2024年09月06日

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1―はじめに

7月24日夜、厚生労働省の諮問機関である中央最低賃金審議会は、今年の最低賃金を全国加重平均で1,054円とする目安額を決定した。今後、この目安額は、都道府県最低賃金審議会の審議・答申を経て、8月頃に最終的な改定額が決まり、10月頃迄に全国で適用される。

今年度の改定は、ここ最近の物価上昇や春闘の結果を踏まえたものであるが、来年以降は、2030年代半ばまでに1,500円とする政府方針に加えて、深刻化する人手不足や経済構造の変化、社会意識の変化といった要素が、最低賃金の押上げに作用する。

本稿では、日本における最低賃金の現状、今後の引上げを左右する要素について整理し、各経済主体が今後の改定にどのように臨んでいくべきか考察する。

2―世界対比で日本は「まだ低い」

日本の最低賃金は、安倍元首相が全国加重平均1,000円の目標を掲げて以来、コロナ禍で経済が麻痺した20年を除けば、年平均+3.2%で上昇して来た。政府が毎年3%程度の引上げを目安にして来たことを踏まえると、ほぼ巡航速度で目標が達成されたことになる。

ただ、日本の最低賃金は、購買力平価やドル換算ベースでは、新興国対比では高いものの、先進国対比ではまだ低いと言える[図表1]。
[図表1]国別・最低賃金の水準(1ヵ月あたり)

3―基調的変化は「引上げに作用」

1|人手不足の深刻化
日本の少子高齢化による労働力人口の減少で、外国人労働者の獲得競争が激しさを増すにつれて、最低賃金も押上げられることになる。

例えば、最低賃金の水準は、とりわけ出稼ぎを目的とする外国人労働者にとって重要である。社人研の人口推計をもとにした試算では、日本の外国人労働者への依存度は、2020年の2.56%から2040年には6.34%まで高まることが見込まれる。外国人労働者を日本に惹きつけていくためには、国際的な水準を意識した最低賃金の設定が求められよう。
2|ノルムの変化
足元で進むノルムの変化も、最低賃金の在り方に影響する。ノルムとは、社会的な習慣や規範意識を意味する言葉であり、日本では物価や賃金が上がらないことを前提とした考え方が、ここに来て変わり始めたという文脈で使われることが増えている。

この新しいノルムの定着如何は、最低賃金の動向を図るうえで重要である。政府が今年6月に閣議決定した骨太方針2024(以下、骨太)には、賃上げについて「来年以降に物価上昇を上回る賃上げを定着させる」と記載されている。今のところ最低賃金は、実質ベースでプラスを維持しているが、過去の推移を見ると、実質の伸び率は物価上昇局面で小さくなる傾向が確認される。

新しいノルムに移行していく中では、最低賃金近傍で働く労働者の生活水準を維持するため、物価を加味した改定の在り方を模索する動きも出て来そうである。そうした場合、実質ベースの引上げが重視されることで、名目ベースの改定率がより大きくなることも予想される。
3|人権擁護の高まり
国際的には労働者が人間らしい生活を営むうえで必要な賃金水準、所謂「生活賃金」を求める声も高まっている。これは、国連の持続可能な開発目標(SDGs)に絡む取組みであり、企業ではESGの「S:社会的」に該当するものとなる。

例えば、2022年10月に欧州では、最低賃金の適正化を図ることを目的とした、EU指令が採択された。同指令は、加盟国に対し、最低賃金の水準を賃金中央値の60%にするといった指標を設定し、労働者が十分な保護を受けられる枠組みを整備するよう求めている。

企業の社会的な責任に関して厳しい視線が集まる今日、社会的な信頼を構築する観点からも取組みが求められよう。

4―次年度以降の見通し

1|引き上げの方向性
最低賃金の引き上げは、既にある程度引き上げに向けたレールが敷かれている。

実際、骨太には「2030年代半ばまでに全国加重平均を1,500円となることを目指す」「地域別最低賃金の最高額に対する最低額の比率を引き上げるなど、地域間格差の是正を図る」との記載がある。

今後は、(1)1,500円の達成時期がどれだけ前倒しされるか、(2)最低賃金の相対的に低い地域の引き上げ幅がどの程度大きくなるか、といった点が注目される。

(1)については、1,500円の達成時期を2035年と仮定した場合、毎年の改定率は+3.4%となり、2030年と仮定した場合には+5.9%が必要となる。

(2)については、具体的な指標として「地域別最低賃金の最高額に対する最低額の比率」がある。この比率を引き上げるには、最低賃金の低い地域のより大きな改定が必要になる。
2|企業への影響
最低賃金引き上げの影響は、特に中小零細企業で大きいことが知られている。

