2024年03月11日

好循環論への疑問~デフレマインドの解消、賃金上昇、フィリップス曲線を巡って~

大阪経済大学経済学部教授 ニッセイ基礎研究所 客員研究員 高橋 亘

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1――はじめに1,2
 
インフレ(物価)による賃金の上昇を是とする好循環論が通説となっているが、初歩的な経済学に照らして素朴な疑問も生じてしまう。本稿では、(1)好循環論が目指すデフレマインドの脱却による価格決定行動の変化には必ずしもインフレは必要ではないこと、(2)賃金上昇のためにはインフレではなく賃金構造・労働市場の改革こそが重要であること、(3)マクロ経済学の標準理論であるフィリップス曲線では、景気拡大では実質賃金は上昇ではなく下落していることなどを指摘する。特に(2)に関する非正規雇用の見直しなどの賃金改革はわが国経済の最大の問題である少子高齢化問題と通じるものであり、賃金上昇はインフレではなく働き方改革など構造的な視点から積極的かつ本格的に取り組まれるべきことを問題提起したい。
 
1 本研究は、学術振興会科研費(20H05633)の支援を受けている。
2 本稿は高橋(2024a)、高橋(2024b)を転用している。

2――デフレマインドの脱却に必要なのはインフレではなく所得の増加

2――デフレマインドの脱却に必要なのはインフレではなく所得の増加
 
デフレマインドは企業、家計(消費者)がともに「価格は上昇しないもの」と思い込み、この観念が値上げ(インフレ)を阻み好循環を生まない元凶とされてきた。特に消費(小売)の場面では、デフレマインドの具体的な行動として「消費者が値上げを受容しないこと」が問題とされ、このような消費行動が、企業の値上げを抑制しているとされた。だが、消費者が値上げを受容しないことは、合理的である。個々に合理的な行動が全体として不都合を生じさせることは「合成の誤謬」として知られている。好循環論はその解決のためにインフレが必要と指摘しているようにも思えるが、必要とされるのは所得の増加であり、インフレを介さなくても本来、直接所得増加を実現すること、政策的にも成長促進策をより具体化し追求していくことの方が適当に思われる。

図表1では最も初歩的な需給曲線を示した。需要曲線とは限界効用をトレースしたものである。独占や規制がない限り消費者は、効用を満たす価格を支払う。消費者が値上げを受容しないのは、価格が効用に見合わないからである。価費者が値上げを受容するのは図表の破線のように需要曲線が上方シフトする場合であるが、通常はこれは所得が増加し予算制約も緩和した場合に実現する3。これは消費者がデフレマインドをあらため値上げを受容するのは、インフレではなく所得の増加であることを示している。

所得増加の展望のないなかでデフレマインドの脱却を訴えることは生活実感から批判も浴びよう4。一方企業行動も、ステルス値上げのような歪んだ対応がある一方、新製品等による高付加価値化なのどの望ましい対応もみられ、そうした製品は総じてマークアップの上昇に成功している。インフレによる既存品の値上げではなく高付加価値化による収益率のアップこそが重要である。日本企業には伝統的に「良いものを安く供給する」という経営哲学がありそれを批判することにも慎重さが求められるように思う。

現在のわが国の消費不振は、所得の増加の停滞とともに、円安による輸入物価の高止まりなどいわゆる交易条件の悪化による影響もある。政策的には円安の是正も必要であろう。
図表1 需給曲線
 
3 所得が増加しなくても、所得のうちの消費の割合(消費性向)が上昇すれば需要曲線は上方にシフトする。リフレ派は、インフレになれば「買い急ぎ」が起こるとしたが、これも消費性向の上昇と表現できる。ただし実際にはインフレになれば将来不安から節約が進み消費性向が低下することも考えられ、インフレと消費性向の関係は確定的とはいえない。
4 22年6月には、40年ぶりのインフレ到来のもとで経済学者の研究に基づき日銀の黒田総裁が「家計の値上げ許容度が高まっている」とこれを歓迎する発言をし、批判を浴びてしまった。
【補論】
企業が値上げに慎重なことを表現する理論として屈折需要曲線の理論がある。これは根岸隆教授が、ケインズ経済学のミクロ理論として提示したものであり、世界的な業績として評価されている5。この理論は、現時点の価格から値上げを行うと、それは店舗に来客している顧客には確実に伝達されるため需要が急速に減少する(需要の価格弾力性は相対的に大)のに対し、値下げの場合は、それが新たな顧客に伝達されるのは不確実で時間を要するため需要の増加は緩やかになる(需要の価格弾力性は相対的に小)ことに着目する。このため価格の変更が躊躇されケインズ経済学の重要な前提である価格の硬直性が生じることが示されている。ただしこのモデルでも、製品の高付加価値化などによる製品価格の改定(上昇)によって需要の価格弾力性を小さくすれば、価格の硬直性は緩和される。この理論でも、値上げや販売単価の増加には製品の高付加価値化が鍵となることが示される。
図表2 屈折需要曲線
 
