2024年03月05日

コーポレートガバナンス改革と退職給付信託

慶應義塾大学商学部 柳瀬 典由

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2021年6月、「コーポレートガバナンス・コード」の再改訂ならびに「投資家と企業の対話ガイドライン」の改訂が行われ、アセットオーナーとしての企業年金の役割の重要性が確認される一方で、母体企業と企業年金受益者との潜在的な利益相反に関する原則も強化された。本稿では、母体企業・受益者間の利益相反の可能性について、特に、母体企業が退職給付信託で保有しているみなし保有株式の取り扱いの観点から考察する。
 
退職給付信託とは、母体企業が保有する株式等の有価証券を退職給付のための信託契約に拠出する仕組みである。母体企業はまず、信託銀行と信託契約を結び、退職給付に備えた資産を拠出する。拠出された資産は、信託銀行が形式上保有することになり、信託銀行を通じて、受益者に対する退職給付の支払いが履行される。もちろん、信託拠出された資産は退職給付以外の目的には使用できず、法的に事業主たる母体企業から分離されるが、拠出された資産が株式の場合には、信託契約において、議決権の行使を指図することが可能となる。
 
重要な点は、この仕組みを利用することで、母体企業が保有する持ち合い株式を事実上手放すことなく、つまり、議決権行使の可能性を残しつつも、企業年金の積立不足を圧縮することが可能となる点である。というのも、「退職給付に係る会計基準」では、企業の保有資産を退職給付信託として拠出することによって、一定の要件をみたした場合には、会計上の年金資産とする方法が認められているからである。
 
退職給付信託は 2001年3月期の「退職給付に係る会計基準」導入時に併せて設けられたという経緯がある。「退職給付に係る会計基準」の導入によって、企業年金の積立不足部分が新たに退職給付引当金(現在の退職給付に係る負債)として認識されることになったのだが、当時の日本の上場企業の多くは会計上の積立不足に直面しており、退職給付に係る新たな負債がオンバランスされることで、自社の格付けや債務契約に好ましくない影響が生じることを懸念していた。また、退職給付引当金の負債認識に伴って、その償却額は損益計算書を経由して各期の純利益にも影響を与えることから、将来的に認識しなければならない負債額を圧縮したいという動機づけも生じていた。そこで、当時、会計上の積立不足に直面していた企業の中には、保有株式を企業年金制度に拠出することで積立不足の穴埋めを行うものが少なからず存在した。そして、これを実施するためのスキームとして退職給付信託が利用されたのである。これにより、母体企業は、持ち合い株式を実質的に社外放出せずその議決権を保持したまま、積立不足への対処を可能とした。つまり、持ち合い株式を通じた企業間関係は維持しつつも、実質的に「退職給付に係る会計基準」への対応を行ったのである。
 
このように、退職給付信託に設定された株式は母体企業でなく信託銀行が保有するものの、議決権行使の指示権限は母体企業に残されているため、みなし保有株式として実質的には政策保有株式と同様に取り扱われている。したがって、このようなみなし保有株式は年金資産の一部を構成するにも関わらず、事実上、議決権を有する母体企業が裁量的にその管理を行う余地が大きいため、母体企業・受益者間の利益相反の可能性も懸念される。
 
さらに、みなし保有株式を含めた政策保有株式は、経営者・株主間のエージェンシー問題が懸念されることから、有価証券報告書やコーポレートガバナンス報告書上で、その保有状況の開示が求められている。さらに、世界最大の機関投資家の一つでもある年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)によれば、「政策保有株式は、非効率な資本管理・経営規律の低下に繋がる懸念がある」との指摘も行われており、「みなし保有株式を含めた政策保有株式の縮減方針、及び縮減に向けた中長期的な時間軸や計画について公表されること」が期待されている。
 
それでは、退職給付制度を採用する上場企業のうち退職給付信託を活用しているのはどの程度あるのだろうか。表は2013年度から2021年度までの期間において、退職給付制度を有する企業に対する退職給付信託の利用割合を計算し各年度の推移を示したものである。なお、分析対象は全上場企業(国内上場普通株式、全業種)であり、12か月決算以外の企業や債務超過企業はサンプルから除外している。事業年度は4月期決算~3月期決算で定義している。データはAstra Manager (Quick)からデータを入手し筆者が独自に計算した。表によると、サンプル期間平均としては退職給付制度採用企業のうち約12%の企業が退職給付信託を活用しており、少なくとも2010年代中葉以降のわが国のコーポレートガバナンス改革期を通じて、その割合は低下していない。
 
退職給付信託の利用状況(2013年度~2021年度)

コーポレートガバナンス改革が進展するなか、退職給付信託やみなし保有株式の問題は、母体企業・受益者間の潜在的な利益相反を考える上で興味深いテーマである。開示データにもとづき、その意義や役割を改めて議論することは重要ではないだろうか。
 
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慶應義塾大学商学部

柳瀬 典由

研究・専門分野

(2024年03月05日「ニッセイ年金ストラテジー」)

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