2018年10月31日

健康経営の論点を探る-政策・制度的な視点で関係者の役割を再整理する

保険研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 三原 岳

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2|経営者
まず、会社を経営する経営者の役割である。会社の一義的な役割は業績・利益の極大化であり、会社の大宗を占める株式会社の場合、経営者は株主に責任を持っている。そして先に触れた通り、健康経営が「会社が経営戦略の一環として健康づくりに取り組む→従業員の活力向上→会社の生産性向上や組織の活性化→業績向上や株価上昇」という論理構造に立つとすれば、健康経営は経営戦略の一環として実施される一種の「投資」になる。このため、経営者としては、従業員の健康づくりが何らかの形でリターンを生み出す可能性を株主に説明する必要がある。この点については、BITCモデルが経営上のメリットとして、「より良いブランドイメージ」「高い生産性」を挙げている点とも符合する。

なお、繰り返しになるが、その際には医療費適正化だけではなく、プレゼンティーズムの解消を目指すようなメンタルヘルス対策、職場の環境づくり、勤務形態の見直しなどが求められる。特にプレゼンティーズム対策については、経営者の責任として、従業員の勤務状況や健康上の不安などを把握するとともに、健康や働き方、周囲との環境など従業員の個別性に配慮しつつ、そこから浮かび上がる課題を解決する努力が必要となる。
3従業員
職場の健康づくりを進める際、従業員の主体的な参加も必要になる。健康経営の英訳が「健康と生産性の管理」であることを考えると、会社の生産性向上は重要な目的だが、健康経営で実施される対策について、従業員の理解や協力、支持を得られなければ、経営者サイドの空回りになる危険性がある。そして労使協力の重要性については、既存制度の枠組みを通じて先に説明した通りである。

その際、「従業員とは誰なのか」も意識する必要があるだろう。労使協調の枠組みを内在させた健康保険法や労働安全衛生法で想定している「従業員代表」とは通常、労働組合を指すが、非正規雇用者は労働組合に加入していないことが多く、非正規雇用者の意見が反映されにくい側面がある。これは健康経営の対象者が正規雇用者に限定される可能性を示唆している。

実際、2017年版労働安全衛生調査(実態調査)によると、ストレスを相談できる人の有無を尋ねる設問を就業形態別に整理したところ、相談できる相手に「上司・同僚」を挙げた正社員は79.1%に及ぶが、契約社員は72.5%、パートタイム労働者が69.8%、派遣労働者は60.4%にとどまっている(複数回答可)。

同様の指摘は社会疫学の研究でも見られる。具体的には、裁量性の高い仕事に従事している人よりも、自らの判断や裁量で働きにくい人の方が不健康という結果26が出ており、もし相対的に立場の弱い非正規雇用者の利益を考慮しなければ、不公平のそしりを免れない恐れがある。

もちろん、一概に非正規雇用者と言っても類型は様々であり、業種や規模、働き方などで事情が異なるが、給与水準や雇用条件、働き方などで不利な条件に置かれがちな非正規雇用者を「従業員」の枠組みとして想定しないのであれば、「有利な人に手厚く、不利な人に薄い」という逆立ちした姿になりかねない。
 
26 有名なのはイギリスの公務員の健康格差に関する「Whitehall研究」である。社会保障の給付水準や失業リスクの低さなど条件が近いにもかかわらず、高い地位の人の疾病・死亡リスクは低い人よりも低かった。仕事を自らの裁量や判断で決められる「コントロール度」の差が影響していると結論付けられており、社会的地位が高いと健康状態が良い状態を指して「社会的勾配」と呼ばれる。Michael Marmot(2015)“The Health Gap”〔栗林寛幸監訳(2017)『健康格差』日本評論社〕、Michael Marmot(2004)“The Status Syndrome”〔鎮森定信・橋本英樹監訳(2007)『ステータス症候群』日本評論社〕を参照。
4保険者
近年、会社と保険者の連携による健康経営は「コラボ・ヘルス」として注目されており、保険者の役割も整理する必要がある27。その際、日本の医療保険制度が年齢・職業ごとに細分化されている点を念頭に入れる必要がある。

まず、大企業の従業員を対象とした健保組合の場合、先に触れた通りに労使による自治を想定している。言い換えると、労使協力の枠組みとして取り組みを進められるメリットがある。さらに、健保組合は保険料を徴収・管理したり、保険料の水準を決定したりするだけでなく、メタボ健診を含む従業員の健康データを持っており、医療費適正化を果たす上で健保組合の役割は見逃せない。健保組合の強みとして、会社では手が届きにくい被扶養者を被保険者としてカバーしている点も指摘できる。

しかし、健保組合を持っている会社は僅かであり、それ以外の会社では協会けんぽが保険者としての役割を果たす必要がある。実際、2008年度から都道府県化された協会けんぽは都道府県の支部単位での活動を活発化させており、地元自治体や中小企業、関係団体と協定を締結している。

