1991年04月01日

冷たい社会

  細見 卓

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日本は義理人情を重んずる温かい社会であり、それに比べて西欧諸国は非常に理屈一辺倒で、家族の愛情といったようなものや思いやりの薄い社会であるかのように言われている。しかしながら、よくよく考えてみると日本が温かい社会で西欧社会が冷たい社会なのかという疑問が起こる。

そもそもヒューマニズムという言葉は、適切に日本語に訳せない言葉であるが、西欧の社会の底流に脈脈と流れている考え方であるようにみえる。義理人情とヒューマニズムというものを比べてみると、厳密にはなかなか難しい論議があるところだと思われるが、一面として義理人情というのは自分の家族とか村落あるいは自分と特別の関係のある人達に対して、極端に言えば道理のあるなしにかかわらず特別な尊敬というか愛情を表すものであり、一方ヒューマニズムというものは、その人が自分と関係があろうとなかろうと正に人間として愛情を注ごうとすることであって、ヒューマニズムの社会というのは所謂縁故とかコミュニティに属していない人に対しても等しく接するという考え方があるように思われる。従って、日本の温かさとか紐帯というものは、非常に限られた所謂タテ社会に存在するものであって、そこに属していない人に対しては非常に冷たいというか極端に無関心という面を持っているように思われる。これは今回の湾岸戦争や人質問題への対応にも端的にみられたところであろう。

このような日本のタテ社会の特性については、色々言われているのでここでは繰り返さないが、日本が冷たい社会であるという意味において、日本では敗者というかラインを外れた人、組織からはみ出た人を再び受け入れるという温かみに欠けているとみるのはひがみであろうか。例えて言えば、甲子園の高校野球スタイルが日本人の好みであって、勝った人は勝った人であって、たまたま体調不良等の原因で負けた人には復活戦はない。むしろ、西欧社会においては、リーグ戦スタイルであり敗者に対し何回かの復活の機会を社会が容認しているようにみえる。色々な条件で環境に打ち勝つことができずに敗者となったものでも、何回かの再挑戦をさせる機会を与えているかいないかが温かい社会と冷たい社会を分けるのであって、その意味では日本の社会は冷たいと言わざるを得ない。

経済が発展し豊かさの増した日本では社会に余裕が出てきつつあり、敗者を認めるゆとりが生まれつつあるのは事実だが、しかしまだまだやり直しのきく社会と言えないのではないかと思う。先般、高校生の中途脱落者が非常に多いと報ぜられていたが、新しい教育の在り方としては生涯教育であり、学習を希望する人達に年令、環境にかかわらず機会を与え、その学習をその後の人生に活用させていくというのが、先年の臨時教育審議会答申の中心の内容であった。それにもかかわらず相変わらず高校、大学の入試だけが言わば人生コースの決定的な出来事として社会が扱っている乙とからみても、学歴のいいコミュニティに属することのない限り将来性が期待できない、あるいはそういうものから脱落した者に再起の機会を与えていないという社会情勢がそのまま続いている。従って、型にはまった教育とコースを取らない限り社会の落伍者となるような事態は全然改善されていない。このような点からも、日本は冷たい社会ではないかと思う。心身のバランスのとれた教育を必要とする青少年に無理な偏った受験勉強というか、コースに入るための訓練をやらさねばならないというのは、社会全体として大きなロスではなかろうか。皮肉に言えば、高校、大学に入る時に、あれほど優秀な知識と能力を持つよう鍛えられた学生が社会人になった時には、昔のゆったりと学生生活を送り社会へ出ていった人に比べて、能力や知識において全く変わっていないというのは、現在の日本の冷たい社会がその間にその社会のメンバーに強いた巨大な無駄と言うべきではなかろうか。

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