2022年09月06日

気候変動とメンタルヘルス-こころの健康の維持には、どのような対処が必要か?

保険研究部 主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員 篠原 拓也

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1――はじめに

気候変動問題への注目度が高まりつつある。今年11月に、エジプトのシャルム・エル・シェイクで開催される、国連気候変動枠組み条約第27回締約国会議(COP27)を前に、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は第6次評価報告書(AR6)を公表する。COP27では、先進国と途上国の間で、極端な気象の影響についての不平等や、支援のあり方などについて、議論が交わされるものと考えられる。

そんななか、世界保健機関(WHO)は、6月にストックホルムで行われた会議で、「気候変動とメンタルヘルスに関する政策要綱」(以下、「政策要綱」)を公表した1。気候変動のメンタルヘルスへの影響は、IPCCの第2作業部会(WG2)が2月に公表した報告書2の中でも指摘されている。この政策要綱は、こうした指摘を踏まえて、この問題に対するWHOの評価や対策をまとめたものとなっている。

近年、各国で若者を中心としたメンタルヘルス悪化の問題がクローズアップされている。もし今後、気候変動がそれに拍車をかけるとすれば、この問題はより深刻なものとなりかねない。本稿では、WHOの政策要綱をもとに、気候変動とメンタルヘルスについて、見ていくこととしたい。
 
1 “Mental health and climate change : policy brief”(WHO, June 2022)
2 “Climate Change 2022 - Impacts, Adaptation and Vulnerability”(IPCC WG2, Summary for Policymakers, Feb 2022)

2――気候変動問題とメンタルヘルスの関連付け

2――気候変動問題とメンタルヘルスの関連付け

政策要綱では、冒頭で「メンタルヘルスと心理社会的支援」(mental health and psychosocial support, MHPSS)という用語を導入している。まず、その経緯や内容から見ていこう。
1気候変動とメンタルヘルスに関する研究結果の公表は2007年以降
そもそも気候変動という環境問題のテーマを、メンタルヘルスという精神医療の分野と結びつけて研究されるようになったのは、最近のことだ。政策要綱によると、研究結果が公表されたのは、2007年頃からとされる。20世紀には、公害などによる環境汚染が人々の健康に悪影響を及ぼすことが問題となった。そのときには、主に汚染物質が引き起こす公害病などの身体的影響が論じられた。これに対して、近年、気候変動問題への注目度が高まるとともに、メンタルヘルスへの影響が指摘されるようになってきた。IPCCやWHOなどを中心に、研究機関からさまざまな研究成果が公表されつつある。
2MHPSSは、気候変動に関する健康対策の1つとなっている
WHOが公表した政策要綱では、気候変動、メンタルヘルス、MHPSSの定義をそれぞれ紹介している。

気候変動を、「気候の状態の変化で、その性質の平均値や変動性の変化によって特定することができ、通常は数十年以上の長期間持続するもの」(IPCC報告書の引用)。メンタルヘルスを、「すべての個人が自分の可能性を実現し、生活のストレスに対処し、生産的で実りのある仕事をすることができ、地域社会に貢献することができる幸福な状態」としている。そのうえで、MHPSSについて、「心理社会的幸福の保護または促進、精神障害の予防または治療を目的とする、あらゆる種類の地域または外部の支援」と定義している。

MHPSSは、気候変動に関する災害等の緊急事態に対応して、幅広い関係者を団結させ、適切な支援を提供するアプローチの必要性を強調するために導入されたとしている。

3――気候変動問題がメンタルヘルスに影響を与える経路

3――気候変動問題がメンタルヘルスに影響を与える経路

ひと口に、メンタルヘルスと言っても、その内容は一様ではない。無力感、苦悩、欲求不満などの精神症状を示すうつ病や不安障害から、睡眠障害、アルコールや薬物への依存、自殺行動など、幅広い。気候変動問題に関連して、新たな症状の概念も示されている。
1メンタルヘルスに影響を与える経路は複数の因子が重複
政策要綱では、気候変動がメンタルヘルスにどのような経路で影響を与えるか、整理している。気候変動について、ある1つの原因が症状を引き起こすというよりも、複数の因子が重複することで、症状が生じる可能性が高まるとしている。そこでは、次のような相互関係が示されている。
図表1. 気候変動とメンタルヘルスの相互関係 (主なもの)
気候変動のさまざまなリスクが、多様な経路を通じて、さまざまな形でメンタルヘルスに影響を及ぼす可能性があることが示されている。
2代表的な経路についてコメントされている
政策要綱は、代表的な経路に関して説明を述べている。筆者による補足、意訳および解釈を交えて、概観していく3
 
3 筆者による補足、意訳および解釈部分は、下線で表記する。
(1) メンタルヘルスへの影響
(a) ストレス反応
気候変動関連ハザードは、激しい精神的苦痛につながる可能性がある4災害等の緊急事態が発生した後に、ほとんどの人が何らかの苦痛を経験する。水や食料の提供、衛生面の改善など、基本的なニーズが満たされて、無事と安全が確保できれば、苦痛に対する効果的な対処が図られる。

(b) ストレスに関連した健康問題
ストレスは免疫系の反応を低下させ、大気汚染や水を媒介とする感染症に対する脆弱性を高める。慢性的な苦痛は睡眠障害と関連しており、身体に影響を与えたり、メンタルヘルスを悪化させたりする。心理的ストレスは、心血管疾患や自己免疫疾患、潜在的にはがんの発症リスクを高める可能性がある。

