2021年05月27日

EUのワクチン・パスポートは景気回復の切り札か?

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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高まる欧州経済の回復期待

欧州経済の回復期待が高まっている。ユーロ圏経済は、昨年秋からの感染拡大に対応した厳しい行動制限の影響で1~3月期まで、2四半期連続のマイナス成長となった。欧州の景気回復は、米国はもちろんのこと、日本に比べても大きく遅れをとった(図表1実線)。

しかし、ワクチン接種ペースは、足もとでは米国を上回るペースに加速(図表2)、感染者数は明確な減少傾向を辿るようになり(図表3)、感染封じ込めのための行動制限を緩和する動きが広がっている(図表4)。

バカンス・シーズンを前に、EUが、圏内の移動の円滑化のためのワクチン・パスポートの導入を決め、域外国からの入境制限も緩和の方向にあることも、景気回復期待を後押しする材料となっている。欧州委員会が今月公表した「2021年春季経済見通し」でも、バカンス・シーズンと重なる7~9月期の回復ペースの加速の見通しが示されている(図表1点線)。
図表1 日米欧実質GDPとユーロ圏の予測/図表2 人口100人当たりワクチン接種回数
図表3 新規感染確認数/図表4 主要国・地域の厳格度指数

ワクチン・パスポート

ワクチン・パスポート「EUデジタルコロナ証明書」は7月1日導入へ

EUは、ワクチン・パスポート「EUデジタルコロナ証明書」1(以下、証明書)を、閣僚理事会と欧州議会による承認を経て、7月1日から正式に導入する(図表6)。幾つかの国は6月中の先行導入を予定する。

証明書は、デジタルまたは紙の様式で、EU域内、シェンゲン圏(域内自由移動空間)内2で、EU市民、住民のワクチンの接種歴3のほか検査による陰性、感染からの回復を証明する共通の枠組みである。証明書の保持は、移動の前提条件とするものではないが、証明書の保持者は入国時の自主隔離や検査などの追加的な制限が原則として免除され、圏内の移動を円滑化する目的がある4。各国の判断によって、国内において証明書として活用することもできる。

EUでは、証明書の導入と合わせて、安価に検査できるよう、EU財政からの1億ユーロ相当(133億ユーロ)の支援も行うことも決めている。
図表5 EUのワクチン・パスポート「EUデジタルコロナ証明書」の概要/図表6 EUにおける観光関連サービス売上高と旅客宿泊数
 
1 今年3月17日の欧州委員会の提案の段階の「デジタルグリーン証明書」という名称から変更された。
2 EU加盟国は27カ国、シェンゲン圏は26カ国で多くは重複するが、アイルランド、キプロス、ブルガリア、ルーマニア、クロアチアはEU加盟国でシェンゲン圏未加盟国、ノルウェー、アイスランド、スイス、リヒテンシュタインはEU未加盟のシェンゲン圏参加国。詳細はhttps://www.schengenvisainfo.com/schengen-visa-countries-list/を参照
3 欧州医薬品庁(EMA)が承認するワクチンを到着14日前までに完了しているケースを対象とするが、世界保健機関(WHO)が緊急使用リストに登録したワクチンも対象に含めることができる。
4 但し、感染状況が悪化した場合などの科学的根拠に基づく規制の再導入は、48時間前までに他の加盟国や欧州委員会に通知することを条件に認める。
 

証明書の導入を熱望した観光業依存度の高い国々

証明書の導入を熱望した観光業依存度の高い国々

証明書の導入によって、パンデミックにより生じた単一市場内のヒトの移動の障壁が削減されることは、深刻な打撃を受けた観光業の支援材料となる。EU全体の観光関連サービスの売上高は、コロナ前の3割程度の水準、旅客宿泊数も前年をおよそ8割下回る状況にある(図表6)。昨年のバカンス・シーズンは、行動制限の緩和で一時的に回復したが、その後、感染が再拡大し、回復基調を維持できなかった。欧州のバカンス・シーズンに相当する6月~9月は、旅客宿泊数のベースでEU全体では4割強、最も高いクロアチアでは7割強、ギリシャでも6割近くを占める。バカンス・シーズン前のワクチンの接種の加速と証明書の導入は、観光業への依存度が高く、コロナ禍による落ち込みが深刻な国々(表紙図表の右上の国々)が熱望したものでもあった。
 

