2021年09月02日

デジタルユーロプロジェクト始動-予備実験の知見と今後

経済研究部 主任研究員 高山 武士

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(2) プライバシーとマネロン対策
デジタルユーロの秘匿性は基本的な事柄として、すべての実験で用いられた様々なモデルに対して直接的・間接的に技術的な実現可能性が調査された。ただし、現実的な選択肢を考えるにあたっては、さらなるマネロン対策規則との適合性(compatibility)や、秘匿性の確保が処理能力に及ぼす影響について検証する必要があり、課題が残されている。
 
さて、TIPSでの実験では、仲介機関と決済システム運用者の間で情報を分離することに焦点があてられた。この方法では仲介機関は仮名を用いて情報をTIPSに伝達(relay)する(必要があればTIPSで本人と紐づけられる)が、「匿名カード(anonymity card)」(利用上限付きTIPS口座)32を利用して本人確認(KYC)手続きを省く(eliminating)

この実験では、ブロックチェーン上に秘匿性確保のために利用できる多くの方法(pool)が特定され、容易にその秘匿性の水準を調整できることが示された(また、重要な点として、いくつかの選択肢は中央集権型システムにも応用できる)。調査された技術の例としては、以下のようなものが挙げられる33

・ワンタイム仮名(one-time pseudonyms):利用者が行う取引ごとに異なる仮名を用いる。受取者にとっては多数の仮名から支払者を特定することは困難となる。
・取引ミキシング(mixing):複数利用者で取引を混ぜることで、仮名からの紐づけや追跡可能(traceability)、つまり支払者と受取者の紐づけをできないようにする規格やサービス。
・ペイメントチャネル:ネットワーク参加を許可された代理人に依存してプライバシー水準が変化するような双方向通信(channel)。

複数の秘匿性技術を組み合わせれば、かなり高度な秘匿性を確保できる多くの方法があり、決済基盤として利用できることが分かった。いくつかの方法は、(秘匿性確保する一方、事後の)追跡可能性(traceability)という手段も確保することで法的に則するが、高度な秘匿性がマネロン対策の要求水準を脅かさないかについてはさらに分析・検証が必要なものもある

オフラインに関しては、資産(つまりデジタルユーロを)交換後もオフラインのままにしておけば、完全に追跡不可能(untraceability)となる。しかしながらオフライン決済可能でも、資産を移転する際に取引情報が送られる設計であれば、事後の追跡はできる。
 
32 「匿名カード」はECBのデジタル通貨と匿名性について調査した報告書であるECB(2019), Exploring anonymity in central bank digital currencies, December 2019に記載されている「匿名バウチャー(anonymity vouchers)」に相当する概念と思われる(筆者の見解)。この報告書ではDLT技術を用いた2層構造が想定されており、「匿名バウチャー」は権限者が付与する制限(期間や金額)内で利用できる匿名送金可能な権利。
33 前述のプロジェクト・ステラの報告書である、日本銀行決済局(2020)「分散型台帳環境における取引情報の秘匿とその管理の両立」(日本銀行仮訳)にも本稿で取り上げられている3つ(およびそれ以外の手段)が記載されている。ただし、プロジェクト・ステラの報告書ではワンタイム仮名はワンタイムアドレス(one-time address)、取引ミキシングは単にミキシング(mixing)との名称が使われている。ここでは、ワンタイム仮名と取引ミキシングは関係性隠匿型PET(privacy enhanced technology:プライバシー強化技術)、ペイメントチャネルは共有先制御型PETと分類されている。
(3) デジタルユーロの流通制限
残高や取引金額に制限を設けることについては、実験からは基盤技術に関わらず可能であることが明らかになった。加えて、一定金額を超えた部分(例えば、残高上限以上に送られてきた取引)を自動的にデジタルユーロ口座/ウォレットに紐づく口座/ウォレットに転送する仕組みも確認できた。実現性の観点からは、この機能による取引処理遅延への影響がさらに検証される必要がある
 
一定の制限はあるものの、様々な台帳に付利の仕組みを実装することにも成功している。ただし、これが取引に課される利率と見なされる可能性もあること34から、解決策として、ブロックチェーン型の実験で提案されているように、保管サービスのウォレット上にトークンを保存し、口座型と同様の方法で付利を行う方法が提案されている。
 
オフライン決済ができるトークン型の仕組みでは、付利や利用時間の制限を課すことについては大きな課題となったが、取引金額や保有上限を設けることは可能だった。安全な物理端末が決済時の内部照合ができるように設計されていれば、取引金額の制限や高額送金の記録といった機能にも利用できるためである。しかしながら、時間に依存する(time-sensitive)ような、例えば、期間を指定した取引制限を設計・実装するには、時々オンライン台帳に接続して条件を確認する必要があるため、これも課題として残っている。
 
