2024年01月25日

イマーシブ(没入感)の時代-「非傍観型トキ消費」という消費活動

生活研究部 研究員 廣瀨 涼

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4――完全没入型コンテンツの要件

では、没入感(イマーシブ)を生み出すコンテンツにはどのような要素が必要なのだろうか。筆者としては、イマーシブコンテンツは「体験型エンタメ」に没入感を生み出す要素が付与されることで成立すると考えている。実制作者やデジタルゲーム開発者、研究者などによって構成されている「IGDA日本 体験型エンターテインメント専門部会」が2012年当時6、特徴付ける属性として「非日常体験」を中心に「物語」「リアリティ」「挑戦」「仲間たち」の5つ7を挙げているが、それを参考に完全没入型コンテンツの要件の体現を試みたのが図5である。左の「非日常体験」を中心とした円は、体験型・経験型エンタメを構成している要素である。どのコンテンツにおいても、人々が入り込むことができるような「ストーリー性」が重要であり、そのストーリー性を補完するための細かなコンセプトや世界観を設計し、それらを高品質で具現化(映像美・音響・施設の作り込み)する必要がある。あまりに粗雑な作りでは「ツクリモノ感」が生まれ、没入するほどの感動が生まれないため、コンテンツのハード面も、ソフト面も「ホンモノ」と錯覚するほどのクオリティが必要なのである。そして提供されるコンテンツにもよるが、消費者の「参与」の度合いも重要な要素だ。イマーシブシアターのように自身が実際にそのコンテンツの一部として演じる体験・経験(という能動性)が、主体性を生み没入感を生み出すモノもあれば、イマーシブミュージアムのように、自分は傍観しているだけだが映像や音響によってその世界に飲み込まれ没頭できてしまうというコンテンツも存在する。VR体験や映画館におけるIMAXや4DX・MX4D、SCREEN X・4DX SCREENなどのシアター設備を始めとしたハード技術によって没入感に浸ることができるものがその類だ。また、社会学者の鈴木謙介はワールドカップやオリンピックの盛り上がりを「日常生活の中に突如として訪れる、歴史も本質的な理由も欠いた、ある種、度を過ぎた祝祭」と表現し、「カーニヴァル化」と名づけているが、その時たまたま居合わせた人々と共通のコンテンツを消費することで生まれる瞬発的な盛り上がりも没入感を生み出す要因となる。そして、このようなコンテンツや体験に対して感動する(消費する価値を見出す)ことができるのは、それらが「非日常的な体験」であるが故であり、「体験型・経験型エンタメ」はもちろん、強いては「コト消費」そのものの大きな目的の一つと言えるのかもしれない。「参与」「ストーリー性」「世界観(コンセプト)」「カーニヴァル化」「非日常体験」それぞれの要素が複合し合い、昨今のイマーシブを始めとした「体験型・経験型エンタメ」を構成していると筆者は考える。
図5 完全没入型コンテンツ
一方で、様々な「体験型・経験型エンタメ」がイマーシブや没入感という言葉で称され、そこまでその世界に入り込めないようなコンテンツまでもが没入体験として挙げられているのが実情である。言い換えれば唯一無二、消費者間で異なった消費結果が生まれる、といった生もの的な側面がそこまで大きくはなく、ある意味コト消費の域を出ないコンテンツやサービスにまで没入という言葉が使われ始めていると考えている。イマーシブ・フォート東京が売りにしている「完全没入体験」がイマーシブの理想モデルと仮定するのならば図1で挙げた「当事者性」「非画一化」「生の体験」は没入感を生み出すうえでの重要な要素であり、特に「みんなが画一的な体験でなく、それぞれが毎回自分だけの体験をする」という「非画一化」を生み出すのは「非再現性」「限定性」という特徴を擁する「トキ消費」そのものなのである。そのため、図5の右の円であるトキ消費の概念は「新鮮さを」担保する要素でもあり、左側の「体験型・経験型エンタメ」を構成する要素と「トキ消費」の要素とが複合したものが、完全没入体験コンテンツと言えるのではないだろうか。
 
