2022年07月12日

変わるEUの対中スタンス-2022年7月アップデート

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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1――はじめに

2020年12月30日に欧州連合(EU、European Union)と中国が大筋合意した包括投資協定(以下、CAI、Comprehensive Agreement on Investment)が凍結状態となっている。少数民族ウイグル族への人権侵害を巡る対立が直接のきっかけだが、ロシアによるウクライナ侵攻という衝撃もあり、欧州議会による同意、EU理事会(閣僚理事会)の承認手続き再開は遠のいている。

本稿は、22年1月に公表したEUの対中スタンスの変化について、経済的な側面に焦点を当てて論じたレポートに、ウクライナ侵攻による影響を反映する修正を加えたものである。

2章では、CAIの大筋合意までの経緯とその後の流れ、内容、EU側の目的に照らし合わせた評価を概観する。大筋合意したCAIは、その名称とは異なり、「包括的」とは言い難いが、EU加盟各国が個別に締結した二国間投資協定が並存する分散状態を改め、EU側に不利な状況にある市場アクセスに関わる相互主義化、中国市場における競争条件の公平化という狙いや、中国によるパリ協定の履行や人権問題への取り組み加速などEUが重視する持続可能な開発目標の実現につながる可能性を秘めてはいた。しかし、約束の履行が確保されず、中国に「いいとこどり」を許すだけに終わるという反対派の見方を覆せなかった。中国への不信感の高まりがCAI凍結の背景にあり、ウクライナ侵攻で事態が悪化したことを明らかにする。

3章では、EUの中国政策の時系列での変化を追う。CAIの大筋合意前の段階から、EUは中国に対する地経学的な警戒を強め、グローバルなルールメーカーとしての影響力や産業戦略、通商政策を行使して「戦略的自立」を目指す方向にあった。ウクライナ侵攻で、EUと米国の距離は近づき、政策の優先順位や求められるスピードは変わったが、戦略的自立の必然性は一層高まっていることを明らかにする。EUは中国を念頭においた単一市場防衛のための規制の強化を進め、中国の「一帯一路」に代替する「グローバル・ゲートウェー」構想を通じて戦略的利益を追求する構えを示してきた。域外との関係は、ウクライナ侵攻を境に、エネルギー安全保障の強化や、ウクライナの復興支援という様相を強めることになるだろう。

4章では、EU・中国間の直接投資や貿易の動きも踏まえたEUと中国の関係への理解を示し、5章で日本はどう向き合うべきかを考察する。

2――宙に浮く包括投資協定(CAI)

2――宙に浮く包括投資協定(CAI)-何が問題だったのか?

1|経緯
EUにとって、CAIは、加盟国が個別に締結した投資協定に替わり「EUと中国間の投資関係で一貫した法的枠組みを構築」すること、すなわち加盟各国が個別に締結した二国間投資協定が並存する分散状態を改めるものである。

最大の狙いは中国におけるEU企業の競争条件の公平化にあった。EUの会社法・競争法がEU企業と非EU企業を区別せず、官民も無差別であるのに対して、中国では外資と国内民間企業と国有企業を差別し、国有企業を優遇していることが問題となってきた。中国市場へのアクセスに関わる様々な障壁、制度・政策面での予測可能性の低さや不安定さも問題となってきた。

2013年11月の第16回EU・中国首脳会議で交渉開始が発表され、14年1月に最初の交渉が行われたが、現状で有利な立場にある中国側は、EUが求める「相互主義」を拒否するなど、協定締結の意欲は低く、7年がかりの交渉にも関わらず、20年内の合意は難しいとの見方が支配的だった。

一転して、20年12月30日に大筋合意に至ったのは、同盟国との共同歩調を掲げ、人権問題を重視するバイデン政権の発足(21年1月20日)を前に、中国が譲歩の構えを見せたからと言われる。他方、EU側は、2020年1月の米中の第一段階合意や同年11月の地域的な包括的経済連携協定(RCEP)で、競争条件が不利化することを防ぐ必要にも迫られていた。こうした背景から、20年下半期、EU加盟国が半年毎の輪番制で務めるEU理事会の議長国であったドイツのメルケル首相(当時)が「相当強引にまとめ上げた」1と評価されているが、「駆け込み合意」、「人権よりカネ」という印象を与え2、域内外で波紋が広がった。

大筋合意の後、2021年1月22日には欧州委員会がCAIの条文テキストを、「社会的な関心の高まり」を考慮して「情報目的」という位置づけで、一部が未定の状態で公表し、双方が作成した市場アクセスのスケジュールに関する付属書は21年3月12日に公表された3

協定は、双方が必要な手続きの完了を通知した日から2カ月後に発効するが、大筋合意から1年半となる今も発効の目途は立っていない。EU側の手続きが凍結されているためだ。EUの場合、欧州議会による同意、EU理事会(閣僚理事会)の承認手続きが必要だが、欧州議会は21年5月20日にCAIの批准手続きを賛成599対反対30という圧倒的多数で凍結することを決めた。21年3月22日に少数民族ウイグル族への人権侵害を巡りEU外相理事会が中国に制裁を決めたことを受け、中国政府がただちに報復制裁に動いた4ことを受けた決定だ。欧州議会は、中国の制裁が解除されない限り、審議には応じない方針だが、中国はEUが「人権の先生」として振る舞うことへの反発を強めている。ロシアによるウクライナ侵攻は、次節で見る通り、中国とEUの価値観を巡る溝を際立たせる要因となっており、協定の発効は極めて困難な状態に陥った。
 