実験では市民がひとつのデジタルユーロ口座/ウォレットを保有しているという仮定を置いており、仮定を満たすには新規口座/ウォレットの開設時に確認される必要があるが、この仮定を満たさない場合、正しく付利するためには、すべての口座/ウォレットの特定が必要である(後者は実験範囲外となっている)。
 
34 トークン型通貨に対する利息概念の問題と見られる(筆者の見解)。固定価値トークンでは、その価値(額面金額)は維持(固定)されるべきであるが「通貨(currency)」に対する「利息(interest)」によって実質価値が額面と乖離する可能性があるということ。例えば、利息がつくことで額面100円の固定価値トークンが額面の100円とは異なる価値を持ってしまうと、「100円の支払」という手段として使うことが難しくなってしまうということ(Wouter Bossu, Masaru Itatani, Catalina Margulis, Arthur Rossi, Hans Weenink and Akihiro Yoshinaga(2020), Legal Aspects of Central Bank Digital Currency: Central Bank and Monetary Law Considerations, IMF Working Paper, November 2020を参照)。日本では、口座型CBDCについては利息を消費寄託契約に基づく約定利息債権であると見なすことができるのに対し、トークン型では別の方法で利息を構成する必要があるという議論がなされている(中央銀行デジタル通貨に関する法律問題研究会(2020)「『中央銀行デジタル通貨に関する法律問題研究会』報告書」『日本銀行金融研究所/金融研究』2020.6を参照)。
(4) 最終利用者の接続
実験は、様々な利用手段(携帯アプリ、ウェブアプリ、カード、POI/POS35)を用いて実施され、多くの利用者がデジタルユーロを使うための多様な選択肢が提示された。既存インフラと既存技術を用いれば、デジタルユーロを決済手段として採用することは容易になる。非接触決済を可能にするNFC(近距離無線通信、near field communication)やBluetoothを利用した手段は、取引処理を高速化するには有用だが、情報量の多い取引が必要となる場合には実用性の面で限界もあった。具体的には、オフライン決済するためのトークン型物理端末の設計方法や、携帯端末・カードのアンテナの感度によっては特定の取引記録ができなかった。加えて実用化においては、端末やアプリに対して製造者が利用・接続制限を課している場合には、それらの制約も生じる。
 
政府発行のeIDを利用者認証に用いる検証では、eIDを用いたバルト諸国のSmartID(携帯アプリ)やスペインのeIDAS準拠の証明書が使われた。後者は、W3C(ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム、World Wide Web Consortium)により開発されているようなSSI(自己主権型アイデンティティ、self-sovereign identity)36に近い形である。検証されたモデルではいずれも、同一の口座/ウォレット提供者(provider)に対しては中央管理型(バルト諸国)とフェデレーション型(スペイン)の双方の利用者認証を実装することが可能であることが示された。さらなる検証が必要ではあるものの(例えば、完全な分散型(自己主権型)eIDや異なる口座/ウォレット提供者に対する検証)、既存のeIDASに準拠している政府のeIDシステム/証明書を他のIDサービスとともにデジタルユーロの利用者認証に用いることが可能だろうeIDとデジタルユーロ残高を紐づけることで、各種の制限や階層型の付利を行うことが比較的円滑にできる。また、eIDにより、異なるデジタルユーロ口座/ウォレットの間での切り替えが容易になり、本人確認(KYC)やマネロン対策の経費を軽減できる可能性がある。しかしながら、残念な事に、多くの国では政府のeIDの発行や利用が依然として相対的に低く、eIDAS規則の改正案で各国でのIDウォレットの導入によってこうした状況を変えようとしている状況である37。この実験によりeIDがデジタルユーロを導入にかなり有用であることが示されたが、普及が限定的であるため、eIDについてはより広範に利用されることが必要と言える
 
35 Point of saleの略であり、直訳は販売点。主に店頭(端末)のことで、販売時点情報管理(システム)を指すことが多い。
36 個人がIDを自身で管理する方法。例えば、安田央奈(2021)「『個人起点』がデータ流通を促進するブロックチェーンによる自己主権型アイデンティティの実現」2021年3月31日を参照。ただし、後述されているように、スペインはフェデレーション型とも言及されており、これは前文中で言う「サードパーティ型」(プラットフォーマー企業によるID管理)に近い可能性がある。
37 例えば、ジェトロ「欧州委、幅広い公共・民間サービスで利用可能なデジタルID規則案を発表(EU)」『ビジネス短信』2021年6月7日
3主な知見の結論
以上、作業部会と知見について見てきた。「主な知見」ではこうした結果を受けて、次のような結論を記している。
 
実験の結果、主要な評価論点のいずれにおいても技術的制約はなく、「報告書」で議論された設計要件を満たす手段が存在することが分かった。これらの結果は政策分野から法律分野まで多くの関連分野を踏まえて慎重に今後検討される必要がある。実現手段によっては、市民のためのデジタルユーロ(retail digital euro)として目的に適った実装が可能か、例えば安全性、信頼性、速度、利便性、効率(費用対効果)といったことを確認する必要がある。