自営業者などを想定した国民健康保険の役割も無視できない。雇用形態の多様化を受けて、国民健康保険の加入者のうち、34.0%は「被用者」が占めている。そして、この多くはいわゆる非正規雇用者と見られ、健保組合や協会けんぽだけを保険者と見なした場合、国民健康保険に加入している非正規雇用者が枠組みから漏れる危険性に留意する必要がある。
 
27 高齢者医療費の負担問題を含む医療制度改革の流れとして、保険者の制度改革を別途議論する必要があるが、ここでは現行制度をベースにしつつ、健康経営との関わり方を論じる。
5専門職
従業員の健康づくりを進める上で、医師など専門職のアドバイスは欠かせない。例えば、会社内の医務室や診療所、会社が設置する病院などで勤めている医師や看護師、会社の依頼を受けている嘱託医、社員食堂などで給食管理や栄養管理に当たる管理栄養士や栄養士、産業保健師が想定できる。

このうち、従業員50人以上の事業場などに配置が義務付けられている産業医の役割は大きい。具体的には、先に触れた衛生委員会では産業医の参加が想定されているほか、2006年の改正労働安全衛生法は長時間勤務に従事した労働者に対し、産業医による面接指導を受けることが義務付けられた。

このほか、保健師は約3,100人、看護師は約4,800人が事業所に勤めているといいう28。こうした各専門職の知見やノウハウを引き出すことが健康経営のポイントの一つになると思われる。
 
28 厚生労働省(2016)「衛生行政報告例(就業医療関係者)の概況」を参照。
6行政(国、自治体)
健康経営の取り組みは会社の自主性を基本としつつも、国や自治体の役割も見逃せない。現在のように先進的な会社の表彰、先進事例の情報提供・情報共有などを通じて、健康経営に取り組もうとする機運を醸成することは一つの役割と言える。

中小企業への支援も一定程度、必要になる。例えば、産業医の配置義務やストレスチェックについては、従業員50人以上の事業場が対象であり、中小企業は対象外であるため、こうした機能については、行政に期待される面がある。実際、独立行政法人労働者健康安全機構が設置している「地域産業保健センター」が(1)長時間労働者への医師による面接指導の相談、(2)健康相談窓口の開設、(3)個別訪問による産業保健指導の実施、(4)産業保健情報の提供――などに従事するとしており、産業医の機能を代替していると言えるであろう。

このほか、中小企業への支援という点では、国よりも現場に近い自治体の方が取り組みやすい側面もあるだろう。健康経営に取り組んでいる会社を対象に、自治体の入札基準を高く評価するなどのインセンティブを設定することも選択肢の一つかもしれない29
 
29 同様の取り組みは環境や障害者の分野で導入されている。ただし、一般競争入札の実施を定めたWTO(国際貿易機構)の政府調達協定との整合性を図る必要がある。
7その他
このほかのステークホルダーとして、金融機関も重要である。その先例として、日本政策投資銀行(以下、DBJ)を挙げることができる。DBJは独自の評価システムで健康経営に関する優れた企業を評価・選定し、その評価に応じて融資条件を設定する「DBJ健康経営(ヘルスマネジメント)格付」融資を2012年から実施している30。同様の取り組みは既に地方銀行、信用金庫、信用組合に広がっており、こうした取り組みは健康経営を一種の社会規範とする上で重要な取り組みと言える。

金融市場との関係では、東京証券取引所(以下、東証)が経済産業省と連携しつつ、「健康経営銘柄」を選定しているのも健康経営に関する株式市場の規範作りを目指していると言える。例えば、東証のウエブサイト31を見ると、「従業員の活力や生産性の向上等、組織の活性化がもたらされ、中長期的な業績・企業価値の向上の実現が期待されます」としているほか、長期的な視点でも「魅力ある企業」として紹介することを通じて、健康経営に取り組む企業が社会的に評価されることを目指すとしている。

健康経営と会社の業績、株価の相関関係、因果関係については一層の分析を要するが、こうした規範が市場や投資家の間に広がれば、健康経営に取り組む会社の株価が安定化し、資金調達が容易になるメリットも期待できる。
 
30 日本政策投資銀行ウエブサイト2012年3月8日「花王(株)に対し、『DBJ健康経営(ヘルスマネジメント)格付』(最高ランク)に基づく融資を実施」。
https://www.dbj.jp/ja/topics/dbj_news/2011/html/0000009497.html
31 日本取引所グループのウエブサイト2018年2月20日マーケットニュース「『健康経営銘柄2018』の公表について」。
https://www.jpx.co.jp/news/1120/20180220-01.html
 

