)のシナリオには、社会経済的な地球規模の変化の予測が含まれている。しかし、実際には、炭素回収や貯留(CCS)5などの炭素排出削減に向けて、現在、まだ商業化されていない新技術がある。これらの技術の展開をシナリオにどう組み込むかといった課題を抱えている。こうした不確実な要素について甘い想定を行えば、大きな批判を受ける恐れもある。
5 Carbon dioxide Capture and Storageの略で、二酸化炭素を分離・回収し、地中などに貯留する技術のこと。
モデリングを行う上で、データを収集して、分析することは不可欠と言える。その際に問題となるのが、データの属性づけである。気候変動リスクの特性を踏まえた場合、どのようなデータが気候変動の様子を的確に表現するか、検討が必要となる。
例えば、二次や三次の影響を踏まえると、台風や豪雨の災害の影響を、家屋の倒壊等により亡くなったり、ケガをしたりした人の数(=一次の影響)だけで見るのは、不十分ということになろう6。
6 2017年9月にカリブ海を襲ったハリケーン・マリアによるプエルトリコでの死者数は、自治政府より当初64人と発表された。しかし、2018年5月に米ハーバード大学の調査チームが発表した死亡者数の試算結果は、約4600人以上とされている。
3――気候変動リスクのモデリング
1|脆弱と見られる集団の死亡率を高めに調整する
そもそも、気候変動リスクが死亡率に与える影響を示す証拠は限られている。生命保険の被保険者に焦点を当てた調査や研究も少ない。
ただ一般的には、気候変動リスクのうち、特に急性リスクである自然災害の影響を受けやすいのは、社会経済上の貧困層と見られる。また、職業で見ると、主に屋外で作業を行う仕事では、熱中症などのリスクが高いことが想定される。このように気候変動リスク上、脆弱と見られる集団や、高リスクと考えられる職業については、死亡率を高めに設定するなどの調整を行うことが考えられる。
気候変動に伴う、人々の居住地の変化をモデルに反映させることも考えられる。例えば、都市部でヒートアイランド現象が進んだ場合、人々が郊外や農村部に移住する可能性がある。
また、氷河の融解などにより海面水位の上昇が続くと、沿岸地域からの移動が加速する可能性がある。大規模な干ばつは、食料等の安全保障面に影響を与える。政治的混乱や経済的不安定が生じ、戦争や地域紛争に至って、移民の発生など、大規模な移動につながる可能性もある。
気候変動問題では、緩和や適応7といったリスク軽減策がとられることが一般的とされる。その場合、そうした軽減策をモデルに反映することも考えられる。
また、リスク軽減策の1つとして、負の相関を有するリスク間で相殺が行われることもある。例えば、死亡保障を行う生命保険と、生存保障を行う年金保険とを併売するといった方法がこれに該当する。その場合、その相殺の効果を、モデルに反映することが適切と見られる。
7 温室効果ガスの排出削減と吸収の対策を行うことが「緩和」です。省エネの取組みや、再生可能エネルギーなどの低炭素エネルギー、CCS(工場や発電所などから発生するCO2を大気放散する前に回収し、地中貯留に適した地層まで運び、長期間にわたり安定的に貯留する技術)の普及、植物によるCO2の吸収源対策などが挙げられます。これに対して、既に起こりつつある気候変動影響への防止・軽減のための備えと、新しい気候条件の利用を行うことを「適応」と言います。影響の軽減をはじめ、リスクの回避・分散・需要と、機会の利用をふまえた対策のことで、渇水対策や農作物の新種の開発や、熱中症の早期警告インフラ整備などが例として挙げられます。(「適応・緩和とは」(全国地球温暖化防止活動推進センター, IPCC第5次評価報告書 特設ページ)より。)
Tminについては、別の観点から重要となる。通常、人の身体は夜間に再生する。Tminは、この再生を行うための身体の冷却状態に影響を及ぼす。 Tmin が上昇すると、一晩で身体が回復する機会が減り、中長期的に罹患率や死亡率に影響を生じる可能性があるとされる。
4――モデル結果の開示
気候変動のリスク分析は、リスク管理に関するコミュニケーションの原則に従う。一般に、ステークホルダーは、契約者から規制当局に至るまでの複数の利害関係者で構成される。ここで、利害関係者によって、リスク分析の注目点は異なる可能性がある。例えば、契約者は、自然災害が発生した場合の保険金支払い。投資家は、気候変動問題に伴う事業のリスクと収益性のバランス。規制当局は、保険事業の持続可能性を通じた契約者保護に目が向きやすいと考えられる。
気候変動リスクが複雑であり、シナリオ設定やデータの特性付けが困難である点を踏まえると、報告先に応じて、伝えるべきポイントの軽重が変わってくる可能性がある。したがって、聞き手に応じて、発するメッセージを調整することが適切と考えられる。
リスク分析結果を開示する目的も検討すべき事項と言える。すなわち、保険会社から提供された情報を使って聞き手は何をしようとするのか、を検討すべきである。それに応じて、例えば、聞き手を説得することや、社会における保険の役割を伝えるといったことが開示の目的となり得る。
気候変動問題に関する聞き手の教育や意識の向上が、開示の目的との考え方もあり得る。この場合、速やかな理解を促すために、インフォグラフィック等の視覚に訴える情報提供が、有効と考えられる。ただし、実際に気候変動事象による死亡等を減らすためには、単一の情報源だけでは効果は限られるものと考えられる。そこで、様々なチャネルを通じた情報提供を併用する必要があるかもしれない。
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保険研究部 主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員
篠原 拓也 (しのはら たくや)
研究・専門分野
保険商品・計理、共済計理人・コンサルティング業務
03-3512-1823
- 【職歴】
1992年 日本生命保険相互会社入社
2014年 ニッセイ基礎研究所へ
【加入団体等】
・日本アクチュアリー会 正会員
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