2016年11月04日

ハード・ブレグジット懸念で進むポンド安

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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英ポンドの対ドル相場が1ポンド=1.3ドルを割込む31年振りの安値圏に達している(図表)。ポンド相場は、6月23日の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票の結果判明後に急落した後、しばらくは落ち着いていた。離脱という結果が引き起こした政治的な混乱が、残留派のメイ首相率いる政権の発足で比較的短期に収拾したことが下支えとなった。さらに、実際の離脱はまだ先であり、離脱してもEUの単一市場への自由なアクセスを大枠では保つ「ソフト・ブレグジット」に落ち着くのではないかという期待もあった。

しかし、10月2日の保守党大会のメイ首相の施政方針演説をきっかけにポンド売りが再燃した。英国政府がEUとの交渉でEUからの移民の制限を優先し、EUとの財・サービス・資本移動の自由を犠牲にする「ハード・ブレグジット」に舵を切ったとの受け止めが広がったからだ。
英ポンドの対ドル相場
メイ首相が演説で明らかにしたのは、離脱のスケジュール、プロセス、離脱後の英国についての政府の方針の3点だ。スケジュールについては、17年3月末までに原則2年間の離脱交渉の起点となる離脱意思のEUへの告知を行うことを公式に表明した。プロセスについては、告知やEUとの協議は議会の手続きは経ず、政府の権限で進めることと、EU離脱後、EU法が英国に直接効力を及ぼすことがないように、「1972年欧州共同体法」の廃止手続きに動く方針を示した。そして、最も重要な離脱後の英国とEUの関係については、過去40年間と類似した関係の構築を目指すものではないということ、欧州経済領域(EEA)という枠組みでEUの単一市場への自由なアクセスを確保し、労働移動の自由を受け入れてきた「ノルウェー型」、二当事者間協定を通じて、人の移動の自由を受け入れる見返りにEU市場への幅広いアクセスを確保する「スイス型」を否定した。

しかし、移民制限のためならばEUの単一市場へのアクセスを犠牲にしてもいいと明言した訳ではない。むしろ、EUとは、テロ対策での協調などを含む「成熟した協調的な関係」を構築、「英国企業にEUの単一市場との貿易や事業活動の最大限の自由を与え、欧州企業にも英国で同様の権利を与える」とも述べた。それでも、メイ首相は「ハード・ブレグジット」を辞さないと受け止められたのは、主権国家として「移民をどのようにコントロールするか、どのような法律を通すかは我々が決める」ことを強調したからだ。また、演説の冒頭と最後で「英国を少数の特権階級のためではなく、一般の労働者階級世帯のための国にする」と述べた。進出日系企業も含むビジネス界が望む単一市場への自由なアクセスよりも、労働者階級の懸念が強い移民制限を優先するシグナルとも感じられる。

一方のEU側は、英国が国民投票で離脱を選択した後、単一市場の原則である「財・サービス・資本・人」の4つの自由の「いいところどり」は認めない方針を確認している。英フィナンシャル・タイムズ紙が、フランスのオランド大統領が10月6日の講演で、他国の離脱を促さないために、英国との交渉には断固とした態度をとるべきであり、英国は離脱に伴うコストを払うべきと述べたと伝えたことも、「ハード・ブレグジット」観測を強めた。

人の移動の制限を掲げる限り、EU市場での「最大限の自由」を勝ち取る見込みはない。しかし、メイ首相は、保守党内の離脱派との融和、そして国民投票で示されたEUからの移民の増大に対する「一般の労働者階級」の不満に応え、政権の基盤を固めるために、「EUを離脱し、移民や法規制に関わるコントロールを取り戻す」方針を掲げざるを得ない。

筆者は、最終的には、英国とEUは、財・サービス・資本移動などの面でビジネス環境の激変を回避し、人の移動に関しても何らかの妥協策を見出して「ソフト・ブレグジット」に落ち着くと見ている。ただ、振り子がいったん「ハード・ブレグジット」に大きく振れなければ、英国とEUが妥協点を見出そうという機運は高まらない面はあろう。

2017年は春にフランスが大統領選挙、秋にドイツが議会選挙を予定していることもあり、英国政府が離脱意思を告知した後も、しばらく、協議は平行線を辿る可能性が高い。離脱後の英国とEUの関係に関する協定を欠いたまま2年間の交渉期限を終える「ハード・ブレグジット」を意識せざるを得ない局面が続きそうだ。

31年前のポンド安は、米国のドル高誘導を圧力とするもので、「プラザ合意」に至るドル高政策の修正によって解消した。しかし、今回は、ブレグジットがどのような形をとるかへの不安がポンド相場の重石となっており、直ぐには解消しそうにない。少なくとも向こう2年間、ポンド相場が離脱協議の行方に一喜一憂する神経質な動きが続きそうだ。
 

 
  1 英国のEU離脱選択の背景やその影響について詳しくは、伊藤さゆり「EU分裂と世界経済危機 イギリス離脱は何をもたらすか」(NHK出版新書)をご参照下さい。
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2016年11月04日「ニッセイ年金ストラテジー」)

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