企業が最低賃金の引き上げから受ける影響は、未満率と影響率の2つの指標で知ることができる。未満率は、最低賃金改定前の段階で既に最低賃金を下回っている労働者の割合であり、企業の最低賃金の遵守状況を示す指標となる。他方、影響率は、最低賃金改定後に最低賃金を下回る労働者の割合であり、最低賃金が労働市場に及ぼす影響の度合いを表す。

未満率が一定と仮定した場合、影響率の上昇は、最低賃金改定の恩恵を受ける労働者が増えることを意味する反面、企業の負担増も意味することになる。長期推移[図表2]からは、未満率が比較的安定し、企業が一貫して法令順守に努めて来たことが伺われる。他方、影響率は2000年代中頃からの急上昇が見られる。この背景には、最低賃金と生活保護の逆転現象を解消すべく、政府が最低賃金の大幅な引き上げに踏み切ったという事情がある。
[図表2]未満率・影響率の推移
これまでのところ、企業は何とか法令順守に努めているが、最低賃金改定の影響は、年を追うごとに拡大し、企業努力が益々必要とされるようになっている。

失業率や倒産件数など、日本全体のマクロデータからは、近年の改定から顕著な影響は見られない。ただ、その影響は濃淡を伴って現れる可能性がある。「宿泊業、飲食サービス業」「生活関連サービス業,娯楽業」「卸売業、小売業」などの分野は、影響率や未満率が高く、地域別には最低賃金が低い「東北」「九州」といった地域が高い傾向にある。今後、実施される最低賃金の引き上げは、こうした地域・産業で、より大きな影響が出る可能性があり、注意が必要である。

5―おわりに

賃上げに積極的な政府方針や、最低賃金の引上げに作用する社会情勢の変化等を踏まえれば、今後も最低賃金の大幅な改定が続く可能性は相応に高いと言える。

そうした場合、企業負担が増して、採算が悪化する企業も出やすくなる。この様なコストアップ環境では、コスト削減を重視したデフレ時代の発想では対処が難しい。企業としては収益力を高め、コスト上昇に打ち勝つ方策が必要となる。

政府も、そうした企業努力を後押しする姿勢を示している。今般の骨太には、企業への支援策として「自動化・省力化投資の支援、事業承継やM&Aの環境整備」に取り組むほか、中堅・中小企業の稼ぐ力を強化する「価格転嫁対策」「海外展開支援」に取り組むことが掲げられている。加えて、最低賃金の引上げで「年収の壁」が強く意識され、人手不足に拍車が掛かる事態を懸念し、それに対処する方針も示されている。

これら政府の後押しを活用しつつ、企業が最低賃金の引き上げに耐え得るビジネスの高付加価値化を実現していけるかどうか。また、政府が掲げた支援策や制度改正を、最低賃金の改定に引けを取らないペース、規模感で進めて行けるかどうか。そうしたことが、今後の改定における重要なポイントとなって来るだろう。

なお、最低賃金は地方創生でも重要な意味を持つ。先行研究では、最低賃金と人口流出には負の相関があり、最低賃金引上げが人口流出の歯止めになる一定の効果が示唆されている。2023年度の最低賃金が最下位となった岩手県では、知事が先頭に立って引上げを目指すなど、自治体間の競争も激しくなっている。

ただ、最低賃金を引き上げさえすれば良いという単純な話ではない。最低賃金引上げの両輪として、企業と同様、自治体でも、地域産業の底上げを図っていくことが重要であり、地域を活性化する成長戦略が問われていくことになる。

以上の通り、最低賃金の引上げは、政府や自治体、企業の取組みが有機的に結びつき、それらが連動して、初めて最大の効果が発揮されるものであり、最適なポリシーミックスの追求が必要となる。

(2024年09月06日「基礎研マンスリー」)

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総合政策研究部   准主任研究員

鈴木 智也 (すずき ともや)

研究・専門分野
経済産業政策、金融

経歴
  • 【職歴】
     2011年 日本生命保険相互会社入社
     2017年 日本経済研究センター派遣
     2018年 ニッセイ基礎研究所へ
     2021年より現職
    【加入団体等】
     ・日本証券アナリスト協会検定会員

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