2023年02月07日

「トリプル安」後の英国-日本が真に学ぶべきことは?

基礎研REPORT(冊子版)2月号[vol.311]

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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1―はじめに

22年9月下旬から10月半ばにかけて、英国が通貨ポンド、国債、株価の「トリプル安」に見舞われた。きっかけは、9月23日にトラス政権(当時)が打ち出したミニ予算「成長計画2022(」以下「、ミニ予算」と表記)だった。

英国の「トリプル安」はおよそ2週間という限られた期間の出来事だったのだが、高インフレ下での財源の裏付けのない大規模財政出動が市場から拒否された金融ショックとして記憶に深く刻まれることになった。

日本は、英国の混乱と脱却のプロセスから何を学ぶべきなのだろうか。

2―日本と英国の違い

「トリプ安」が発生した当時の英国と日本の間には、インフレ圧力の強さ、金融政策の方向性、対外的なバランス・シートの脆弱性と市場型金融に関わる潜在的なリスクに違いがあった。
1|インフレ圧力
英国のCPIは「ミニ予算」の公表時点ですでに前年同月比10.1%(22年9月)、10月にはさらに同11.1%まで加速した。賃金の伸びは、急激な物価の上昇に追いつかず、実質賃金(CPIの伸びを差し引いた賃金)はマイナスに沈んでいる。同様の傾向は、日本でも英国の後を追うように進みつつあるが、先行する英国の家計の購買力の低下は「生活費危機」と言われるほど深刻だ。英国では、幅広いセクターにストライキが広がり、物価と賃金のスパイラル的上昇の様相を呈しつつある。
2|金融政策の方向性
英中銀のイングランド銀行(BOE)は、高インフレへの対応として、21年12月に利上げを開始、その後、毎会合で利上げを決めてきた。22年2月には満期で償還される国債の再投資停止による量的縮小にも踏み出している。

さらに、「ミニ予算」公表直前の9月21日の金融政策委員会(MPC)では、50bpの利上げと量的緩和のために買入れた国債を、満期を待たずに市場で売却することで量的引き締め(QT)を加速することを決めていた。

英国の「トリプル安」局面では、市場は拡張的な財政政策と引き締めを加速する金融政策との方向性の不一致に激しく反応したとされる。

日銀は、22年12月20日の金融政策決定会合でイールドカーブコントロール(YCC)の運用の見直しを決めたが、黒田総裁は「市場機能の改善を目的としたもので、利上げではない」と説明している。BOEやその他多くの中銀が2022年に実施したような急ピッチの利上げが見通せるような状況ではない。
3|対外的なバランス・シートの脆弱性
英国の「トリプル安」の背景には対外的なバランス・シートの脆弱性がある。

BOEで金融システムの安定性の監視を担う金融安定委員会(FPC)は、英国の金融システムは「開放度が高く、外国投資家が多くの資産を保有しているため、対外資金調達のリスクにさらされて」いる。「対外的な負債の規模はG7の他の地域よりも遙かに大きい」ため、「マクロ経済政策の枠組みに対する外国投資家の認識が英国の金融状況に重大な影響を与える」という構造的な問題を指摘している。

実際、2021年時点の対外負債の対GDP比で見た規模はGDPの5倍を超える水準であり、G7で突出している(図表1の赤い棒グラフ)。
[図表1]G7対外資産・負債残高(2021年)
4|市場型金融の潜在的リスク
英国の「トリプル安」には、国際金融センター・ロンドンを擁する強みが弱みに転じた面がある。

英国は、対外負債ばかりでなく、対外資産もGDPの5倍を超える(図表1の青い棒グラ)。英国の対外資産と対外負債が両建てで突出した規模となっているは、ロンドンの国際金融センターとしての役割の大きさを反映したものである。英国の対外純資産(対外資産-対外負債)はGDPの2割程度のマイナスだが、米国のおよそ8割、フランスのおよそ3割に比べれば小さい。

