2022年09月06日

気候変動とメンタルヘルス-こころの健康の維持には、どのような対処が必要か?

保険研究部 主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員 篠原 拓也

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4――気候変動がメンタルヘルスに与える影響への対処

世界保健機関(WHO)は、これらの影響に対処するための5つの取り組みを推奨している。筆者による補足、意訳および解釈を交えて、概観していく9
 
9 筆者による補足、意訳および解釈部分は、下線で表記する。
1|気候変動への検討をメンタルヘルスプログラムに統合する
気候変動関連の災害の頻度と深刻さは増している。災害リスクに直面している人々のメンタルヘルスを守るためには、災害発生に向けた事前準備と、発生時のリスク低減が不可欠となる。このような人々の苦痛を軽減しMHPSSを改善するためにとるべき優先的な一連の行動は、災害リスク管理(Disaster Risk Management, DRM)として提供されてきた10

しかし、DRMだけでは対処できないような長期的な気候変動リスクも出現しつつある。このため、災害だけではなく、気候変動全般に対応するための行動が必要となる。気候変動への検討を、MHPSSを含むメンタルヘルスプログラムに統合していくことが求められる。
 
10 “A proactive approach: Examples for integrating disaster risk reduction and mental health and psychosocial support programming” Brandon Gray, Julian Eaton, Jayakumar Christy, Joshua Duncan, Fahmy Hanna(International Journal of Disaster Risk Reduction 54(2021), 102051)など。
2メンタルヘルス支援を、気候変動問題の緩和や適応に統合する
一般に、気候変動問題への対応戦略においては、緩和と適応が重要とされる。

緩和について、メンタルヘルス支援と共通の利益を有する場合がある。例えば、炭素排出量の少ない公共交通機関の利用を誘導することは、緩和戦略となる。交通機関の利用は、サービスへのアクセスや社会的交流の面からも重要であり、その誘導はメンタルヘルスに良い影響を与える。また、環境に配慮した都市設計も緩和戦略の1つである。そうした設計は、地域社会に緑地を提供して、メンタルヘルス上のストレス軽減をもたらす。

一方、適応について、WHOは保健システムの気候耐性の強化策を推奨している11。メンタルヘルスの検討とMHPSSの取り組みを、保険システム内で統合すべきとしている。
 
11 “Operational framework for building climate resilient health systems”(WHO, June 2015) の中で述べられている。
3世界的な公約 (コミットメント) に基づいて構築する
既存の世界的な合意に基づいて構築することで、多くのことが達成可能となる。政策要綱では、世界的な合意の例として、SDGs、パリ協定、仙台防災枠組 (2015-2030) が挙げられている。

(1) 持続可能な開発目標 (SDGs)
SDGsは、循環器疾患・がん・糖尿病・慢性呼吸器疾患などの非感染性疾患(NCDs)の低減という流れのなかで、メンタルヘルスと心理社会的幸福に取り組むものとされている12。特に、気候関連ハザード、メンタルヘルスに関連するSDGsへの取り組みは、メンタルヘルスのマイナス面を低減させる可能性がある。

(2) パリ協定
2015年に合意されたパリ協定は、産業革命以降の平均気温上昇を2℃未満に抑制し、努力目標として1.5℃未満への抑制を掲げている。WHOは、この協定を、基本的な公衆衛生協定とみている13。特に、協定の中でメンタルヘルスについて言及されているわけではないが、政策要綱では、メンタルヘルスも合意のなかに含まれるとしている。そして、締約国に対して、気候変動に関する行動をとる際には、それぞれの義務を検討することを求めている。

(3) 仙台防災枠組 2015-2030
2015年に、仙台で第3回国連防災世界会議が開催された。そこで、仙台防災枠組2015-2030が採択された。災害の頻度と大きさが増すなど、多くの災害が気候変動によって悪化しており、そのことが持続可能な開発の進展を妨げていると主張している。MHPSSについては、同枠組の優先行動4のなかで簡単に言及されているのみだ。だが、このことが、MHPSSを災害リスク軽減のあらゆる分野に統合する議論の基礎となっている14
 
12 SDGsの目標3では、「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」との目標が掲げられている。この目標3には、13のターゲット(達成課題)が設定されており、その4番目として、「2030年までに、非感染症疾患(NCD)による早期死亡を、予防や治療を通じて3分の1減少させ、精神保健および福祉を促進する。」とされている。
13 “The Paris Agreement is a Health Agreement-WHO”(国連気候変動枠組み条約締約国会議の記事(2018.5.3)より) (https://unfccc.int/news/the-paris-agreement-is-a-health-agreement-who)
14 仙台防災枠組2015-2030の優先行動4は「効果的な応急対応のための災害への備えの強化と、復旧・再建・復興におけるより良い復興(Build Back Better)」とされている。国家レベル及び地方レベルに求められる16の行動の1つとして、「(o) 必要としている人のすべてに対して、心理社会的なサポートとメンタルヘルスサービスを提供するための復旧スキームを強化する」が掲げられている。(「『仙台防災枠組2015-2030』(第3回国連防災世界会議)仮訳」(外務省)より)
4メンタルヘルスへの影響に対処するために、地域社会ベースの取り組みを実施する
地域社会ベースの MHPSS の取り組みでは、地域社会と協力してケアシステムを構築する。災害等の緊急事態の影響を受けた人々を、支援や援助の受け手としてではなく、メンタルヘルスと幸福を改善する参加者やリーダーとして位置づける。政府や気候適応と緩和の関係者、MHPSSの専門家は、協力して、地域社会ベースの気候変動への対処行動を促進していく必要がある。
5メンタルヘルスサービスの資金ギャップを埋める
気候変動問題に限らず、そもそもメンタルヘルスサービスの利用には、資金面の制約が伴う。2020年のWHOの調査によると、各国政府がメンタルヘルスに費やした医療費は、保健予算全体の2.1%、1人当たり7.5米ドル(いずれも中央値)に相当する15世界の人口を約78億人として掛け算すると、約585億米ドルとなる。しかし、メンタルヘルスが社会経済に与える影響は非常に大きい。Lancetの調査によると、うつ病と不安症だけで、それらに起因する生産性の損失は、世界全体で年間約1.15兆米ドルと見られている16

