コラム
2020年01月10日

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イチローはメジャーリーグのデータ革命をどう捉えていたか?

日米通算4,367安打を放つなど数々の金字塔を打ち立て、米メジャーリーグ(MLB)、シアトル・マリナーズなどで活躍したイチロー氏は、昨年3月21日、東京ドームでのマリナーズ対オークランド・アスレチックスの開幕第2戦終了後、現役引退を表明した。「おそらく今後、長く語り継がれるであろう」1深夜の引退記者会見は、3月21日の午後11時55分から翌日の午前1時20分頃まで及んだ。記者会見はテレビで生中継され、筆者もテレビにかじりついて見ていた。

イチロー氏から、ビジネスパーソンにとっても示唆に富む言葉が数多く語られたが、当時、「我が国がAI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)を社会実装し利活用していく上で、MLBで起きている『データ革命』に学ぶべきことが多々ある」との趣旨の論考2を丁度書き上げるところだった筆者は、イチロー氏の以下の発言を聞いた瞬間、テレビの前でドキッとしたことを今でも覚えている。
 
「2001年にアメリカに来てから2019年現在の野球は、まったく違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような。選手も現場にいる人たちもみんな感じていることだと思うんですけど、これがどう変化していくか。次の5年、10年、しばらくはこの流れは止まらないと思いますけど。本来は野球というのは…、ダメだな、これを言うと問題になりそうだな(会場笑)。うーん。(野球は)頭使わないとできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているというのがどうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから、その野球が現状そうなってきているということに危機感を持っている人っていうのがけっこういると思うんですよね」3
 
MLB では、グラウンドでのビッグデータの収集・分析が進み、これをうまくプレーに取り入れた選手やチームが躍動し、科学の力がベースボールを新たな時代へと導いた、との意見も多いが、イチロー氏のこの発言は、MLBでのデータ革命を否定したものなのだろうか、と筆者はテレビの前で考えた。発言の真意は、勿論イチロー氏本人に聞かないとわからないが、僭越ながら筆者は、「イチロー氏はMLBでのデータ革命自体を否定しているわけではないのではないか」とすぐに推測した。
 
実はイチロー氏の引退会見より以前に、筆者は当時執筆中の前出の論考4をほぼ書き上げており、MLBのデータ革命について、以下の考察を既に記述していた。

・MLBのデータ革命は、明らかに選手の意識改革につながった。勿論データの利活用には、個々の選手の創意工夫に加え、オフシーズンや日々のトレーニングにデータを取り入れ、実際のプレーで実践しようとする意識・努力が不可欠であることは言うまでもない。

・今やMLB では、データの持つ意味をしっかりと考え、それをうまく活用できる選手やチームが大きな成功を収める、と言っても過言ではない。

・MLBのデータ革命の象徴的な成果として「フライボール革命」5が挙げられる。データに裏付けられたフライボール革命の実践により、打者の潜在能力が引き出され、ホームランバッターとして開花した選手が急増し、打者のパフォーマンスが底上げされた。

このように、筆者は、MLBでのデータ革命を条件付き(各選手がデータの持つ意味をしっかりと考え、創意工夫を凝らすこと)で肯定的に捉えた。すなわち、データ革命が進行するMLBでも、選手はデータの分析結果を何も考えずに鵜呑みにして、ただ単に受け身の姿勢でプレーに取り入れるのではなく、データの持つ意味をしっかりと考え、データの利活用に創意工夫を加える意識・努力や能動的な能力の醸成が求められるのだ。データ革命時代の在るべき野球も、イチロー氏の言う通り、「頭を使わないとできない競技」であることに変わりはない。イチロー氏も、長年の経験や勘だけに頼るのではなく、対戦チームのデータを頭に入れてプレーしていたはずだ。

イチロー氏が引退会見で「世界一の選手にならなきゃいけない選手」6と評した、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手は、プロ野球・日本ハム時代と比べたMLBでのデータ利活用の取り組みについて、「いままでは、あまり考えるタイプではなかった。自分がしっかりやってきたものを出せば、負けないと思ってやってきたので。どちらかというと、身体的な部分で勝負してきたところが多いのかなと思っていた。(※MLBでは)やっぱり、それだけでは補えない部分があったりして、いっぱいデータがあるなかで、それを活用しない手はないなと思った」「日本にいた時より、打席の中でもマウンドでも、その外でも、やっぱり考える時間はすごく長いのではないかと思います」7と語っている。2018年シーズンにMLBに渡った大谷選手も、MLBへの対処法の一つとして、日ハム時代にはやらなかったデータ利活用を取り入れたのだ。しかも、大谷選手は、グラウンドの内外で考える時間が長くなったと語っており、受動的ではなく頭を使ったデータ利活用を行い、しっかりデータと向き合っている姿勢がうかがえる。

