2022年01月31日

グリーンフレーションとECBの金融政策-2010年代と異なるリスクとの闘い

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

文字サイズ

11年利上げ後のデフレの脅威の主因は不況下の緊縮、金融システム対策の遅れ

11年のECBの利上げ判断は、債務危機への配慮を欠いたという問題はあったが、2010年代にユーロ圏がデフレ・リスクに直面した主因は、金融政策ではなく、財政政策を含めた債務危機対応の誤りにあった。

財政政策のスタンスを、景気循環調整後の基礎的財政収支の対潜在GDP比の前年差から確認してみると、2011~2013年にかけては、GDPギャップがマイナス、つまり需要不足の段階での財政緊縮(景気循環増幅的引き締め)が行われていたこと、緊縮財政下でGDPギャップが拡大に向かっていたことがわかる(図表8)。

債務危機対応では、資金繰り支援の枠組みの問題には欧州安定メカニズム(ESM)の常設化の目途が立つなど進展が見られていたが、銀行システム対策が遅れていた。ECBの金融政策の主たる波及経路である銀行システムが、特に不況が深刻だった債務危機国で不良債権や過少資本の問題を抱えていた。銀行システムの健全性を回復し、金融政策の効果が行き渡るようになるには、国毎の銀行行政の格差を是正する必要があるとの認識が高まった。銀行同盟を掲げて、銀行監督を一元化することに政治合意したのが12年6月、資産査定とストレステストを経て、ECBによる単一銀行監督制度が始動したのは14年11月である。

2014~15年にかけてユーロ圏経済はようやく回復軌道に乗り始めたが、金融緩和の強化ばかりでなく、財政政策の中立化や、銀行システムの健全性回復によって、デフレ圧力が緩和したからであると考えられる。
図表8 ユーロ圏の財政スタンスとGDPギャップ/図表9 ユーロ圏の銀行総資産、債券発行残高、上場株式発行残高

コロナ禍では財政が中心的な役割を果たし

コロナ禍では財政が中心的な役割を果たし、銀行システムは政策波及経路として機能

世界金融危機とユーロ危機では、増大した失業の解消、縮小した固定資本投資の水準回復に至るまでの時間の長さが示す通り(図表5、図表10)、政策対応の失敗で深い「傷痕」を残した。

コロナ禍では、銀行システムは政策の波及経路として役割、財政政策は「傷痕」阻止に中心的役割を果たし、金融政策はそれを支えた。欧州委員会は、ユーロ圏財務相会合(ユーログループ)のためにまとめた22年1月の資料5で「加盟国とEUのレベルでのタイムリーで大胆かつ十分に調整された政策が世界金融危機後よりも速やかな回復を助け」、「金融政策、プルーデンス政策と足並みを揃えた支援的な財政出動が経済の安定化に中心的な役割を果たした」と評価している。

20~21年度はEUの財政ルールの適用が停止され、財政政策では「危機対応」が優先された(図表8)が、財政には、今後も継続的に復興を支える役割を果たすことが期待される。

財政ルールの適用停止は22年度も継続されるが、20~21年度に比べて「危機対応」の所得支援など緊急措置の規模は縮小し、各国財政、さらにEU予算と復興基金「次世代EU」を活用した「回復支援」措置が拡大する6。財政スタンスの緩和度も2021年のGDP比1.75%から縮小するが、1%程度回復をサポートする7。復興基金は、2020年代半ばまで、各国の財政余地の格差を埋め、EUが掲げる政策目標の実現と復興を支えるデジタル、グリーン移行のための投資の原資として活用される見通しだ。
図表10 ユーロ圏の固定資本投資/図表11 ユーロの名目実効為替相場

23年適用開始の新たな財政ルールは持続可能な成長が重視される見通し

23年度には危機対応の一層の縮小、財政ルールの適用再開という転換点となる。危機対応で守られた雇用や企業債務問題への適切な対応が重要になる。デジタル化、グリーン化、包摂的で持続可能な成長のためには、労働力の再配分や、支援対象とする企業の絞り込み、支援手法の見直し、債務再編などが課題となる。

財政ルールの適用再開後は、政策のスタンスがルールの内容、運用に影響を受けることになるため、21年10月に再開された財政ルールを含むEUの経済ガバナンスの見直しに関わる着地点は大いに注目される。

22年上半期の閣僚理事会議長国のフランスのマクロン大統領は、21年12月の記者会見で、3月10~11日に開催する特別EU首脳会議で議論する向こう10年間のEUの新しい成長モデルの4本の柱の1つとして財政ルールに関する協議をする方針を示している8

マクロン大統領は、イタリアのドラギ総裁と連名の英紙フィナンシャル・タイムズへの寄稿9で、欧州は「研究、インフラ、デジタル、防衛に巨額の投資」を必要としており、新たな財政ルールでは、「共通の原則」と「マクロ経済目標」を定義し、「より持続可能で、より公平な欧州の共同の野心に貢献することができる信頼性がある透明性のある枠組み」を構築すること、「増税や社会支出の持続不可能な削減や持続不可能な財政調整で成長を抑制しない」こと、「将来世代の福祉と長期的な成長のために役立つ投資のための債務は財政ルールで優遇されるべき」との考えを示している。