こうしたメンタルヘルスサービスの資金ギャップを埋めることが、気候変動問題への取り組み課題の1つとなる
 
15 “Mental Health ATLAS 2020”(WHO)に示された調査対象67ヵ国の中央値。メンタルヘルス医療費の割合には地域差があり、ヨーロッパは3.6%なのに対して、東南アジアは0.5%にとどまっている。
16 “Scaling-up treatment of depression and anxiety: a global return on investment analysis” Dan Chisholm, Kim Sweeny, Peter Sheehan, Bruce Rasmussen, Filip Smit, Pim Cuijpers, Shekhar Saxena(Lancet, Psychiatry Vol. 3 May 2016)による。調査対象の36ヵ国の結果をもとに、世界全体の影響額が見積もられている。

5――政策要綱の結論

5――政策要綱の結論

政策要綱では、結論として、次の3点が示されている。

(1) 気候変動がメンタルヘルスに影響を与えるメカニズムには、さまざまな証拠が出てきている

(2) メンタルヘルスと気候変動のつながりを強く認識することは、全体的で協調的な対応につながる

(3) 気候変動の人間への影響を踏まえて、メンタルヘルスを主要な対策の1つとすることが必要

気候変動とメンタルヘルスの関連性については、なお研究の途上にあるが、これまでに得られた調査結果をもとに、行動を起こすことよう促している。

6――おわりに (私見)

6――おわりに (私見)

本稿では、WHOの政策要綱を参照しながら、気候変動問題とメンタルヘルスの関連性について見ていった。

この分野は、本格的な研究が始まってからまだ日が浅く、研究成果が出始めている過程にある。ただ、気候変動の人間への影響を考えるうえで、こころの問題を無視することはできない。気候変動問題は、産業革命以前と比べて今世紀末に1.5℃未満の気温上昇といった物理学や地学による表現。炭素価格や排出量取引市場の導入検討といった、環境政策の議論が先行しやすい。

しかし、最終的には、気候変動が人間にどのように影響を与えるか。特に、人々のこころの問題にどのような影響を与えるかが大切といえるだろう。

WHOをはじめ環境や健康関連の諸団体の取り組みの動向を、注視していくこととしたい。

(出典)
 
“Mental health and climate change : policy brief”(WHO, June 2022)
 
“Climate Change 2022 - Impacts, Adaptation and Vulnerability”(IPCC WG2, Summary for Policymakers, Feb 2022)
 
「『兵庫行動枠組2005-2015』(第2回国連防災世界会議)暫定仮訳」(外務省)
 
「『仙台防災枠組2015-2030』(第3回国連防災世界会議)仮訳」(外務省)
 
“Ecological Grief as a Response to Environmental Change: A Mental Health Risk or Functional Response?”Hannah Comtesse, Verena Ertl, Sophie M. C. Hengst, Rita Rosner, Geert E. Smid (NIH, International Journal of Environmental Research and Public Health, Jan 2021, 18(2):734)
 
“Mental Health and Our Changing Climate : Impacts, Implications, and Guidance”(American Psychological Association, March 2017)
 
“Solastalgia: the distress caused by environmental change” Glenn Albrecht 1, Gina-Maree Sartore, Linda Connor, Nick Higginbotham, Sonia Freeman, Brian Kelly, Helen Stain, Anne Tonna, Georgia Pollard (Australas Psychiatry, 2007, 15 Suppl 1:S95-8.)
 
“A proactive approach: Examples for integrating disaster risk reduction and mental health and psychosocial support programming” Brandon Gray, Julian Eaton, Jayakumar Christy, Joshua Duncan, Fahmy Hanna (International Journal of Disaster Risk Reduction 54(2021), 102051)
 
“Operational framework for building climate resilient health systems”(WHO, June 2015)
 
“The Paris Agreement is a Health Agreement-WHO”(国連気候変動枠組み条約締約国会議の記事(2018.5.3))
https://unfccc.int/news/the-paris-agreement-is-a-health-agreement-who
 
“Mental Health ATLAS 2020”(WHO)
 
“Scaling-up treatment of depression and anxiety: a global return on investment analysis” Dan Chisholm, Kim Sweeny, Peter Sheehan, Bruce Rasmussen, Filip Smit, Pim Cuijpers, Shekhar Saxena (Lancet, Psychiatry Vol. 3 May 2016)
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保険研究部   主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員

篠原 拓也 (しのはら たくや)

研究・専門分野
保険商品・計理、共済計理人・コンサルティング業務

経歴
  • 【職歴】
     1992年 日本生命保険相互会社入社
     2014年 ニッセイ基礎研究所へ

    【加入団体等】
     ・日本アクチュアリー会 正会員

(2022年09月06日「基礎研レター」)

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