2020年02月07日

EU離脱後の英国の進路-打ち砕かれた残留派の願い。離脱派の期待も実現しないおそれ

基礎研REPORT(冊子版)2月号[vol.275]

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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英国がEU離脱を実現した。16年6月の国民投票以降、3年半にわたる迷走が続いたが、19年12月の総選挙での与党・保守党の大勝で離脱関連法案の手続きが一気に進んだ[図表1]。
採決結果

1―保守党大勝の構図

与党・保守党の勝利の最大の要因は、EU離脱への争点の絞り込みに成功したことにある。
 
保守党が新たに議席を獲得したイングランドの北部・中部の鉱工業地帯は、数十年にわたり労働党が牙城としてきた「赤い壁」と呼ばれる地域。暮らし向きの改善を託して国民投票で離脱を支持した。
 
保守党は政権公約も手堅くまとめた。17年の総選挙でメイ前首相が、社会保険料負担の引き上げなどを盛り込んだことが批判と不安を招き、議席を大きく減らしたことを教訓にしたのだろう。離脱を実現した上で、国民が不安を抱く、国家医療サービス(NHS)、教育、治安対策を強化するというメッセージは明確だった。また、財政緊縮と決別する象徴として、任期中の5年間の所得税、付加価値税(VAT),社会保険料の据え置きも約束した。他方、20年1月から予定していた現在19%の法人税の引き下げを見送り、企業寄りとの批判を浴びるリスクを回避した。
 
保守党の大勝は、最大野党・労働党の失点でもたらされた面もある。「EUと再交渉後、再国民投票を実施する」という離脱戦略は、北部・中部の離脱派だけでなく、国民投票の結果を尊重すべき、あるいは、離脱を巡る迷走に早く終止符を打ちたいと考える有権者の離反を招いた。左派色の強い公約にも問題があった。法人税や富裕層への増税を財源にNHSの強化や教育無償化などを進め、鉄道、郵便、水道、一部通信事業の民営化などで国家の介入拡大を指向する公約は、一部で強く支持されたが、裾野は広がらず、他の野党との連携を阻害した。
 
総選挙の結果の評価にあたっては、保守党の大勝が、英国の有権者が一気にEU離脱支持に傾いた結果ではないことに注意が必要だ。保守党は議席数では過半数を大きく上回ったが、得票率は43.6%で、離脱党と合わせても得票率は45.6%と過半数に届かない。労働党と自由民主党(LDP)、スコットランド民族党(SNP)、緑の党、プライド・カムリなど残留を支持した政党の得票率の合計を下回る。

2―離脱後の英・EU関係

20年1月末の英国のEU離脱とともに英国とEUは、20年末までの「移行期間」に入った。「将来の関係に関する協定(以下、将来関係協定)」を協議する期間として、従来の関係が維持されている。
 
しかし、この先、「移行期間」終了時に、「将来関係協定」が発効できなければ、環境が激変する「無秩序な離脱」となる[図表2]。
シナリオ
「離脱協定」では、「移行期間」は7月1日より前に英国とEUが合意すれば、1回限り、1年ないし2年の延長が認められる。しかし、ジョンソン首相は「移行期間」は延長しない公約で選挙に勝利、「離脱協定法案」にも延長禁止を盛り込んだ。
 
他方、英国とEUの「将来関係協定」の発効手続きを20年末までに終えることは困難と見られている。協定の叩き台となる「政治合意」では、財、サービスからエネルギー、漁業まで幅広い領域をカバーする経済関係だけでなく、安全保障のパートナーシップ、制度的な枠組みやガバナンスまでカバーする。
 
広範な分野をカバーすれば協議には当然時間を要するし、加盟国が権限を有する領域に及ぶため、批准手続きはEUの欧州議会だけでなく、加盟各国でも行う必要が生じる。
 
ジョンソン首相が、経済的な打撃の回避、あるいは、離脱を巡る英国の分断の修復のため、前言を翻し、移行期間の延長に動くとの期待もあるが、政治的には困難な選択だ。移行期間の延長には、EU予算への相応の拠出も必要になる。EUの通商政策の枠内にも置かれる。議会で過半数を得た今、「20年末の移行期間終了」の約束を果たせない責任を議会に転嫁できない。EUに譲歩したと見られれば、支持者の離反を招く。
 
ジョンソン首相の「将来関係協定」の「政治合意」は、財については関税ゼロ、数量割当の回避を求めるが、単一市場からは離脱、規制の乖離を容認する。
 
筆者は、移行期間の延長よりは、20年末の移行期間終了時に、比較的短期間での合意が可能と見られ、批准手続きも比較的容易な簡素なFTAと規制の同等性を評価する「同等性評価」の枠組みに基づく関係に移行する可能性の方が高いと思っている。
 
形としては「秩序立った離脱」だが、部分的で安定性を欠き、継続協議の領域を多く残すことになる。
 

3―離脱後の英国の成長戦略

EU離脱を実現したジョンソン政権には、離脱のベネフィットを具体的に示す政策を打ち出す必要がある。
 
EUは、離脱後の英国が、EUに対する競争上の優位性を高めるため、大胆な規制の緩和、税率の引き下げに動くことで、企業の誘致を図る「テムズ川のシンガポール」化構想を警戒する。
 
EU首脳らの警戒感は、「政治合意」の「競争条件の公平化」の文言が、メイ前首相との合意時よりも、ジョンソン首相との修正合意で、より強い表現が用いられたことにも滲み出ている。
 
しかし、離脱後の英国が「テムズ川のシンガポール」に舵を切ることを阻む力を持つのは、EUではなく、英国の有権者だろう。
 
かつて英国の金融監督手法は、「ライトタッチ」と評されたが、世界金融危機と英国の住宅バブル崩壊で多額の公的資金を投じた経験を経て、厳格化せざるを得なくなった。
 
法人税率の引き下げや所得税の最高税率の対象所得額の引き上げといった企業の誘致や高技能人材の受入れにつながる税制改革は、EU離脱による暮らし向きの改善を期待して、保守党に票を投じた有権者は裏切りと受け止めるだろう。
 
「テムズ川のシンガポール」や、EUから離れて、域外との関係を強化する「グローバル・ブリテン」は、保守派のエリートがEU離脱によって実現したい英国の未来図だ。
 
しかし、これだけでは離脱実現の決め手となった票を投じた「赤い壁」の労働者が期待する暮らし向きの改善、格差の是正は実現しない。
 
「グローバル・ブリテン」戦略も、米中の二大国が対立する時代に、EUを離れた英国は、立ち位置に苦慮し、結果として、EUと共同歩調を採ることも増えるのではないか。
 
総選挙での保守党の勝利で、離脱撤回を願う残留派の願いは打ち砕かれた。離脱派は、思いを遂げることになったが、エリートも労働者も、離脱によって、期待通りの成果を得られるとは限らない。
 
英国の離脱は単一市場の縮小を迫られるEUにも痛手だ。
 
英国のEU離脱に勝者はいない。
 
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2020年02月07日「基礎研マンスリー」)

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