の実践的知見(practical findings)は、政策議論やデジタルユーロの調査段階における実験に対しての基礎資料(input)となる。また、今後の調査で扱うような種々のモデルとの統合方法、および、ありうるデジタルユーロの利用例(use case)(例えば、デジタルユーロをどのように現在の決済環境に統合するのか、現行基準をどの程度まで拡張するのか、デジタルユーロが提供するサービスは何か)についての、決定や評価、さらなる作業への手引きとなるものである。可能なデジタルユーロの利用例を早期に絞り込むことができれば、的を絞った特定の技術的調査を今後、設定することも容易になる。

調査段階における実用的かつ概念的な調査は、これら実験段階で得られた知見(insights)を基に構築され、将来的に実証実験(live experimentation)で利用される実用最小限の製品(MVP:minimum viable product)開発に貢献するだろう。

4――おわりに

4――おわりに

今回ECBが公表した「主な知見」は技術的な内容に焦点をあてており、デジタルユーロを導入する意義(例えば、「報告書」でデジタルユーロ導入の要件として挙げられている通貨の競争力向上や国際化などの内容)については触れられていない。一方で、「主な知見では」技術的な観点からではあるが、TIPSなど既存の中銀決済インフラとの組み合わせ、EU全体で普及を図るデジタルID(電子ID、eID)との紐づけも検討されている。
 
今後、次のステップである調査段階ではEUの目指す政策との整合性や官民での協力方法(事業モデル)などが議論されると見られる。事前に受け付けたパブリックコメント(public consultation)の結果38ではプライバシー保護への関心が最も高かった。デジタルユーロは「デジタル化」された「市民向け(リテール)」通貨であるため市民との接点は大きく、市民とのコミュニケーションは当然ながら重要になるだろう(市民との対話は今年7月に公表された新しい金融政策戦略においてECBが強調した点でもある)。今後、秘匿性の確保をはじめとした機能やデジタルユーロの発行目的などについて、調査段階でもより深い検討とコミュニケーションが求められるだろう。
 
また、EUは成長戦略として大きくグリーン戦略とデジタル戦略の2本柱を掲げているが、デジタルユーロはこのうちのデジタル戦略と密接にかかわってくる可能性がある。ECBは、デジタルユーロの発行について現時点では意思決定を留保するなど慎重な姿勢を貫いており、あくまでも必要となった場合に遅れを取らないよう着々と準備を進めているが、取り組みへの積極性はそこまで高いようにも見えない。

これはグリーン分野において、ECBが新しい金融政策戦略(今年7月公表)の中で気候変動への対応を明記し工程表を作成、ECBの責務内でEUの成長戦略に協力する姿勢を見せていることと比較すると対照的とも言える。

しかしながら、中国におけるデジタル人民元の発行や民間における決済手段の多様化など、金融・決済システムが変化・多様化していくなかで、デジタルユーロ発行への機運がさらに高まっていくことは十分に考えられる。今後、デジタルユーロの発行が求められる状況となり、実際に発行の意思決定を行う場合には、「デジタルユーロ」プロジェクトが政府・中央銀行・民間が協力するデジタル分野での取り組みに事例となる可能性もあるだろう39。デジタルユーロがEUの進めるデジタル戦略の一環となることがあるのか、今後の動向が引き続き注目される。
 
38 優先度の高い順にプライバシー保護(41%)、安全性(17%)、汎欧州での利用(10%)だった。募集期間は2020年10月12日から2021年1月12日まで。
39 これは「報告書」におけるシナリオ固有要件「R1:デジタル化による効率向上」などと関連する目的でもある。なお、気候変動対応については物価安定を目標とするECBの「金融政策」に反映されたが、「デジタルユーロ」が(導入されるとしても)金融政策の手段として導入されるのかなどについては、現時点では未定ではある。
 
 

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経済研究部   主任研究員

高山 武士 (たかやま たけし)

研究・専門分野
欧州経済、世界経済

経歴
  • 【職歴】
     2002年 東京工業大学入学(理学部)
     2006年 日本生命保険相互会社入社(資金証券部)
     2009年 日本経済研究センターへ派遣
     2010年 米国カンファレンスボードへ派遣
     2011年 ニッセイ基礎研究所(アジア・新興国経済担当)
     2014年 同、米国経済担当
     2014年 日本生命保険相互会社(証券管理部)
     2020年 ニッセイ基礎研究所
     2023年より現職

    【加入団体等】
     ・日本証券アナリスト協会 検定会員

(2021年09月02日「基礎研レポート」)

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【デジタルユーロプロジェクト始動-予備実験の知見と今後】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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