データ革命の下での野球では、各選手・チームが互いに切磋琢磨してデータ分析を行い、それに基づいた対抗策を打ってくるため、選手にとっての「最適解」も不変ではなく、変化し得ると考えなければならない。例えば、投手側の視点でデータ分析を行うと、フライボール革命に対抗するには、カーブや高めのフォーシーム(ストレート)が有効であるとの対抗策が出てくる。フライボール革命を鵜呑みにして、単にフライを上げることだけをバッティングに取り入れているバッターは、カーブや高めのフォーシームには対応できないだろう。身体能力だけでなく、まさに頭脳を駆使した勝負が求められているのだ。

にもかかわらず、今MLBでは、データの持つ意味を十分に考えずに、単にデータを鵜呑みにしてプレーに取り入れる選手が増えていることを、イチロー氏は憂慮しているのではないだろうか、と筆者は引退会見を見ながら考えた。イチロー氏の引退会見での発言は、MLBでのデータ利活用そのものを否定しているのではなく、大谷選手がそうであるように、「データの意味を十分に考え抜いて、データとしっかり向き合うことが極めて重要なのであり、逆に何も考えずに安直にデータを取り入れるだけだと、かえって選手の総合的なパフォーマンス力の退化を招いてしまう」との警鐘である、と理解すべきではないだろうか。

イチロー氏を長年現地で取材してきたスポーツライターの丹羽政善氏は、イチロー氏が引退会見で言及したMLBでの「頭を使わなくてもできてしまう野球」について、「状況をどう読むか。守備位置はどうか。野手の能力はどうか。投手はどんな攻めをしてくるのか。その中で得点につなげるには、どんなアプローチがベストなのか。ありとあらゆる引き出しの中から、最善策を探す。投手のデータも頭に入れ、どう角度をつければヒットになるかも把握している。経験、データ、技術。すべてが集約されてはじめて、1本のヒットにつながり、得点を生む。しかしながら今、どうにもそうした頭を使った複雑なプロセスが軽視されているのではないか。イチローは、データそのものを否定しているわけではない。危惧しているのは、それとの距離感なのである」8と述べている。
 
1 丹羽政善「イチローが語る『頭を使わなくてもできる野球』とは」『日本経済新聞電子版』2019 年4月1日より引用。
2 書き上げた論考は、「AI・IoTの利活用の在り方─米メジャーリーグの『データ革命』に学ぶ」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2019年3月29日として発表した(加筆修正版は同名論考『ニッセイ基礎研所報』2019年Vol.63、2019年6月)。
3 西岡千史「イチロー引退【会見全文・後編】『大谷翔平は世界一の選手に』『外国人になって人の痛み想像した』」朝日新聞出版『AERAdot.』2019年3月22日より引用。
4 注2と同様。
5 ビッグデータ分析の結果、バッターが好業績を残している打球の速度と角度で表される最適な領域(バレルゾーンと呼ぶ)が発見され、多くのバッターがバレルゾーンを目指し、フライを上げようと取り組んでいるため、MLB ではフライボール革命が起こっている、と言われる。
6 注3と同様。
7 NHKホームページ「大谷翔平『大リーグ挑戦 1年目の姿』」『NHK SPORTS STORY』2018年10月17日より引用。(※ )は筆者による注記
8 丹羽政善「イチローが語る『頭を使わなくてもできる野球』とは」『日本経済新聞電子版』2019 年4月1日より引用。

AI・IoTとの向き合い方へのインプリケーション

筆者は当時執筆中の前出の論考9にて、前述の通り、MLBのデータ革命を条件付きで肯定的に捉えるとともに、そこから得られるビジネスパーソンのAI・IoTとの向き合い方へのインプリケーションとして、次のようなポイントを挙げた。

・AI・IoT は、人間の労働を奪うのではなく、人間の潜在能力を引き出し能力を拡張させるために利活用すべきである(MLBでは、例えばフライボール革命の実践により、打者のパフォーマンスが底上げされた)。

・企業では、経営層・従業員を問わずあらゆる構成員が、データ利活用を「自分事」として捉え、AI・IoT による分析データの持つ意味をしっかりと考え、データ分析を各々の業務・タスクに取り入れ、うまく利活用するための創意工夫を凝らす努力を日々続けることが不可欠である。