国際金融センターとしての発展度の高さは、市場型金融の潜在的なリスクの高さの裏返しでもある。「トリプル安」に見舞われたのは、BOEが利上げとQTを決めた直後だったが、急遽、長期国債の買入れに動いた。負債連動型投資(LDI)戦略をとる年金基金のレバレッジ問題に対処する必要に迫られたからである。

日本は対外負債のGDP比はG7で最小、純資産は最大と、対外的バランス・シートは強靭だ。それは、資本を引きつける力が弱い結果という側面もあり、先行きは楽観を許すものではない。

3―財政政策の問題点と軌道修正

1|ミニ予算の問題点
英国には、対外的なバランス・シートの脆弱性や市場型金融の発展による潜在的なリスクがあったものの、財政運営は、必ずしも放漫に運営されてきた訳ではなかった。英国の政府債務残高の対GDP比は、グロスではG7でドイツに次いで2番目に低く[図表2]、ネット(総債務-総資産)でもカナダ、ドイツに次いで3番目に低い[図表3]。
[図表2]一般政府債務残高(グロス)
[図表3]一般政府債務残高(ネット)
基本的に財政が健全に運営されてきたにも関わらず、「トリプル安」に見舞われたのは、トラス政権が、財政への信頼確保のために確立してきたルールや制度を否定するような行動に出たことで、投資家が認識の急激な変更を迫れたからだ。

「ミニ予算」は、2010年の保守党政権発足以来続く、低成長、投資の停滞を減税や規制改革で解決することを狙ったものだった。450億ポンドの減税策と規制緩和策の一方、増税や歳出削減措置は盛り込まれなかった。

英国の低成長、投資の停滞の真の原因は、一貫性を欠く政策とEU離脱など不透明な環境が続いたことにあるとの見方は専門家の間で広く共有されている。

「ミニ予算」には、手続き面、高インフレ下の経済環境にそぐわないことに加えて、政策の一貫性の欠如や、不透明感を一層増幅した点でも問題であった。

また、トリクルダウン的な成長を指向するものであったため、有権者からは大企業・富裕層優遇という批判を浴びることにもなった。
2|スナク政権の「中期財政計画」
トラス政権の後を引き継いだスナク政権は22年11月17日に「中期財政計画」を提示した。

「中期財政計画」では、本来の手続き通り、独立財政機関・予算責任庁(OBR)の「経済・財政予測」が盛り込まれ、計画と財政ルールへの適合性の評価が示された。

計画には、向こう5年間で550億ポンドの財政健全化措置を進める方針が盛り込まれた。当面は、増税は見送り、インフレによる税収増を見込む一方、「生活費危機」対策により歳出も増加する。

25年度以降は、歳出の削減ペースを加速、最終的には税収増によって250億ポンド、歳出削減によって300億ポンドの財政健全化を進める。2008年の世界金融危機後、保守党政権が実施した財政健全化の80%が歳出削減であったことに比べると、大きな方向転換である。

財政健全化は必ずしも計画通りに進まず、生活水準の停滞が続くと見られる厳しい情勢にある。それでも、市場の信頼の回復には成功し、国民からも財政健全化に手を打つ必要性については、一定の理解を得ている。

4―おわりに

英国は「トリプル安」を許したが、財政の健全性を重視し、信頼を確保するルールや制度は確立されていたことから、混乱を二週間程度の短期間に留めることができた。

日本はインフレのスパイラル化のリスクが低く、対外的なバランス・シートは英国よりも強固だ。外国投資家の認識の変化をきっかけとする「トリプル安」は生じにくい構造だ。

しかし、日本の場合、財政のルールや制度は脆弱な面だけ、信頼が失われた際の軌道修正は困難を極めるリスクがある。

日本が英国の経験から学ぶべきは、今後の財政運営において、中期的な観点から財源について議論し、広く国民の理解を得て、予見可能性を高めることであろう。
 
(注) 本稿は、22年12月2日付の同タイトルのニッセイ基礎研レポートに新たな論点を加え、要約したものである。トリプル安に対する英国の政策対応の流れや、日英の経済データの比較、トラス政権の「ミニ予算」の問題点、スナク政権の中期財政計画などの詳細は、原レポートをご参照下さい。
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2023年02月07日「基礎研マンスリー」)

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