2017年05月10日

残業時間の上限規制、残された課題は?ー労働者保護の立場に立った政策の推進を!

基礎研REPORT(冊子版)2017年5月号

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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経団連と連合は3月13日、働き方改革の一環として残業時間の上限を最大で年720時間(月平均60時間)までに制限するという、残業時間の上限規制について労使で合意し、安倍首相に合意文書を手渡した。これが実行されると、事実上無制限に残業時間を増やすことができる「36協定」が制限されることになる。

現在の日本の労働基準法第36条(サブロク協定)では「労使協定をし、行政官庁に届け出た場合には、協定に定めることにより労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる」と労働基準監督署長に届け出た場合は、その協定内の範囲内で残業や休日労働を許可している。さらに、残業時間の上限は、例えば1ヵ月の場合「月45時間」に制限されているものの、「臨時的で、特別な事情がある場合には、残業時間の上限を超えて働くことができる」という「特別条項」を付けて協定を締結することも可能である。その結果、日本では労働者の過重労働や過労死の問題がまだ解消されておれず、実際、業務における強い心理的負荷による精神障害を発病したとする労災請求件数が毎年増加している。

このような状況の中で、今回、経団連と連合が残業時間の上限規制について労使で合意したことは、ある程度評価されるべきであるだろう。但し、せっかくの労使合意がより良い結果に繋がるためには次のような点も考慮されるべきではないかと思い、少し愚見を述べてみた。

長時間労働は過労死の問題だけではなく、労働者の疲労度を高めて、モチベーションの低下による生産性の低下に繋がる恐れがある。そこで、一般的には長時間労働を是正して働く時間を短くすれば効率的に働くことができると認識されている。しかしながら、これを実施するためには労働者の所得をどのように保障するかを同時に考える必要がある。少なくない労働者が生活費を確保するために、残業を選択しており、それが長時間労働に繋がっている可能性が高い。

また、労働者一人一人の状況に合わせてより柔軟な働き方ができるような環境を整備することが大事である。特に、育児を担当しながら働いている女性の場合は、一律的な労働時間の設定より在宅勤務や短時間労働、そして勤務時間帯選択などの柔軟な働き方をより選好している。日本における女性の働く環境は過去に比べると大きく改善されているものの、欧米に比べるとまだ労働市場における差別も多く、sticky floor(くっつく床、職場にはいった女性が最初の地位から昇進できない状況)やglassceiling(ガラスの天井、成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる、見えないが打ち破れない障壁)が未だに大きな問題として残されている。

短縮された時間の間に今までと同じ付加価値を産出するためには労働の強度を増大させなければならない。それは生産性の向上を意味するだろう。しかしながら、人はそれぞれキャパシティが異なり、働き方も多様である。仕事が速い人もいる反面、仕事が遅い人もいる。また、時間をかけながらゆっくり仕事をしなければならない仕事もあるだろう。労働の強度を増やすことが必ずしもいい結果には繋がらない。労働市場の柔軟化が進み、企業の業績や生産性が向上するかも知れないが、一方で格差や貧困の問題はさらに深刻になる恐れがある。企業の競争力を高めるために労働市場の柔軟化を目指すことは欠かせないことかも知れないが、そのためにはまず、仕事を失った労働者がより早い段階で転職できるように、新産業の育成や離職者に対する訓練や教育等の対策を強化する必要がある。

また、安倍首相が残業時間の上限特例について「100時間未満とする方向で検討して頂きたい」と要請したことも議論の余地があろう。一般的に働き過ぎにより健康障害が生じて、労働災害と認定の因果関係を判断できるかどうかのために設けてある、時間外労働時間の目安となる時間である「過労死ライン」は80時間とされている。しかしながら、今回要請した上限特例100時間は、「過労死ライン」である80時間1をはるかに超えている。企業は公的社会保険の保険料支出など人件費に対する負担を最小化するために、新しい労働者を採用するより既存の労働者の労働時間を増やす傾向がある。従って、今回の政府の提案は労働者よりも企業を配慮した政策であると言えるだろう。政府は、少なくとも将来的な課題として今回の要請を見直し、残業時間の上限特例として80時間未満を目指すことが望ましい。

今回の経団連と連合の合意が、長時間労働の削減のみならず、企業の処遇水準改善や国のセーフティーネット強化、柔軟な働き方の実現、新たな産業の育成や離職者に対する訓練や教育等の対策の強化、残業時間の上限特例の再検討などより労働者保護の立場に立った政策として推進されることを強く望むところである。
 
1 発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働。
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
    ・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

(2017年05月10日「基礎研マンスリー」)

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