(c) メンタルヘルス状態
極端な気象の後に、うつ病、不安、ストレス関連状態などのメンタルヘルス状態が発生することが報告されている。

(d) 緊張した社会関係
気候変動関連ハザードは、対人関係の緊張や親密なパートナーからの暴力につながることがある。また、他の影響として、家族の別居や社会的支援システムからの断絶がありうる5

(e) 無力感、恐怖、悲嘆
気候変動のゆっくりとした影響を目の当たりにすることは、無力感や苦悩とともに、将来への不安につながる可能性がある。気候変動を止めることや変化を起こすことは不可能と感じ、喪失感、無力感、欲求不満を経験する人もいる。

政府の気候変動対策の不作為に直面して、多くの若者がこの問題への悩みを悪化させており、政府の裏切りや不信感を感じると訴えている。

(f) 自殺行動のリスク増加
自殺のリスクは、反復的または重度のハザードを経験した人ほど高くなることがある。また、多くの国で、周囲の気温の上昇は、自殺率の上昇と関連している。
 
4 「ハザードとは、『人命の損失、負傷、財産への損害、社会的・経済的崩壊、もしくは環境破壊を引き起こす可能性のある、潜在的に有害な自然事象・現象、人間活動』のこと。ハザードには、将来的に脅威となる可能性のあるものを示す可能性のある潜在的な状況や、自然的(地質学的、水文気象学的、生物学的)あるいは人為的行為(環境破壊・技術ハザード)により引き起こされる潜在的な状況がある。」(「『兵庫行動枠組2005-2015』(第2回国連防災世界会議)暫定仮訳」(外務省)より引用)
5 例えば、一時的に転居が必要となり、子どもたちが別の学校に通うか、学校を休まなければならなくなることなど。
(2) エクスポージャー経路の例
(a) 個人的に大切な場所を失うこと
気候変動は、環境や地域社会を脅かし、その結果、大切な場所を失うという喪失感や寂寥(せきりょう)感を生むことがある。物理的な環境の変化や、人々の家庭環境の破壊は、精神的な苦痛や障がいにつながる可能性がある。例えば、海面上昇によって人々が家を失ったり、土地が農作業に適さなくなったり、長期にわたる干ばつによって食糧生産ができなくなったりした場合、こうした影響を受けた人々は精神的苦痛や無力感を経験する可能性がある。家庭環境が失われると、生活の継続性や帰属意識の喪失を引き起こす。個人のアイデンティティが失われることもある

(b) 自律性と統制の喪失
気候変動は、基本的なニーズやサービスに影響を与え、人々の自主性や制御感覚に影響を与える。例えば、高齢者や障がい者にとって、移動することが困難となる。

(c) 公害
大気汚染は気候変動の重要な要因となる。妊娠中に母親が粒子状物質にさらされた後の子ども を含めて、メンタルヘルス状態のリスク増加と関連している。
3メンタルヘルスでは、新たな症状の概念も出現
気候変動問題に関連して、メンタルヘルスでは、新しい症状の概念も示されている。

(1) 生態学的悲嘆 (ecological grief)
自然や人為的な出来事によって、生態系の環境が失われてしまうことに起因する悲嘆の反応をいう。悲嘆を引き起こす原因として、生物種や生態系などがハリケーン災害等により失われること。物理的な環境上に構築されている個人的、文化的アイデンティティの破壊等の環境認識の喪失。現存の生物種や生態系などが、将来的に失われてしまうとの予想、などが考えられる6

(2) エコ不安 (eco-anxiety)
環境破壊に対する慢性的な不安をいう7。もはや避けられないとみられる、気候変動の影響を観測することから生じる。環境保護の意識を強く持つ人ほど、エコ不安に陥りやすいとされる。

(3) ソラスタルジア (solastalgia)
気候変動に伴う環境破壊等により、個人が住み慣れた土地などが変貌してしまう苦悩をいう。原因となる環境破壊には、自然災害によるものの他に、鉱物の採掘や、道路・ダム建設といった人為的なものも含まれる8
 
6 “Ecological Grief as a Response to Environmental Change: A Mental Health Risk or Functional Response?”Hannah Comtesse, Verena Ertl, Sophie M. C. Hengst, Rita Rosner, Geert E. Smid(NIH, International Journal of Environmental Research and Public Health, Jan 2021, 18(2):734)を参考に記述。
7 “Mental Health and Our Changing Climate : Impacts, Implications, and Guidance”(American Psychological Association, March 2017)による。
8 “Solastalgia: the distress caused by environmental change” Glenn Albrecht 1, Gina-Maree Sartore, Linda Connor, Nick Higginbotham, Sonia Freeman, Brian Kelly, Helen Stain, Anne Tonna, Georgia Pollard(Australas Psychiatry, 2007, 15 Suppl 1:S95-8.) を参考に記述。
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保険研究部   主席研究員 兼 気候変動リサーチセンター チーフ気候変動アナリスト 兼 ヘルスケアリサーチセンター 主席研究員

篠原 拓也 (しのはら たくや)

研究・専門分野
保険商品・計理、共済計理人・コンサルティング業務

経歴
  • 【職歴】
     1992年 日本生命保険相互会社入社
     2014年 ニッセイ基礎研究所へ

    【加入団体等】
     ・日本アクチュアリー会 正会員

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