2019年09月06日

英国の合意なき離脱:対策と影響-「終わりの始まり」ですらない

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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2|連合王国分裂の危機
「合意なき離脱」は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドで構成する連合王国の分裂の危機を引き起こすおそれもある。

16年の国民投票では、離脱派と残留派の票のバランスは国・地域によって大きな差があり、スコットランドは62.0%、北アイルランドは55.8%が残留を支持した。人口では英国の84.3%をイングランドが占める。スコットランドは8.2%、北アイルランド2.8%と大きな差がある。EU離脱は、イングランドの意思で決まった。さらに「合意なき離脱」の強行という形で、スコットランドや北アイルランドの意思が軽んじられた場合、亀裂は一段と深刻なものになるだろう。

なお、ウェールズは、イングランドとともに国民投票で離脱支持が52.5%と多数を占めたが、「合意なき離脱」後に、そのコストを強く感じる可能性がある。保守党は、17年の総選挙時にEUからの「構造基金」を代替する英国独自の基金(The UK Shared Prosperity Fund)を創設することを約束したが、その後協議は進展していない。「構造基金」は、低所得地域や農業・漁業支援などを目的とするものなどがあり、ウェールズは利用割合が高い。「合意なき離脱」で「構造基金」が停止されるリスクがあるが、代替する基金の制度設計等が固まっていないことへの危機感が高まっている22
 
22 Archwilydd Cyffredinol Cymru, Auditor General for Wales(2019)
(1)スコットランドの独立
スコットランドでは、英国からの独立の是非を問う住民投票実施の機運が高まるだろう。
2014年9月の住民投票は、独立賛成44.7%対独立反対55.3%で否決という結果に終わったが、投票日が近づくにつれて、独立賛成派が勢いを増し、当時の連立与党の保守党・自由党と最大野党の労働党の3党が「独立反対多数と自治権拡大は両立する」と働きかけるなど手を尽くし、独立賛成多数という結果を辛うじて阻止した経緯がある。ニコラ・スタージョン自治政府首相は21年5月の次回自治政府議会選挙までに独立の是非を問う住民投票を行うことを目指している。前回の住民投票では、独立後も「英国と通貨同盟を結びポンドを使用する」方針を示していたが、スタージョン自治政府首相は、「英国の単一市場からもポンドからも離脱」する「ハードな独立」を指向する。

英国との相互依存関係の深さを考えると、スコットランドの独立は、経済合理性に適う選択ではなく、財政事情も厳しくなると想定される。しかし、英国のEU離脱と同様に、国民感情が優先する選択が下される可能性はある。

(2)北アイルランドとアイルランドの統一
「合意なき離脱」の影響を最も受ける北アイルランドも、アイルランド共和国との統一の機運が高まる可能性がある。

北アイルランドでは2017年1月に自治政府が崩壊してから、政府不在が続いている。「ベルファウスト合意/グッド・フライデー合意」で、閣僚ポストを新英派のユニオニストと新アイルランド派のナショナリストで分けあうことになっているが、両派の不和が続いているためだ。

「合意なき離脱」となり国境管理問題に緊急の対処を迫られた場合、政党の代表者らによる協議で妥協点を見出すことができるか不透明であり、英国政府による直接統治のための法を制定することになると見られている。

北アイルランド議会(議席数90)も機能停止状態にあるが、議席数はユニオニストの最大政党・DUPが28議席、ナショナリストの最大政党シン・フェイン党が27議席で勢力が拮抗している。

「安全策」は、保守党政権に協力するDUPほかユニオニストの政党、議員は反対だが、北アイルランドの企業や農業団体は越境貿易を守るための受け入れ可能な手段と考えている23。8月22日には、シン・フェイン党、SDLPなどナショナリスト政党の議員と非ユニオニストの議員ら49名が連名で、EU首脳会議のトゥスク議長宛に「安全策」は「グッド・フライデー合意を守り、南北間の協力を維持し、全島の経済を維持し、国境やその近辺での物理的なインフラや検査施設の復活を阻止するための法的に実行可能な保証は、これまでの前進を維持するために必要」という書簡を送っている24。「安全策」を理由とする「合意なき離脱」の末の混乱に、ナショナリストは強く反発するだろう。

「ベルファウスト合意」には、アイルランド統一への支持が多数になったと判断される場合、住民投票の実施を求める条項がある。北アイルランドで実施された世論調査では、「自治政府」への支持が最も高く、「統一」への支持と英国政府による「直接統治」は拮抗している。18年調査では「統一」と「直接統治」が20%程度。「自治政府」への支持は政府の不在のためか、ここ2年で低下傾向にあるものの、それでも40%を占める25。世論調査からは、アイルランド統一が、現実味を帯びているとは言えないが、「合意なき離脱」で世論のムードが一気に変わる可能性はある。

