コラム
2023年03月22日

人的資本経営と健康経営-人的資本経営の施策・実行面でけん引が期待される健康経営-

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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人的資本の概念

2020年9月に経済産業省が「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~人材版伊藤レポート~」を発表したのを皮切りに、人的資本経営について関心が高まっている。これまでは人材は「人的資源(Human Resource)」という考え方が一般的だった。人的資源とは、「ヒト・モノ・カネ・情報」の4つの経営資源の中の1つで、人材に投じる資金は「費用(コスト)」として捉えられていた。人事部門は、募集・採用、配置・異動・昇進、人事考課、退職、賃金・労働時間、教育訓練、福利厚生などといった、組織運営を担当しており、人材の価値を最大化するという考えはあまりなかった。

しかし、近年、経済のグローバル化、少子化による生産年齢人口の減少、新型コロナウイルス感染症やロシアによるウクライナに対する軍事侵攻など予測できない出来事が発生することにより、企業のビジネス環境は大きく変わることになった。モノやカネ、そして情報があっても人がいないと企業は事業を拡大することが難しい。つまり、企業が優秀な人材を確保することは企業のサステナビリティ(持続可能性)経営を強化すると共に事業の拡大にもつながると考えられる。

そこで、最近は人的資本(Human Capital)という言葉がよく使われるようになった。人的資本(Human Capital)とは、従業員が持つスキル、知識、ノウハウ、資質などを資本だと考える概念だ。人的資本を推進する企業は人材を投資の対象とみなし、最適な配置や教育などの投資をしてその価値を磨き、将来的に企業価値の向上につなげようとする。

一方、経済産業省では、「人的資本は、人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」だと定義している。人材をコスト(費用)と見るか、資本(投資)と見るかにより企業の経営方針は大きく変わることになる。

「人的資本経営と健康経営1

経済産業省の前商務・サービス審議官であった畠山陽二郎氏は、「ACTION!健康経営」ポータルサイトで公開された一橋大学の伊藤邦雄教授との座談会で「人材を企業のコスト要因ではなく、競争力の源泉として企業価値向上につなげようという考え方は当初から健康経営のコンセプトでした。コロナ禍によるテレワークの普及や職場と家庭の関係の変化、また健診データ等の蓄積による健康情報把握が容易になっていく中で、健康経営と人的資本経営の関連性に注目が集っていますね。」と説明している。「健康経営」とは、従業員等の健康保持・増進の取組が、将来的に収益性等を高める投資であるとの考えの下、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践することだ。企業が健康経営を引き続き進めることは人的資本経営の推進に繋がると考えられる。

実際、経済産業省が2014年度から上場企業を対象に「健康経営銘柄」を選定し、2016年度からは「健康経営優良法人認定制度」を推進した結果、日本企業や経営者に健康経営が少しずつ定着している。経済産業省が毎年実施している調査結果によると、経営トップが健康経営の最高責任者を担う企業は2014年度の5.3%から2021年度には77.2%まで増加した。また、2022年9月に実施されたニッセイ景況アンケートの調査結果2によると、回答企業の75.6%が健康経営に関心があり、関心がある企業の 22.6%が(1)健康宣言をしている、(2)健康経営優良法人の認定を受けている、(3)健康経営銘柄の選定を受けている、(4)健康経営格付融資を利用しているのうち、いずれかの取組みをしていることが確認された。
 
1 「健康経営」は特定非営利活動法人健康経営研究会の登録商標。
2 金 明中・斉藤 誠・村松 容子(2022)「ニッセイ景況アンケート調査結果-全国調査結果 2022年度調査(2022年9月)

「人材版伊藤レポート」、日本企業に求められている人的資本経営の変革の方向性を提示

経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」が2020年9月に発表した最終報告書、いわゆる「人材版伊藤レポート(以下、「レポート」)」では、日本人の視点で日本の経営陣と人事部門に必要な意識改革や取り組み方法などを示しており、日本企業に求められている人的資本経営の変革の方向性を一つの図表にまとめて説明している。

図表の左側は日本企業の従来の人材戦略を、右側は今後の目指すべき姿を表しており、図表では人材マネジメントの目的を「人的資源(コスト)・管理」から、「人的資本(投資)・管理」に、雇用コミュニティを「終身雇用や年功序列などによる人材の囲い込み型の雇用コミュニティ」から「専門性を土台にした多様でオープンな雇用コミュニティ」などに変える変革が必要だと強調している。また、「レポート」では経営陣が果たすべき役割・アクションを次のように提案している。