圏外からの渡航の制限も感染状況や…

圏外からの渡航の制限も感染状況やワクチン接種状況などに応じて緩和

EUでは、域内移動に関わる証明書の導入と共に、圏外から入境に関しても、ワクチン接種の進展などを反映した制限緩和の方向に動き出している。

5月20日の閣僚理事会では、欧州委員会からの提案を受けて、(1)不要不急の入境制限解除国の条件の緩和(直近2週間の人口10万人あたりの累計感染者数25人未満⇒同75人未満)5、(2)ワクチン接種完了者への入境制限の緩和、(3)「緊急ブレーキメカニズム」導入などを採択した。

うち、(1)の不要不急の入境制限解除にあたっては、感染者数に関する基準のほか、新規感染者数の安定ないし減少傾向や検査の実施数、陽性率4%の基準値、コロナ対策、相互主義の対応が講じられるかといった要因も考慮する。入境制限解除対象国のリストは2週間ごとに見直しており、直近は豪州、ニュージーランド、ルワンダ、シンガポール、韓国、タイ、イスラエルが掲載、中国、香港、マカオについては相互主義の確認次第となっている。

(2)のワクチンの接種完了者への入境制限緩和は、EUが導入する証明書と同じように、入境時の検査や自己隔離を免除するものである。当面は加盟国が判断をするが、EUの証明書の導入後は、欧州委員会が、第3国のワクチン証明書との同等性を評価することも可能になる。市場規模が大きい米国、隣接する英国などとの相互承認が実現すれば、観光業にとっての効果は大きい。

(3)の「緊急ブレーキメカニズム」は、第3国・地域の疫学的状況の急変に対応して緊急かつ時点的に制限を導入することを認めるものであり、変異株の拡大などの事態を想定している。  

各国の行動制限は緩和の方向ながら解消はしていない

各国の行動制限は緩和の方向ながら解消はしていない

こうした一連の取り組みは、パンデミックが続いているからこそ必要とされるものであり、移動の自由の本格的な回復からは、なお程遠い状況にあることに留意が必要だ。

各国国内での感染封じ込めのための行動制限は、段階的な解除が広い範囲で進んでいるが、平時からはなお程遠い状況にある。英オックスフォード大が算出する行動制限の厳格度指数の直近の水準も、多くの国が40~50台の中位にあり、ドイツやイタリアでは、厳しめの制限が継続されていることが確認できる(図表7)。
図表7 欧州における行動制限の現状

EU圏内の殆どの地域は…

EU圏内の殆どの地域は移動制限が正当化される感染リスク中~高リスクに分類

圏内のヒトの移動の自由はEUの単一市場の基本原則「4つの自由」の柱の1つであり、EU市民の基本的な権利である。

他方、加盟国には独自の国境管理体制を導入することが認められている。国境管理の導入には、一定の条件を満たす必要があり、欧州委員会への事前通達も求められる。事前通達の承認の権限は欧州理事会(EU首脳会議)が有するが、いずれも執行を停止する権限はない。

圏内での独自の国境管理の動きは2015年の難民危機でも問題となったが、新型コロナのパンデミックの初動では、感染封じ込めのために一方的に国境管理を導入する動きが広がった6

EU市民を対象とする国境管理は基本的な権利の問題でもあり、国境を越えた通勤、通学、配送や、農業の収穫期の季節労働者の確保の支障ともなった。

各国独自の国境管理による問題緩和のため「協調的なアプローチ」を求める欧州委員会の訴えは、当初の段階では加盟国の賛同を得られなかったが、昨年10月13日には、閣僚理事会が「コロナ対応の自由移動の制限に対する協調的アプローチ」を採択、今年1月28日には変異ウイルスの感染拡大という事態を踏まえた改定案も採択するなど、形の上では「協調」が見られるようになった。証明書の導入も、その延長上にあるものと言える。

「協調的アプローチ」のベースは、制限は「公衆衛生を守るために真に必要な範囲を超えるべきではない」、「免疫がある、感染させることがないなどの理由で公衆衛生にリスクをもたらさない人の自由移動は制限されるべきではない」という理念にある。国境を越えた通勤、通学や、業務上の理由や家庭の事情、医療目的の越境などは追加的制限の対象外とすることも含まれる。