アイルランドのバラッカー首相も、ジョンソン政権誕生後の7月27日、「合意なき離脱」によって、「英国が北アイルランドの大多数の人々の希望に反して北アイルランドをEUから離脱させ、EU市民権を取り上げ、グッド・フライデー合意を弱体化させたら、好むと好まざるとにかかわらず、(アイルランド統一の)問題が持ち上がることになり、それに備える必要がある」26と述べている。
 
23 “Brexit: What is the Irish border backstop?”, BBC news, August 1, 2019
https://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-politics-44615404
24 “Majority of Northern Ireland's MLAs sign letter to Donald Tusk supporting Brexit backstop”, Belfast Telegraph、August 22, 2019(https://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/majority-of-northern-irelands-mlas-sign-letter-to-donald-tusk-supporting-brexit-backstop-38426562.html
25 Constitutional preference in Northern Ireland(https://www.instituteforgovernment.org.uk/charts/constitutional-preference-northern-ireland
26 “Varadkar says no-deal Brexit could break up UK”, The Irish Times, Jul 27, 2019(https://www.irishtimes.com/news/politics/varadkar-says-no-deal-brexit-could-break-up-uk-1.3968821
3|不利な条件でのEUとの協議
世論調査では、ジョンソン首相が主張する「合意がなくとも10月31日に離脱」への離脱支持者、保守党支持者の支持が高い27。「合意なき離脱」は、EUからの主権の奪還、制約から解放される切り札であり、混迷する離脱プロセスに終止符を打つことにつながるとの期待があるように思われる。

しかし、「合意なき離脱」で生じた問題は、EUと協議して解決せざるを得ない。協議にあたっては「離脱協定」に盛り込んだ問題、市民の権利や離脱清算金、アイルランド国境管理問題などの解決を求められることになるだろう。

「合意なき離脱」がEUの交渉上の立場を有利にすることはない28。2-2で見た通り、「合意あり離脱」の場合、「移行期間」を利用して、協議し、秩序立った形で新たな関係に移行できるが、「合意なき離脱」であれば、英国がEUとの関係をWTOルールに基づく第3国と同等の立場、つまり、EUとFTA等を締結する国よりも不利な立場にリセットした上で、協議に入ることになる。第3国となった英国とEUの協議は、EU条約第50条ではなく、同第218条の国際条約締結の手続きに従う。関税の協定については比較的速やかな合意が成立する可能性があるが、サービス業などもカバーする広範な協定を望む場合には、交渉開始も批准手続きの難易度は高く、時間も掛かる。「十分性認定」や「同等性評価」によるアクセスの改善にも時間を要する上に29、カバーする領域が限られる上に、EUの一方的判断で打ち切られるため、安定性を欠く。

ギリシャのチプラス前首相が、2015年にEUからの金融支援の条件への賛否を問う国民投票で勝利したものの、その直後にEUに支援を再要請し、より厳しい条件を飲まざるを得なくなったことが想起される。
 
27 伊藤(2019b)をご参照下さい。最近の世論調査ではDELTAPOLLの31/08/2019調査で国民投票での離脱支持者の55%が「さらなる譲歩よりも必要なら合意なき離脱」することを支持している。残留支持者でこの選択肢の支持は6%に過ぎず、 53%が「離脱をただちに撤回すべき」を選んでいる(http://www.deltapoll.co.uk/polls/prorogue-parliament-brexit)。
28 Springford (2019)が詳しく論じている。
29 CBI(2019)p.103ではGDPRの「十分性認定」は最短18カ月としている
4|米国からの通商交渉圧力
「二国間の交渉」を好む米国のトランプ大統領は、英国のEU離脱という選択を一貫して支持しており、EU離脱後の英国との通商協定締結に強い意欲を示す。8月24~26日にフランスのビアリッツで開催された主要7カ国首脳会議(G7サミット)に合わせて開催された米英首脳会談で、トランプ大統領は2020年夏までの協定締結を求めたとされる30

ジョンソン首相も米国との通商交渉に前向きだ。通商交渉の権限回復は、離脱派がEU離脱による重要なベネフィットの1つと強調した点だ。EUがFTAを締結していない米国とのFTAは、欧州の境界を越えて広がるグローバル国家を目指す「グローバル・ブリテン」戦略の象徴的な成果となり得る。