1 鶴岡路人「EU・中国投資協定-問われるのは中国との関係の将来像」笹川平和財団国際情報ネットワーク分析IINA21/2/4
2 唐鎌(2021)83頁
3 EU – China Comprehensive Agreement on Investment (CAI): list of sections agreement in principal, 22 January 2021
4 EU側の新疆ウイグル自治区政府幹部ら中国当局者4人と1団体を対象とするEUへの渡航禁止や資産凍結などの制裁措置に対して、中国側は欧州議会議員を含むEU関係者10名とEUの関係の2組織、2つのシンクタンクを対象とする入国禁止などに動いた。中国の専門家の間では、EUの限定的な措置に対して、中国側の措置が厳し過ぎ、CAI凍結という誤算を招いたという見方がある(瀬口清之「中国が戦狼外交で失った莫大な資産 伝統の「徳治」を重んじる外交は考えられないのか」JBpress2021年6月17日、高橋邦夫「変調来す中国・欧州関係」日本総合研究所・国際戦略研究所『中国情勢月報』No.2021-03 2021年6月30日など)
2|内容
CAIは、大筋合意段階の「包括的」という名称とは異なり「投資保護と投資紛争解決メカニズムに関する交渉は、CAIの署名から2年以内の完了を目指す」とするなど、「部分的」なものに留まっている(図表1)。

それでもEUが求めてきた市場アクセスの相互主義化、対国有企業での競争条件の公平化や、制度・政策面での予見可能性の向上について、一定の成果は得られている。

第2章の「投資自由化」では、第2条の「市場アクセス」で、付属文書に記載したスケジュールに沿った参入障壁の削減を約束した。製造業に関しては限定的な例外分野以外は、広範囲のアクセスを認める。自動車、金融ビジネス・サービス、環境サービスなどで合弁要件を緩和する。投資許可段階での特定措置の履行を求める「パフォーマンス要求(PR)の禁止(第3条)」、自国企業の待遇より不利でない待遇を与える「内国民待遇(NT)(第4条)」、最も有利な待遇が与えられている国と同一の待遇を確保する「最恵国待遇(MFN)(第5条)」などを約束した。サービス・セクターの約束はWTO(GATS)のMFNルールによりEU域外にも適用される。

第3章の「規制の枠組み」では、企業設立と操業に関するライセンスや資格の要件、手続きの明確化、透明化、公平性(以上、第1節)、機密情報開示要求の否定、規制や行政ガイドライン、行政手続きの透明化、スタンダードの設定に関わる手続きの透明化、国内企業と同等の権利での参加、補助金の透明化と補助金による投資利益への負の影響緩和のための協議(以上、第2節)などを約束している。国有企業との競争条件の公平化や、市場歪曲的な補助金への対応、技術移転の強要などの問題の改善につながる約束と位置付けられる。

EUが通商協定等の交渉で重視する持続可能な開発目標に関する合意も実現した。第4章の「投資と持続可能な開発」では、中国が締結した協定として初めて、気候変動に関する国連枠組み条約とパリ協定の履行、気候変動緩和・適合のための再生可能エネルギー、低炭素技術、高エネルギー効率の製品・サービスへの投資の促進、他地域との協力を約束した(以上、第2節)。労働に関しても、国際労働機関(ILO)の中核的条約の4分野の8条約のうち、中国の批准は4つのみだが、未批准の強制労働に関する中核的条約(29号、105号)批准に向けての「継続的かつ持続的な努力」と、他の未批准の2条約(結社の自由に関する87号と団結権・団体交渉権に関する98号)についても批准に向けた「取り組みを進める」約束をした(以上、第3節)。第4章に関する見解の相違には、国家間の紛争解決メカニズム(未合意)とは別に専門家パネルが関与し解決することで合意している(以上、第4節)。
図表1 EU・中国包括投資協定(CAI)章立て
3|評価
EUは、CAIの大筋合意時、成果として、EU企業の中国市場へのアクセスを改善し、競争条件の公平化、国有企業や補助金に関するルールの約束を取り付けた点を強調した5。批准のための手続き凍結の原因となった人権問題に関しても、前項の通り、CAIでは、中国は改善に向けた努力を約束している。CAIの大筋合意が「部分的」であるのは、今後の包括的協定への拡張を前提としている。産業界は、CAIを長年にわたる問題解決に向けた一歩として基本的に歓迎した。

他方、CAIへの批判には合意のタイミングが米国との関係に悪影響を及ぼすとの懸念に加えて、合意の範囲の狭さ、約束の履行が確保されていないことへの懸念などがある6。例えば、ILO中核的条約の批准に関しても、期限の設定がなく、単に努力を約束しているだけである。このため、WTO加盟後と同じように中国の約束は履行されず、「いいとこどり」を許すだけに終わるとの懸念が強い。

CAI凍結はEUにおける中国への不信感の高まりの象徴であったが、ロシアのウクライナ侵攻でEUと中国の間の遠心力は一段と強まっている。中国は、ウクライナ侵攻直前の首脳会談でロシアとの無制限の友好と協力を確認している(図表2)。ウクライナ侵攻に対しても、中国はロシアの動機に理解を示し、西側の制裁を批判する立場をとっている。EUは、EUにとって痛みを伴う経済制裁をロシアに課しており、中国が「抜け穴」となることを懸念している。4月1日には、ミシェルEU首脳会議常任議長とフォンデアライエン欧州委員会委員長、中国の習近平主席によるオンライン首脳会議が開催されたが、双方の議論がかみ合わないままに終わった7
図表2 中ロ首脳会談共同声明のポイント
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

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