5 根岸(1980)、根岸(2011)

3――賃金上昇にはインフレではなく賃金改革こそが必要 

3――賃金上昇にはインフレではなく賃金改革こそが必要

春闘での久方ぶりの賃上げ実現については、インフレが背景とされるものの、インフレを上回る実質賃金の持続的な上昇のためには、生産性の持続的な上昇が必要との認識も広まってきている。また生産性の上昇のためには従来のようなコストカットではなく収益性の向上・高付加価値化が重要との認識も広まってきている。一方、好循環論のようにインフレを賃金上昇の主因とする議論では、実質賃金の上昇のためには、インフレが生産性を上昇させることを論証しなくてはならないが、そのような論証は見当たらない。また実質ベースでの賃金上昇のためには生産性上昇が必要とされる(生産性上昇→賃金上昇の因果)が、最近ではわが国の現状を踏まえて、低賃金が低生産性を生み出しているとの指摘もされている。この指摘に従えば、生産性の上昇のためにはまず先行した賃金上昇が必要(賃金上昇→生産性上昇の因果)となる。

低賃金であれば、雇用者も従業員に高い生産性を要求しない。高賃金であれば、従業員に高い生産性を要求し、そのためにデジタル化などの設備を整え、人財投資を行うことなどが考えられる。

わが国経済の問題は、(潜在)成長力の低下であり、この背景である少子高齢化という人口問題は最大の課題である。生産性上昇はこれを緩和する方策のひとつである。

わが国の過去20年余の雇用情勢を振り返ると、雇用が増加する一方で賃金上昇率は低位に留まっている6。低賃金の継続と成長力の低迷が併存することは、両者の関係性(低賃金が低生産性と成長力の低迷を招いてきた可能性)を示唆しているように思える。

筆者は、わが国で必要とされるのは、デフレのノルムよりも低賃金のノルムの打破ではないかと指摘した7。低賃金のノルムを打破することは、デフレマインドの脱却よりも重要であろう。それでは低賃金体制を脱却するにはどうしたらいいのだろうか。わが国では依然、経済全体とは言わずとも業界横並びの同調的な賃上げ姿勢が根強いが、企業は本来、個別の収益性に基づき賃金を決定すべきだろう。賃金政策は将来をにらんだ人財投資という重要な経営戦略である。

また労働政策として非正規雇用の問題の是正も、成長戦略の視点からも重要ではないだろうか。現行の非正規雇用制度は低賃金を生み出し、正規雇用も含めて賃金抑制の圧力となっている8。わが国の労働市場の現状は、長時間労働で時間面での柔軟性の乏しい正規雇用と低賃金の非正規雇用の併存であり、これが経済面を超えて、生活面での満足度を低め労働意欲も低下させているように思える。これはまた生活満足度の低下から人口問題などにも悪影響を与えている。同一労働・同一賃金の徹底と正規・非正規の区別のない(むろん男女格差のない)時間給の採用を基本とする柔軟で満足度の高まる労働市場改革こそ必要とされているのではないだろうか。社会でますます必要とされているエッセンシャルワーカーの雇用環境が悪いことなど、わが国労働市場の歪みは大きい9。インフレ重視の好循環論は実質賃金上昇への論拠も薄弱な面もあり、またデフレこそ経済の最大の問題とすることはより重要な人口問題や労働問題から目をそらしかねないことも懸念されてしまう。
 
6 二宮・得田(2024)
7 例えば高橋(2023a)
8 深尾(2023)は低賃金による非正規雇用の増加が人的資本の蓄積を阻害していることを指摘している。これは雇用の増加が潜在成長力の上昇をもたらさなかった背景を説明しているように思える。
9 本節については田中(2024)による提言等が参考になった。田中(2023)によるエッセンシャルワーカーの問題、ドイツの事例も大変参考になる。
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