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TISFDの設立背景と今後の行方――システム思考の観点から――

日本生命保険 執行役員、PRI理事、TISFD Steering Committeeメンバー 木村 武
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1――はじめに
TISFDは、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)に続く第三の開示タスクフォースとして注目されています。TISFDが公表した活動方針「People in Scope」によると、開示対象となる「人々」の範囲が、自社の従業員だけではなく、バリューチェーン上の取引先企業の従業員、そして(企業や工場が立地する、あるいは原材料調達先である)地域コミュニティ、消費者と非常に幅広いことが特徴の一つです。また、これら人々の不平等の側面についても、所得・資産だけではなく、健康状態、労働環境(安全性)、知識・スキルと対象範囲がとても広いものとなっています。
「人々(people)」は、全世界ありとあらゆる企業のステークホルダーであり、企業の事業基盤そのものです。今後、企業や金融機関がステークホルダーからTISFDによる開示を求められるようになった場合、おそらく、それは「社会的な営業許可証(social license to operate)」として位置付けられるようになると考えられます。
TISFDは、そのβ版を2026年央に、そして、初版を2027年央に公表することを目指しています。この先2~3年間で開示の枠組みが決まっていきますので、日本の企業や金融機関もその動向をしっかり把握していくことが重要です。
TISFDが設立に至る過程では、企業や金融機関のほか、市民グループ、労働組織、国際機関、学者・研究機関、コンサルティング会社、データプロバイダーなど、約1500人のステークホルダーから、様々な意見が聴取されています。加えて、公開イベントの開催やアンケート調査も行うなどして、ステークホルダーのニーズを確認しながら、TISFDのマンデートとスコープの地固めが行われてきました。TISFDとステークホルダーのコミュニケーションについて取りまとめた公表資料をみると、不平等・社会課題に関する「システムレベル・リスク」がキーワードの一つとして浮かび上がってきます。
2――不平等・社会課題関連のシステムレベル・リスク
一方、システムレベル・リスクとは、不平等や社会関連の問題が、個社のレベルに止まらず、広く社会経済に広がることによって、社会経済システムや金融システムの機能が低下・棄損するリスクです。不平等の拡大は社会の分断や不安定化を招いたり、政府に対する信頼の低下につながることは広く指摘されていますが、影響はそれに止まりません。例えば、不平等の拡大は、低所得者層における人的資本の劣化をもたらし、経済全体の生産性や成長率が低下することが実証研究で報告されています。また、一般に、富裕層は低所得者層に比べ消費性向が低い――貯蓄率が高い――ため、貧富の格差が拡大すると、経済全体では消費需要の伸びが低下し、経済成長率も下押しされます。経済成長率が低下すれば、低所得者層の賃金は伸び悩み、所得格差が固定化されていきます。さらには、金融資産にゆとりのある富裕層は、低流動性資産への投資などリスクテイクを志向する傾向があるので、資産格差の拡大は金融システムの脆弱性を高め得ることも報告されています。
もちろん、ある一つの企業が自社に直接関係のある人々の不平等や社会課題を適切に考慮しなかっただけで、企業固有のリスクがシステムレベル・リスクに発展することはありません。しかし、多くの企業が不平等や社会課題を考慮せず放置していると、企業固有のリスクが累積し、企業間でリスクが相乗的に増幅することで、システムレベル・リスクに発展します。システムレベル・リスクが顕在化すると――例えば、経済全体の成長率が低下したり、労働市場全体でみて人的資本の劣化が進めば――、人々のウェルビーイングの改善に取り組んできた優良企業であっても、その影響は免れません。もちろん、短期的な利益拡大やコスト削減を優先し、自社に直接関係のある人々のウェルビーイングに配慮してこなかった企業は、より業績が下振れするでしょう。つまり、不平等・社会課題に関するシステムレベル・リスクは、負の外部性を通して、ありとあらゆる企業にマイナスの影響を及ぼします。
3――システムレベル・リスクの影響を受ける機関投資家