5――おわりに

5――おわりに

以上、健康経営への関心が高まった経緯や背景、プレゼンティーズム対策の重要性、そして健康保険法や労働安全衛生法などに沿って関係者の役割を再整理した。もちろん、健康経営は既存の枠組みを超えて進める必要がある。もし考え方や会社の取り組みが既存の制度にとどまるのであれば、「新しい」とは言えなくなるためである。さらに、求められるのは企業の創意工夫である。本レポートの締め括りとして、健康経営の「原点」となる考え方を提示したい。

明治期以降、近代化を進めた日本で最初に勃興した産業の一つは紡績業だった。しかし、紡績工場で働く「女工」と呼ばれた女性労働者の労働環境は劣悪だった。具体的には、日光が入らない工場、気温40度の環境で1日14時間勤務は当たり前。24時間稼働している工場では、昼夜シフト制が採用されており、昼ご飯は立って摂るほどの忙しさであった。

このため、相当数の女性労働者が健康を害し、その多くが「国民病」と呼ばれていた結核に感染した。この様子は当時の農商務省による実態調査32で詳しく公表され、労働時間の制限などを盛り込んだ工場法が1916年に施行されるに至った。実は、本レポートで触れた健康保険法や労働安全衛生法の淵源を辿ると、全て工場法に繋がっている。

しかし、政府が工場法施行に乗り出す以前から労働環境の改善に乗り出す経営者がいた。その代表格が鐘紡の武藤山治である33。武藤は労働者の職場環境の改善を重視し、その方策として、末端の労働者から意見を募る「注意凾」を設置しただけでなく、診療所の開設、ドイツのクルップ製鋼会社の実例を模倣した共済組合の整備などに努めた。こうした取り組みについては、当時の紡績業の実態を辛辣に批判した著書『女工哀史』でさえ、「鐘紡(注:の診療所)だけは流石にちょっとほめても差支ない」と認めている34ほどであり、共済組合は1922年に制定された健康保険法の淵源の一つとなった。こう考えると、武藤は健康経営の先駆け的な存在と言えるかもしれない。

特に、注目したいのは武藤が民間主体の必要性を主張し、健康保険法の制定についても、国家による介入を否定していた点である35。武藤は健康保険法を審議する1922年1月16日の労働保険調査会の席上、以下のように述べている。
 
民間組合は元来、国家の干渉すべきものに非ざるとの立場を採るものにして、議論の出発点はここに在り。ただ、我が国の現状にては止むを得ず国家の干渉を認めるものにして、もし国家の手を借らずして、実行し得るものあらば、それに委する(注:任せるの意味)がよきなり。

つまり、健康保険の仕組みは民間中心で進めるべきであり、民間市場が弱い日本では「止むを得ず」国家の干渉を認めるが、国家の力が不要と判断される場合に限り、民間の力に頼る方が良いと論じたのである。

この指摘は健康経営にも通じるのではないだろうか。健康経営の取り組みは業種、規模、従業員の働き方などで大きく異なる分、政府が一律に介入、関与することは難しく、企業の自主性が第一に据えられるべきである。従業員など多様な関係者と協力しつつ、その役割や強みを引き出すような形で、企業の経営者が創意工夫を発揮することを期待したい。
 
32 犬丸義一校訂(1998)『職工事情』岩波文庫。発刊は1903年。
33 武藤山治の足跡などについては、山本長次(2013)『武藤山治』日本経済評論社、鐘紡社史編纂室編(1988)『鐘紡百年史』鐘紡などを参照。
34 細井和喜蔵(1954)『女工哀史』岩波文庫p239。発刊は1925年。
35 内務省社会局保険部編(1935)「健康保険法施行経過記録」p162を参照。
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保険研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

三原 岳 (みはら たかし)

研究・専門分野
医療・介護・福祉、政策過程論

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
     1995年4月~ 時事通信社
     2011年4月~ 東京財団研究員
     2017年10月~ ニッセイ基礎研究所
     2023年7月から現職

    【加入団体等】
    ・社会政策学会
    ・日本財政学会
    ・日本地方財政学会
    ・自治体学会
    ・日本ケアマネジメント学会

    【講演等】
    ・経団連、経済同友会、日本商工会議所、財政制度等審議会、日本医師会、連合など多数
    ・藤田医科大学を中心とする厚生労働省の市町村人材育成プログラムの講師(2020年度~)

    【主な著書・寄稿など】
    ・『必携自治体職員ハンドブック』公職研(2021年5月、共著)
    ・『地域医療は再生するか』医薬経済社(2020年11月)
    ・『医薬経済』に『現場が望む社会保障制度』を連載中(毎月)
    ・「障害者政策の変容と差別解消法の意義」「合理的配慮の考え方と決定過程」日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク編『トピック別 聴覚障害学生支援ガイド』(2017年3月、共著)
    ・「介護報酬複雑化の過程と問題点」『社会政策』(通巻第20号、2015年7月)ほか多数

(2018年10月31日「基礎研レポート」)

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【健康経営の論点を探る-政策・制度的な視点で関係者の役割を再整理する】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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