6 記事が出された当時はSIG-ARG および ARG 情報局
7 体験型エンタメ情報局「体験型エンタテインメントの要素と「ARG」の定義」2012/07/18 https://arg.igda.jp/2012/07/arg_18.html

5――情報がないという事が贅沢な時代

5――情報がないという事が贅沢な時代

様々なコト消費やトキ消費の情報が溢れている中で、我々は消費に対する失敗のリスクを軽減できるようになったのかもしれないが、同時に、新鮮さを手放しているともいえる。2023年夏、スタジオジブリの『君たちはどう生きるか』が公開される際、タイトルとキービジュアル1枚がリリースされた以外は何も情報が公にされなかったことが逆に話題になったことからもわかる通り、コンテンツにしろ、話題のカフェにしろ、多くのサービスや商品で事前に情報が開示され、人々の感想や批評なども溢れており、だからこそ、実態や内容も知らぬ状態で、先入観なくその商品やサービスを楽しむことは、現代社会においては贅沢なことになってしまっているのだ。

一方で口コミなど事前の情報が全くないと、前述したリスクの面から見ても怖い・不安と感じる消費者も少なくはないだろう。その中で、このようなイマーシブエンターテインメントは、パッケージとして概要はわかるが、そのアウトプット=体験 が人それぞれ異なるという、知らなすぎるわけではない(消費に失敗しない)し、同じような飽き飽きした消費結果(新鮮さ・自分だけの経験)にならないという点がちょうどよい新鮮みを提供していると言えるだろう。また、SNSの普及に伴い、SNSで消費の内容が可視化されて初めて消費が完了したと考える層も増えてきた。コト消費においては、再現性が高い投稿で溢れているが、イマーシブコンテンツは「普遍的に(パッケージとして)提供される映える対象(商品として消費者から興味を持たれるモノ)」+「その中での消費者各々のオリジナルの体験」として消費者ごとに経験や体験に差が生まれるため、SNSの投稿も、コンテンツ内容そのものというよりも、同じコンテンツを体験する中で他人が経験し得ないオリジナルの体験の差が、消費結果としての魅力=興味を持たれる投稿 となっていく。
図6 非傍観型トキ消費
コト消費もトキ消費もどちらも本質的には「経験」や「体験」を消費することであるため、完全に別物と分断することはできないが8、このイマーシブコンテンツを消費の潮流の文脈から見れば、従来の自分が体験することで効用を得るコト消費と、非再現性や限定性というトキ消費の性質が合わさった主体的にコンテンツに参与する「非傍観型トキ消費」であり、能動的な消費意識をもつ消費者から支持されていくだろう。
 
8 コト消費という言葉は曖昧な言葉で、体験や経験を含むサービス全てを含んでいる。例えばスターバックスでは、コーヒーだけではなく行き届いたサービスや場所が提供されているという点からコト消費的であると解釈されることもある。ただ一般的なマーケティングの文脈で言えば体験型エンタメやレジャー、習い事を始めとした能動的な体験や経験の消費を指している。またトキ消費で消費されているモノも結局は体験であるため広義の意味ではトキ消費もコト消費として解釈することもできるのである。現在筆者は「コト消費」に関する体系的なレポートを執筆しており、そちらで詳しく考察していく予定だ。