財政ルールに関する考え方はユーロ圏内でも見解の隔たりが大きい10。「高債務国」に分類される仏伊の提案がそのまま受け入れられることはないだろうが、ルール重視のドイツのショルツ政権も次世代の成長につながる投資資金の確保という問題意識は共有している11

EUの財政ルールの見直しの議論は、持続可能な成長を支えるルールへと意見集約が進むだろう。
 
8 French President Emmanuel Macron Press Conference Speech Published on 13 December 2021
9 Mario Draghi and Emmanuel Macron: The EU’s fiscal rules must be reformed, Financial Times, December  23, 2021
10 財政ルールの経緯や財政ルールを巡る加盟国間の温度差については、伊藤さゆり「始まったEUの財政ルールを巡る攻防-過剰債務国と倹約国の対立再び」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-9-15をご参照下さい。
11 ドイツの新政権の政権運営方針については、伊藤さゆり「2022年欧州の焦点-メルケル後のドイツ、フランス大統領選、ドラギ効果の持続力」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-12-08をご参照下さい。

ポスト・コロナのECBの課題

ポスト・コロナのECBの課題は移行期のリスクとの闘い

2020年代にECBが向き合う課題は2010年代とは違ったものとなりそうだ。理由は3つある。第1に、財政のより積極的な役割が期待されること、第2にEUが、2050年の気候中立化という最終目標に向けて、2030年の中間目標に向けた取り組みを加速すること12、第3にグローバルに広がる供給網がコスト優先から環境や人権、経済安全保障に配慮したものへと見直す動きが進展することだ。

3つの理由のうち、第3の供給網見直しの影響は別稿にて改めて論じることとし13、ここでは、グリーン移行のエネルギー価格への影響と金融政策の対応に関するECBのシュナベール専務理事が行った講演の内容を紹介したい14。シュナベール専務理事は、移行のプロセスでは、二酸化炭素の排出にかかる炭素価格は高止まることになるため、企業・家計の代替エネルギーへの置換えを促すこと、特に、EUの政策パッケージに含まれる排出権取引(ETS)による収入などを活用したエネルギー弱者をサポートする政策が必要との見方を示している。EUはETS制度の強化・拡張に加えて、化石燃料に関わる税率の引き上げを予定していることから、需要構造の変化や代替エネルギーの価格低下が十分に進展しなければ、「グリーンフレーション」が生じるリスクがあることを認めている。

シュナベール専務理事は、「グリーンフレーション」に対応する責任は政府にあり、供給要因によるものであれば、需要が抑制されるため、金融政策が対応する必要はないとの立場をとる。その上で、金融政策が対応すべきケースとして、(1)高いインフレ期待が定着するおそれがある場合、(2)グリーン移行が経済ブームを引き起こす場合を挙げている15

ポスト・コロナのECBの金融政策上の課題は、コロナ前と同じデフレ・リスクよりは、移行期のインフレ、あるいは物価上昇と景気停滞が併存するスタグフレーション16のリスクとの闘いになる可能性が高まっている。
 
12 EUの2030年目標達成のための取り組みについては、伊藤さゆり「加速する欧州グリーン・ディール-気候中立目標達成への包括的取り組み」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-07-21をご参照下さい。
13 中国を念頭に置いた規制強化の動きについては、伊藤さゆり「変わるEUの対中スタンス-日本はどう向き合うべきか?」ニッセイ基礎研究所 基礎研レポート 2022-1-7で論じている。
14Looking through higher energy prices? Monetary policy and the green transition’ remarks by Isabel Schnabel, Member of the Executive Board of the ECB, at a panel on “Climate and the Financial System” at the American Finance Association 2022 Virtual Annual Meeting, 8 January 2022
15 Interview with Isabel Schnabel, Member of the Executive Board of the ECB, conducted by Markus Zydra, Bastian Brinkmann and Meike Schreiber on 10 January 2022, 14 January 2022
16 欧州におけるスタグフレーションの議論については赤川省吾「スタグフレーションに身構える欧州 紛争・疫病・脱炭素」日経電子版22年1月30日で詳しく紹介している。
 
 

(お願い)本誌記載のデータは各種の情報源から入手・加工したものであり、その正確性と安全性を保証するものではありません。また、本誌は情報提供が目的であり、記載の意見や予測は、いかなる契約の締結や解約を勧誘するものではありません。
Xでシェアする Facebookでシェアする

経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2022年01月31日「Weekly エコノミスト・レター」)

公式SNSアカウント

新着レポートを随時お届け!
日々の情報収集にぜひご活用ください。

週間アクセスランキング

レポート紹介

【グリーンフレーションとECBの金融政策-2010年代と異なるリスクとの闘い】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

グリーンフレーションとECBの金融政策-2010年代と異なるリスクとの闘いのレポート Topへ