投資家は、不平等・社会課題に適切に対応している優良企業――企業固有のリスクが小さく、かつ成長機会のある企業――に投資をすることで、超過リターン(いわゆるアルファ)を得ることが可能です。しかし、投資家が超過リターン獲得のために優良企業のみに焦点をあて、投資先企業を選別するようになると、不平等・社会課題への対処に問題のある企業の行動はなかなか改善しません。そうなると、社会全体でみた不平等は拡大し、システムレベル・リスクに発展することになります。その結果、あらゆる企業の財務パフォーマンスが悪化し、投資家にとってベンチマークとなる市場全体のリターン(いわゆるベータ)が下振れします。機関投資家の投資リターンの長期的な変動については、アルファよりベータの寄与が大きいことが知られています。つまり、不平等に関するシステムレベル・リスクが機関投資家のリターンを長期的に大きく左右する可能性があります。
こうした問題は、気候変動と全く同じです。クライメート・ソリューションに特化したインパクト投資ファンドは投資家に超過リターンをもたらし得ますが、投資家が温室効果ガスの排出量の多い企業をダイベストすると、同企業のネットゼロに向けた移行をサポートする機会を失うため、社会全体でみた脱炭素化は達成できません。結果として、地球温暖化が進行し、企業の事業基盤である環境システムが劣化することで、様々な企業の持続可能性が損なわれ、機関投資家のポートフォリオ全体のリターンが悪化してしまいます。気候変動も不平等の問題も、システムレベル・リスクとなって機関投資家に影響を与え得るという点では同じです。
4――人々の不平等が解決されてこそのステークホルダー資本主義
また、年金基金や保険会社など機関投資家も、自らのTISFD開示を通して、受益者や保険契約者に対して、運用ポートフォリオがどのような不平等・社会関連のシステムレベル・リスクに晒されているのか、説明責任を果たしていくことが重要になると考えられます。受益者や保険契約者は、年金基金や保険会社の資産運用を通して、投資先企業の間接的な株主になっているだけではなく、企業の従業員であり、また、企業や工場が立地する地域コミュニティの住民、消費者としての顔も持ち合わせています。つまり、資金の最終的な出し手であるだけではなく、TISFDが開示対象とする「人々(people)」そのものです。受益者や保険契約者は、様々な企業のステークホルダーとして、自分たちのウェルビーイングが改善されるよう、年金基金や保険会社が資産運用を適切に行っているかどうか――企業と適切に対話を行っているかどうか――、資金の出し手として機関投資家に対して説明を求めるのはある意味当然です。金融資本市場にステークホルダー資本主義が根付くには、不平等・社会課題の解決が不可欠といえます。
1 システムレベル・リスクの問題を受け、近年、機関投資家の間では、「システムレベル投資」の重要性が認識されるようになっています。伝統的なESG投資が企業固有のリスクや機会に焦点をあて、リスク調整後リターンの最大化を狙うのに対して、システムレベル投資は、環境・社会システムや経済システム、金融システムそれぞれが(あるいはシステム相互間の関連性が)ポートフォリオ全体のリターンやリスクにどう影響を与えるかという視点を重視するものです。投資家にとってみると、ポートフォリオの一部企業へのESG投資で超過リターンを得たとしても、システムレベル・リスクの顕在化によってポートフォリオ全体のリターンが低下したのでは意味がありません。環境や社会課題に注目するという点では、ESG投資もシステムレベル投資も同じですが、システムレベル投資はポートフォリオ全体の観点から受託者責任を果たすために、市場全体のリターン(ベータ)を改善させようとするものであり、ある意味、ESG投資の進化型・発展型と位置付けることができます。
(2025年02月14日「基礎研レポート」)
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日本生命保険 執行役員、PRI理事、TISFD Steering Committeeメンバー 木村 武のレポート
日付 | タイトル | 執筆者 | 媒体 |
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2025/02/14 | TISFDの設立背景と今後の行方――システム思考の観点から―― | 日本生命保険 執行役員、PRI理事、TISFD Steering Committeeメンバー 木村 武 | 基礎研レポート |
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