「協調的アプローチ」では、制限の範囲や期間の厳格化のため、判断の基準となる閾値を設定し、リスクの度合いに応じた制限の指針が設定された。欧州疾病予防管理センター(ECDC)は、この閾値に基づいて、地域毎の感染リスクの度合いを色で示した地図を毎週木曜日に公表するようになっている(図表8)。
図表8 欧州疾病予防管理センター(ECDC)による感染リスクの分類(5月21日時点)
感染リスク判断の基準となる指標は、(1)直近2週間の人口10万人あたりの累計感染者数と、(2)前週の検査の陽性率であり、感染リスクは4段階に分類される。それぞれの段階に対応した渡航措置に関する共通の枠組みの現状は以下の通りであり、5月25日のEU首脳会議で、6月中旬に見直す方針で合意している。

「緑」は、(1)が25人以下、(2)が4%以下の「低リスク地域」で、自由な移動に関する規制を適用すべきでない地域である。直近ではアイスランドのほか、ノルウェー、フィンランドの一部とごく限定されている。

「オレンジ」は、(1)が50人未満で(2)が4%以上、ないし(1)が25~150人未満で、(2)が4%以下の「中リスク地域」である。この地域からの渡航を拒否すべきでないが、到着時に隔離や自己隔離、検査を適用できる。アイルランド、ルーマニア、ポルトガルの全土のほか、ノルウェー、フィンランド、スペイン、イタリア、ギリシャ、オーストリアの一部も該当する。

「赤」は、(1)が50人から500人で(2)が4%以上ないし、(1)が150~500人未満で(2)が4%以下の「高リスク地域」で、この地域からの渡航者には、到着時の隔離や自己隔離、検査が適用される可能性があり、不要不急の渡航を控えるべきとされる。欧州大陸の幅広い地域が該当する。

「濃い赤」は、(2)の水準に関わらず、(1)が500人以上の「超高リスク地域」で、不要不急の渡航自粛が強く求められ、到着時の隔離や自己隔離、検査を必要とする。スウェーデンの広い範囲やオランダの一部、パリ周辺地域、クロアチアの一部などが該当する。

「EUデジタルコロナ証明書」は、このように圏内の大半の地域が、あお自己隔離や検査などの適用対象となり得る「中リスク」から「高リスク」に分類されている状況にあるからこそ必要となる。
 
6 20年3月17日に欧州理事会は、(1)シェンゲン圏外との人の往来の全面的な禁止、(2)EU加盟国が共同かつ同時期に執行にあたる、(3)EU加盟国とシェンゲン参加国の国民には適用されない、などを盛り込んだ欧州委員会からの政策指針提言文書を承認している。加盟国による国境管理導入の権限や、新型コロナのパンデミックへの初動については、岡部みどり「コロナ禍と初動期のEU国境管理-EU市民権と連帯の行方に焦点を当てて-」(植田隆子編著「新型コロナ危機と欧州 EU・加盟10カ国と英国の対応」第1章)で詳述されている。
 

昨年と同じ失敗を防ぎ、

昨年と同じ失敗を防ぎ、格差の拡大を抑制する効果は期待できる

欧州各国でワクチン接種が進展、行動制限は緩和の方向にあり、EU圏内の移動の障壁の削減につながる証明書の導入も決まり、域外からの入境制限も緩和の方向にある。いずれも経済にとって前向きな材料だ。

しかし、これらはあくまでもパンデミック下での動きであり、コロナ前のような行動の自由、移動の自由の回復とは程遠い。

このため、ワクチン接種や証明書の導入は、景気回復の切り札とはなるとは言えないものの、より安全にバカンス・シーズンを過ごすツールとはなる。制限緩和による急回復後、感染再拡大でマイナス成長に逆戻りした昨年と同じ失敗を防ぐ効果は期待できる(図表1、図表3、図表4参照)。

EU圏内では、観光業依存度の高い国々の落ち込みが深く回復が鈍いが、これらの国々の財政基盤は押し並べて脆弱だ。EUが立ち上げる復興基金「次世代EU」の補助金が厚めに配分される国々とも重なる。復興基金とともに証明書にも、格差の拡大を抑制し、債務危機再燃のリスクをコントロールし、域内の安定性を高める効果は期待できる。
 
 

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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2021年05月27日「Weekly エコノミスト・レター」)

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【EUのワクチン・パスポートは景気回復の切り札か?】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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