しかし、ジョンソン政権は米国との交渉に前向きだが、米国のペースで交渉が進むことへの警戒も強い。そもそも米英間では交渉対象が一致していない31。ジョンソン首相は、離脱から1年以内といった米国が求める時間軸での協定締結には否定的だ。米国は、英国のNHS(国民保健サービス)が薬価を低く抑えていることが、米国の医薬品メーカーの利益を圧迫していると問題視している。トランプ大統領は、今年6月の英国訪問時にもNHSを交渉対象にすると明言しているが、ジョンソン政権は交渉から除外する方針だ。農産品市場を巡っても米国は市場開放を求めているが、英国内ではEU基準で守られてきた食の安全が、EUを離脱し、米国と協定を締結することで、米国基準に引き下げられることへの懸念も強い32

米国との交渉との協定は「グローバル・ブリテン」戦略の実現を阻む条項が含まれるおそれもある。米通商代表部(USTR)がまとめた英国との交渉目的に関する文書には、米国とメキシコ、カナダとの協定や、日本、EUとの交渉目的と同じく、「非市場経済国」とのFTA交渉を困難にする条項が盛り込まれている33。この条項が中国を念頭に置いていることは明白だ。中国は、FTA戦略を加速するEUが交渉すら予定していない巨大市場であり、「グローバル・ブリテン」戦略が念頭に置いていたパートナーだ。EUから離れても、米国に近づくことで、中国との関係強化に制約を受けるおそれがある。

2020年の米国の大統領選挙の結果で風向きが変わったとしても、英国の立場が有利になるかは不透明だ。米国内でも、民主党のペロシ米下院議長、シューマー上院院内総務は、「ベルファウスト合意」を阻害することがあれば英国との通商協定に反対する意向を示している。

英国でも労働党やその他の野党は米国との通商協定に反対している。労働党のコービン党首は、6月のトランプ大統領の英国訪問時に抗議デモの集会で演説した。コービン政権が誕生した場合には米英の関係が冷え込むおそれもある。

16年に英国が国民投票でEU離脱を選択した時点とはEU域外の環境も大きく変わった。「合意なき離脱」で、EUとの関係を無秩序に絶つことが、EU域外との関係を英国に有利に変える兆候はない。
 
30 “Johnson and Trump eye US-UK trade deal ‘within a year”, POLITICO, 8/25/19(https://www.politico.eu/article/johnson-and-trump-eye-us-uk-trade-deal-within-a-year/
31 “Factbox: How free would a UK-U.S. trade agreement be?”, Reuters, JUNE 4, 2019(https://www.reuters.com/article/us-usa-trump-britain-trade-factbox/factbox-how-free-would-a-uk-us-trade-agreement-be-idUSKCN1T51YK)、「米英貿易協定に暗雲、農産物で衝突の兆し」The Wall Street Journal、2019 年 8 月 28 日(https://jp.wsj.com/articles/SB12600967349057934523104585515181952412058
32 “Johnson and Trump eye US-UK trade deal ‘within a year”, POLITICO, 8/25/19(https://www.politico.eu/article/johnson-and-trump-eye-us-uk-trade-deal-within-a-year/
33 USTR(2019)p.15には「英国が非市場国との自由貿易協定について交渉する場合に、透明性を確保し、適切な行動をとるためのメカニズムを提供する」との記述がある。USMCAでは「非市場経済国」との交渉の事前通知、署名前の協定全文の通知、離脱を認める条項などが盛り込まれた。
 

5――おわりに

5――おわりに

「合意なき離脱」に十分な対策を採ることは困難だ。不透明な状況をさらに長引かせる上に、連合王国分裂の危機といったリスクを伴う。この点を踏まえれば、議会が「合意なき離脱阻止」に動くのは当然だ。

しかし、離脱支持者から見れば、「合意なき離脱」は、EUへの清算金も払わずに済み、EUの法規制の影響から速やかに解放される「ベストな選択肢」に映る。国民投票後の「混乱に終止符を打つ切り札」という期待もあるだろう。

ジョンソン首相が率いた離脱派のキャンペーンは、残留派が発した離脱のコストへの警鐘を「恐怖プロジェクト」と揶揄してきた。

「はじめに」で触れたとおり、ジョンソン首相は、「合意なき離脱阻止」への議員の動きを、国民投票の結果に不満を持つ残留支持者が「離脱の決定を覆そうとする動き」と位置づけ、自らの支持につなげようとしている。その戦略は成功を収めるかもしれない。

国民投票から3年余り、英国の混迷は続き、国内の分断も深まるばかりだが、離脱期限をどのような形で通過するにせよ、EU離脱のプロセスは終わらない。まして、「合意なき離脱」という形をとれば、問題は一段と複雑になり、混迷がさらに深まることは間違いない。

「The UK in a Changing Europe」の報告書は、「合意なき離脱」は「ブレグジットの終わり」ではなく、「終わりの始まり」ですらないが、「始まりの終わりかもしれない」というチャーチル元首相の言葉を引用して締めくくられている。

筆者も「合意なき離脱」について、同じ思いを抱いている。
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

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