(1) 企業理念、企業の存在意義(パーパス)の明確化
(2) 経営戦略における達成すべき目標の明確化
(3) 経営戦略上重要な人材アジェンダの特定
(4) 目指すべき将来の姿(To be)に関する定量的な KPI の設定
(5) 現在の姿(As is)の把握、「現在の姿(As is)と将来の姿(To be)のギャップ」の定量化
(6) アジェンダごとに定量化した「現在の姿(As is)と将来の姿(To be)のギャップ」を埋め、企業価値の向上につながる人材戦略の策定・実行
(7) CEO とともに人材戦略を主導する CHROの設置・選任 
(8) CEO を中心に CSO、CHRO、CFO、CDO といった主要な経営陣(5C)との密接な連携
(9) 従業員への積極的な発信・対話
(10) 投資家への積極的な発信・対話
図表1 日本企業に求められている人的資本経営の変革の方向性
また、「レポート」では、人的資本経営のポイントを3つの視点と5つの共通要素にまとめている。3つの視点とは、①経営戦略と人材戦略の連動、②「現在の姿(As is)と目指すべき姿(To be)のギャップ」の定量把握、③人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着で、5つの共通要素は、①動的な人材ポートフォリオ、②知・経験のダイバーシティ&インクルージョン、③リスキル・学び直し、④従業員エンゲージメント、⑤時間や場所にとらわれない働き方だ。
図表2 人的資本経営の取組進捗(経営陣の意識)全体像
さらに、経済産業省は2022年5月に人材版伊藤レポートの実践版とも言える「人材版伊藤レポート2.0」を発表した。「人材版伊藤レポート2.0」は人的資本経営を本当の意味で実現させていくには、「経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するか」と、「情報をどう可視化し、投資家に伝えていくか」の両輪での取組が重要であると説明している。また、「3つの視点・5つの共通要素」という枠組みに基づいて、それぞれの視点や共通要素を人的資本経営で具体化させようとする際に、実行に移すべき取組、及びその取組を進める上でのポイントなどを紹介している。
図表3 「人材版伊藤レポート2.0」

「人的資本経営とESG」

人的資本経営はESGとも関連がある。ESGとは、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)を指すが、人的資本経営は「社会」と関わりが強く、企業にとって最も重要な社会に関する課題の一つが従業員だと言える。

日本企業の人材への投資額は他の先進国と比べて大幅に少ないと言われている。厚生労働省の資料3によると、日本の国内総生産(GDP)に占める人材投資額は0.10%に過ぎず、アメリカの2.08%、フランスの1.78%、ドイツの1.20%を大きく下回っている。松田(2022)4は「多くの統計では人材投資に職場内訓練(OJT)は含まれていませんが、日本企業の人材育成はほとんどOJTに限る」ことを日本企業の人的資本投資が低い理由として説明している。

しかし、2012年時点における日本のOJTの実施率は男性が50.7%、女性が45.5%でOECD平均である男性55.1%、女性57.0%を下回っており、ある業務を遂行するに当たって、労働者の能力不足に直面している企業の割合が81.0%で調査対象国の中で最も高いことが明らかになった5
図表4 企業の人材投資(OJT以外)の国際比較(対GDP比)
 
3 厚生労働省(2019)「平成30年版 労働経済の分析 -働き方の多様化に応じた人材育成の在り方について-」
4 松田 千恵子(2022)「学び直し講座「コーポレートガバナンス」-〔第48回〕-人的資本と人事機能を考える-ESGが変える日本型人事」『日経ESG』2022年4月8日
5 厚生労働省(2019)「平成30年版 労働経済の分析 -働き方の多様化に応じた人材育成の在り方について-」

投資家は健康経営など人的資本のデータを確認しながら、企業価値を評価

健康経営は人的資本経営を進める上で最も重要な項目の1つだ。「人材版伊藤レポート2.0」では、「健康経営への投資とWell-beingの視点の取り込み」について「CEO・CHROは、社員の健康状況を把握し、継続的に改善する取組を、個人と組織のパフォーマンスの向上に向けた重要な投資と捉え、健康経営への投資に戦略的かつ計画的に取り組む。その際、社員の Well-being を高めるという視点も取り込んでいく。」と説明している。また、この取組を進める上で有効な工夫として、「多様な健康課題に対応した施策の提供」、「ステークホルダーへの情報発信」、「組織体制の構築」、「Well-being の視点の取り込み」を挙げている。

米国証券取引委員会(SEC)は、2020年11月、アメリカの全ての上場企業に対して人的資本経営に関する情報開示を義務づけた。日本でも2021年6月に東京証券取引所が上場企業の経営に関するルールをまとめた企業統治指針「コーポレートガバナンス・コード」を改訂したことにより、人的資本の情報開示を強化することになった。従って、今後投資家は財務諸表のみならず、健康経営などを含めた人的資本の状態を確認しながら、企業価値を評価することになると考えられる。今後、企業は健康経営の重要性を認識しながら、人的資本経営の実現に向けた取組を広げていく必要がある。「人材版伊藤レポート2.0」で提案された人的資本経営がより早く企業に定着することを望むところだ6
 
6 本稿は、日本生命保険相互会社の Wellness-Star☆レポート「人的資本経営の施策・実行面でけん引が期待される健康経営」2023 年3 月に掲載されたものを加筆・修正したものである。
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
    ・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

(2023年03月22日「研究員の眼」)

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