・AI・IoT により自動的にデータ分析される利便性に安住し、その分析結果を十分に確認・吟味しないまま鵜呑みにして機械的に業務・タスクの意思決定に用いるようなスタンスが企業内に蔓延してしまうと、人間の能力拡張どころか、逆に能力の退化を招いてしまい、AI に真っ先に代替される人材を増やしてしまうことになりかねないことに、経営層や従業員が十分に留意すべきである。

このように、ビジネスの世界でAI・IoTを利活用する場合も、これまで述べてきたデータ革命下の在るべき野球と全く同様に、当事者である企業の経営層や従業員などのビジネスパーソンが、頭を使わず安直にAI・IoTを受け入れるのではなく、AI・IoTによる分析データを業務・タスクにうまく利活用するための創意工夫に頭を使い続け、AI・IoTとしっかり向き合っていかなければならないのだ。

MLBでは、「データ革命の下では、バッター・投手・野手にとっての『最適解』も不変ではなく、変化し得る」と述べたが、この点も産業界と全く同様である。すなわち、AI・IoT時代では、各企業がデータ分析・利活用で競い合う結果、データ分析から導かれた戦略の最適解は変化し得ることに留意すべきだ。この点からも、「データ利活用時代」では、経営層や従業員には、変化への柔軟な発想・対応が求められる。最適解が変化し得る時代こそ、経営層や従業員には、受動的な「AI任せ」のスタンスではなく、従来以上に自らが分析データの持つ意味をしっかりと考え抜き、そして見極めて判断する能力が求められるのではないだろうか10

そもそもAI は、ディープラーニング(深層学習)の過程で学んでいない想定外の事象に対して、臨機応変に対応することができない11。従って、複数のタスクをこなせない現在のAI (=特化型AI)は、想定外の事象が無限に起こり得る複雑な現実世界では、その力を発揮できなくなる可能性が高まってしまう一方、閉じた限定的シーンで特定のタスクを明確なルールに基づいて実行させると、非常に大きな成果をもたらす。その意味では、現実社会の複雑な環境下で用いられる自動運転技術の実用化は、AI の社会実装における最大のチャレンジである、と言っても過言ではない。野球においても、実際のゲームでは想定外の事象がいくらでも起こり得る中で、精緻なデータ分析手法を駆使しても、それらを100%のカバー率で事前に予見し準備しておくことは不可能だろう。

AI の開発・実装においては、AI に関わる科学者・開発者や経営者など人間が、特化型AI の性能を最大限に引き出すべく、AI が解くべき問題およびAI を利活用する環境・領域をしっかりと設定することこそが最も重要である、と言っても過言ではない12。つまり、この局面でも人間がしっかりと「頭を使わなければならない」のだ。
 
筆者は、イチロー氏の引退会見での発言が当時筆者が執筆中だった論考の主張と整合的であると判断し、会見をテレビで見た後に、論考の論旨を修正することは一切なく、会見から1週間程度経った昨年3月29日に「AI・IoTの利活用の在り方─米メジャーリーグの『データ革命』に学ぶ」と題した論考を弊社媒体『基礎研レポート』として発表した。

AI・IoTの必要性が叫ばれる今こそ、経営層や従業員などのビジネスパーソンは、AI・IoTをうまく使いこなすためには、「頭を使わなければならない」というイチロー氏の言葉を肝に銘じるべきではないだろうか。
 
9 注2と同様。
10AI・IoTの利活用の在り方─米メジャーリーグの『データ革命』に学ぶ」『ニッセイ基礎研所報』2019年Vol.63、2019年6月にて指摘。
11AI・IoTの利活用の在り方─米メジャーリーグの『データ革命』に学ぶ」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2019年3月29日にて指摘。
12 拙稿「自動運転とAIのフレーム問題─AIの社会実装へのインプリケーション」『基礎研レポート』2019年11月18日にて指摘。

<参考文献>
(※弊社媒体の筆者の論考は、弊社ホームページの筆者ページ「百嶋 徹のレポート」を参照されたい)
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社会研究部   上席研究員

百嶋 徹 (ひゃくしま とおる)

研究・専門分野
企業経営、産業競争力、産業政策、イノベーション、企業不動産(CRE)、AI・IOT、スマートシティ、CSR・ESG経営

(2020年01月10日「研究員の眼」)

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【イチロー引退会見に学ぶAI・IoTとの向き合い方】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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