6――イマーシブコンテンツを「本当に」楽しむために必要な事

6――イマーシブコンテンツを「本当に」楽しむために必要な事

とはいっても、圧倒的な世界観、圧倒的な没入体験は、作られたものに過ぎず、言い換えれば「ホンモノではない」のだ。そのため、どんなに精巧に作られていたとしても、消費する側の人間が斜に構え「これは作りモノに過ぎない」と色眼鏡をかけたうえで消費したら、どんなに素晴らしいモノであっても没入することはまず無理であろう。従来から言われている話だが、テーマパークは所詮作りモノ、パーク内の着ぐるみ人形の中には人が入っている、映画やドラマはフィクションにすぎない、と言ったように、純粋に提供されたモノを享受せず、「作られたモノ=虚構」であるということを悪であるかのように捉え、コンテンツの品質ではなく、作りモノから感じ取った商業主義そのものを批判する消費者がいるが、ビジネスなのだからお金が動いて当然であり、本物でないことに嫌悪感を抱いたり、それを好んで消費している層を蔑むという行為はお門違いである。自らそれを消費しに来ているのであれば「作られたモノ」であるという事を承知で来ている訳だろうし、自らそのようなコンテンツを消費もせず、ただ批判をするのであれば、その人は消費者でも当事者でもなく外野に過ぎない。以前レポート9で「not for me」10について触れたが、そのコンテンツや体験がつまらないのではなく、単にその消費者向けではないだけである11

冒頭で挙げた「友達がやっているカフェ/バー」に対しても、「いきなりタメ口使われたら怒るわ」といったようなSNSでの投稿が散見されたが、そのような人たちは最初からターゲットではないので、そもそも足を踏み入れなければいいだけだし、足を踏み入れないのならばタメ口を使われる心配をする必要もない。市場が成熟し、人々の嗜好が細分化されればされるほど、ニッチで自分では理解できないマーケットが生まれてしまうのは致し方がない。大切なのは「not for me」の精神なのである。

昨年末、漫才師日本一を決める祭典「M-1グランプリ」が開催され、「令和ロマン」が接戦を制して王座に輝いた。彼らが漫才の中で放った「どうでもいい正解を愛するよりも面白そうなフェイクを愛せよ」という言葉に筆者は心を惹かれた。SNSが普及した事により、今まで見えてこなかった実態が浮き彫りになるケースが多々ある。もちろん「正しい」ことは正義であり、「正しさ」を否定する気はないが、必ずしも真相が明かされてしまう事が幸せにつながるわけではない。時に「正解」は残酷でもある。真相の反証が簡単にできてしまう時代だからこそ、どうでもいい、誰も得をしないような真相を追求することに疲れを感じているのは筆者だけではないだろう12。それならば「面白そうなフェイク=虚構」を楽しんだ方が、なんぼか幸せに感じるというのは楽観的過ぎるのだろうか。今回のレポートのテーマでもあるイマーシブは、それこそ虚構が虚構であるが故に成り立つコンテンツである。せっかく消費するのならば、そのノリに乗っかって、いかにそのつくられたモノを愛すことができるかが、没入体験をより高次なモノにできる要因であり、イマーシブ、没入型消費の本質であろう。
 
9 廣瀨涼「オタクのコミュニティは本当にオタクにとってのサンクチュアリー(保護区)なのか。-利己主義と排他主義が生むオタクのコミュニティの実態」基礎研レポート 2022/05/10
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=71048?site=nli
10 「自分は面白いとは思わなかったが、これを面白いと感じる人もいるから、これそのものの存在は否定しない」という、当人の当該コンテンツに対するスタンスを示す言葉。
11 ここで留意したいのは、提供されたコンテンツを無条件で享受するのではなく、実際に体験して「つまらない」「体験する価値はなかった」と評価(批判)することは何ら問題ではなく、あくまでも消費する際の心構えの話をしてる。
12 正しいことが追求されること、真実が明るみになることを否定しているわけではない事を留意したい。
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生活研究部   研究員

廣瀨 涼 (ひろせ りょう)

研究・専門分野
消費文化、マーケティング、ブランド論、サブカルチャー、テーマパーク、ノスタルジア

経歴
  • 【経歴】
    2019年 大学院博士課程を経て、
         ニッセイ基礎研究所入社

    ・令和6年度 東京都生活文化スポーツ局都民安全推進部若年支援課広報関連審査委員

    【加入団体等】
    ・経済社会学会
    ・コンテンツ文化史学会
    ・余暇ツーリズム学会
    ・コンテンツ教育学会
    ・総合観光学会

(2024年01月25日「基礎研レポート」)

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