2024年12月03日

保険の社会的サステナビリティ-「差別」が「差別化」に入り込まないようにするには…

保険研究部 主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員 篠原 拓也

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1――はじめに

ESG経営がさまざまな産業で進められている。保険会社による保険事業もそのうちの1つだ。保険事業では、大きく分けて資産運用と保険引受の2つの面で、ESGへの取り組みが求められる。

資産運用面は、いわゆるESG投資だ。これは、保険会社に限らず、金融機関や基金などに当てはまる。一方、保険引受面は、保険料設定や保険引受査定など、保険事業特有の事項を含んでいる。保険のプライシングやリスク管理を行うアクチュアリーが、関与する事項も多い。

欧州アクチュアリー会は、2024年2月に、保険における社会的サステナビリティに関するペーパー (以下、単に「ペーパー」と呼称)1を公表している。本稿では、その内容を踏まえながら、アクチュアリーや保険会社の立場から、保険引受面において社会的サステナビリティを保つためには、どのような視点が必要となるかを考えていくこととしたい。
 
1 “Social Sustainability in Insurance : What, Who, and How”(AAE, Feb. 2024)

2――ESGのサステナビリティ開示基準

2――ESGのサステナビリティ開示基準

欧米では、企業のESG情報の開示基準が設けられている。まずは、その概要を簡単に見ていこう。

1米国では、26の課題カテゴリーが示されている
米国では、サステナビリティ会計基準審議会(SASB)が、ESG情報開示基準として、「SASBスタンダード」を設定している。非財務情報のうち、重要課題を“マテリアリティ”と定義して、その開示について定めている。また、9分野77産業について個別基準も設けている。米国企業のみならず、米国に進出する日本企業にもSASBスタンダードの採択と、それに則したESG情報の開示が期待されている。

SASBスタンダードでは、開示項目について、5つのディメンション(局面)と26の課題カテゴリーが示されている。そのうち、社会資本の中には、人権と地域社会のつながり、製品の品質と安全性、顧客の福祉などが含まれている。
図表1. SASBスタンダードの5つのフェーズと26の課題カテゴリー
2欧州では、コミュニティや消費者等への影響が開示項目として挙げられている
欧州では、2024年1月1日より、欧州サステナビリティ報告基準(ESRS)が適用されている。EU域内企業だけではなく、EU域外企業であっても基準の対象となる2。ESRSは、全般的な基準と環境、社会、ガバナンスごとの基準に分かれている。そのうち、社会の中には自社の従業員、バリューチェーン上の労働者とともに、影響を受けるコミュニティ、消費者及びエンドユーザーが挙げられている。
図表2. ESRSのトピック
 
2 EU域外企業については、2028年1月以降に開始する会計年度分から報告義務が適用される。

3――保険引受の社会的サステナビリティ

3――保険引受の社会的サステナビリティ

保険会社は、資産運用面で、ESGの各項目に渡る対応が求められるものと考えられる。一方、保険引受面では、顧客や社会との接し方が中心課題になるものとみられる。本章では、保険引受面についてみていこう。
1|保険が富裕と貧困の固定化を助長しないように
いま、海外でも国内でも、社会の経済格差は拡大傾向にあるものと考えられる。各国で、かつての中流層が減り、富裕層と貧困層に二分されるような社会現象が見られるようになっている。

保険は本来、公的なもの、私的なものを問わず、少額の保険料でリスクに備えることを通じて、こうした格差を縮小する役割を持つ。健康保険、失業保険、自動車損害賠償責任保険のような強制加入型の保険では、社会全体のリスクカバーを加入者が平等に負担している。信用生命保険のような貸付契約の条件としてゆるやかに強制するタイプの保険であっても、基本的にこの点は成り立っている。

ただし、ペーパーによれば、富裕層がセカンドハウスの取得のために住宅ローンを活用する場合は、信用生命保険に加入する社会的ニーズは乏しいものと考えられる。こうした点から、保険が富裕と貧困の固定化を助長しないよう、社会的格差にどのような影響を及ぼすか、慎重に見極める必要があるものとみられる。
2|差別化が差別につながらないように
保険が他の商品や製品の販売と大きく異なる点の1つとして、保険加入時に危険選択が行われることが挙げられる。保険事故が発生しやすくリスクの大きい顧客には、高い保険料率を設定する、または保険引受を謝絶する、という取り扱いになる。この危険選択は、合理的かつ正当に行わないと、差別を生じさせてしまう。

ペーパーは、「差別(discrimination)」と「差別化(differentiation)」という用語を異なるものとして定義している。「差別」は、不当で違法なものであり、禁止されるべきものである。また、文化的に受け入れられないものを指す。一方、「差別化」は、正当で合法的なもので一般的な文化的態度と一致するものとしている。保険の価格設定や引受査定においては、両者を正しく使い分ける必要がある。

差別化については、ベースとなる法令や社会規範が時代とともに変化する可能性があることに注意が必要となる。例えば、公的な健康保険で、過去の健診データや診療データの分析を踏まえて、危険選択を行い、保険料を差別化する(もしくは高リスク顧客は謝絶する)取り扱いが問題になりうる。危険選択の理論からすれば、合理的かつ正当となるかもしれない。しかし、健康保険を全員加入型として取り扱う以上、医療へのアクセスを保証すること(保険の包摂)が重要とみなされることが一般的である。健康や福祉に十分な生活水準を保持する権利や失業、疾病等による生活不能の場合に保障を受ける権利については、国連世界人権宣言第25条にも謳(うた)われている。このように、差別化が差別につながらないよう、注意することが求められる。
図表3. 国連世界人権宣言 (第25条第1項)
3|社会的公平性と包摂のバランスをどうとるか?
保険の包摂は、保険引受の社会的サステナビリティをみる上で中心的課題と言える。欧州では、2023年9月に、がん生存者の忘れられる権利(right to be forgotten)が消費者信用に関する新たな指令の規則として採択された。これは、がん生存者ががんに罹患したことを忘れられる権利を持つことにより、新たに保険に加入できるようにすることをいう。
図表4. がん生存者の忘れられる権利

(2024年12月03日「保険・年金フォーカス」)

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保険研究部   主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員

篠原 拓也 (しのはら たくや)

研究・専門分野
保険商品・計理、共済計理人・コンサルティング業務

経歴
  • 【職歴】
     1992年 日本生命保険相互会社入社
     2014年 ニッセイ基礎研究所へ

    【加入団体等】
     ・日本アクチュアリー会 正会員

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