2023年05月10日

異次元緩和の意義について考える-黒田日銀10年の振り返り

基礎研REPORT(冊子版)5月号[vol.314]

経済研究部 上席エコノミスト 上野 剛志

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先月、黒田東彦日銀前総裁が10年に及ぶ任期を終えた。同氏が就任直後の2013年4月に導入し、継続してきた大規模金融緩和、いわゆる「異次元緩和」を改めて振り返り、その意義について考えたい。

1―異次元緩和の評価

1|異次元緩和の効果
始めに、異次元緩和の効果について、緩和導入直前から直近にかけての経済・物価・市場に関する主な指標の変化を見ると[図表1]、確かに幅広い指標において改善が確認できる。ただし、それはあくまで「異次元緩和導入後の改善」であり、その全てが「異次元緩和導入による効果」というわけではない。
[図表1]異次元緩和前後 主要経済指標等の変化一覧
まず、異次元緩和後は外部環境に恵まれていたことが指摘できる。黒田前総裁の前任である白川元総裁の任期大半がリーマン危機と欧州債務危機という世界経済の低迷期にあたる一方、黒田前総裁の任期はその後の回復期から開始しており、海外、特に米景気回復の追い風を受けやすかった。

このことは金融市場にも大きな影響を与えた。確かに、異次元緩和の導入が市場にサプライズを与え、過度の円高是正に寄与したことは否定できない。ただし、異次元緩和後は比較的米景気が堅調で米金融政策も引き締め的であったことが円安を増幅した面もある。株価についても、米国要因で増幅された円安や米景気回復を受けた米国株の上昇によって牽引された面がある。現に日銀が35兆円ものETFを購入したにもかかわらず、異次元緩和後の日本株の上昇率は米国株に及ばない。

次に実質GDPに目を転じると、異次元緩和導入直前(2013年1-3月期)から直近(22年10-12月期)にかけて、成長ペースは年率で約0.5%に留まっている。
[図表2]実質GDPと内訳(水準)の動向
伸びが相対的に大きかった需要項目を見ると、まず最も伸びが大きかった輸出は、既述の通り、外部要因改善の追い風を多分に受けている。

そして、次に伸びが大きかったのは設備投資だが、この間のキャッシュフローの伸びを下回っている。円安や景気回復によって収益が改善して投資余力が高まった割に設備投資は増えなかったということだ。企業が「日本経済が力強く成長していく見通し」を持てなかったことが投資への慎重姿勢に繋がってきたと考えられる。実際、この間に対外直接投資は大幅に増加しており、国内より高い成長が見込める海外への投資が選好された可能性が高い。

なお、設備投資に関しては、金融緩和に伴う金利低下による貸出増加を通じて促進される経路も考えられるが、異次元緩和後の貸出増加は金利低下の恩恵を特に受けやすい不動産領域に偏っており、それ以外の伸びは限定的であった。

次に、異次元緩和の功績として挙げられることが多い雇用の改善について見ると、確かに異次元緩和後に雇用者数が約500万人も増加、失業率は低下しており、雇用の改善は鮮明だ。ただし、金融緩和と無関係な人口動態・社会構造の変化が大きく影響していた点も見逃せない。

異次元緩和後の雇用増のうち、医療・福祉業界と情報通信業界がそれぞれ全体の約1/3、15%を占めるが、背景には社会の高齢化や情報化による労働需要の増加がある。さらに、少子化によって今後も採用難が強まることが企業で確実視されるようになったことで、人材を今のうちに確保しておく目的で採用意欲が高まった可能性も高い。

そして、賃金の伸びは物足りない状況が続いた。1人当たりの現金給与総額の伸びは最近でこそやや拡大しているものの、異次元緩和後の平均*1で見ると前年比0.4%増に留まった。

賃金伸び悩みの直接的な要因は、企業の生産活動で生み出された価値である付加価値の伸び悩みと労働分配率の低下だ。企業の期待成長率の低さが設備投資の伸び悩みを通じて生産性改善の重荷となり、付加価値が伸び悩んだこと、さらに期待成長率の低さが賃上げ意欲を抑制して労働分配率が下がったことが、賃金の伸び悩みに繋がったものと考えられる。デフレ期に醸成された「物価も賃金も上がらない」という社会規範の存在が賃金上昇の抑制に働いた可能性も高い。

日銀の最大の目標である物価に関しては、消費者物価(除く生鮮食品)の伸びこそ異次元緩和後に上振れし、昨年4月以降は物価目標水準である前年比2%を上回っているが、その質に問題がある。世界的な資源価格高騰と、日銀の金融緩和ならびに米利上げに伴う大幅な円安進行による輸入物価の上昇がその発端であり、仕入れコスト増加に耐えきれなくなった国内企業が販売価格への転嫁を進めたというコストプッシュの側面が強いためだ。内需が牽引する形の安定的な物価上昇とは言えず、日銀自身も「2%を再び割りこむ」との見通しを維持している。
 
*1 四半期ベース。2013年4-6月期~2022年10-12月期の単純平均
2|異次元緩和の副作用
異次元緩和の副作用に目を転じると、既に多くの指摘がなされているように、多方面において副作用と言える問題が顕在化してきている[図表3]。
[図表3]異次元緩和前後 副作用関連指標の変化一覧
まず、既に喫緊の課題として挙げられるのが債券市場の機能度低下だ。

異次元緩和後に市場金利を低位に押し下げるために日銀が大量の国債を市場から吸収し続けたため、市場で流通する国債が減少し、債券市場の流動性が低下した。さらに、昨年からは市場の金利上昇圧力を日銀が強制的に押さえ付けたことでイールドカーブが歪み、社債発行など企業の資金調達に悪影響を及ぼしている。

そして、国民生活の観点での副作用としては、実質賃金の押し下げが挙げられる。異次元緩和直前を起点とした場合、実質賃金は約8%も低下している。この間、輸入物価上昇や消費税率引き上げもあり、物価が大きく上昇する一方で、賃金が伸び悩んだためだ。そして、日銀の異次元緩和も円安の促進を通じて物価上昇の一因になってきた。

異次元緩和が日本の構造改革を停滞させ、生産性の伸びを抑制した可能性もある。具体的には、危機ではない平時にも金融環境が著しく緩和した状況を維持したことで、本来市場から退出を迫られていたはずの生産性の低い企業が存続することになり、日本全体の生産性向上が滞った可能性だ。さらに、企業の付加価値向上のための創意工夫意欲や、政府による構造改革に向けた機運を損ねた可能性も否定できない。

また、日銀の金融緩和が金利の押し下げを通じて財政規律の緩みに繋がったとの批判も多い。

異次元緩和の弊害は日銀自身にも及んでいる。国債やETFなどの大規模買入れを続けた結果、日銀の総資産が膨張し、金融緩和の出口局面で財務が大きく毀損するリスクが高まった。日銀は通貨発行主体であるため、財務毀損によって一般企業のように資金繰りに窮するわけではないが、投機的な円売り・日本国債売りの口実にされるリスクは排除できない。また、財務改善のために政府から資本注入を受ければ政府からの介入が強まりかねないという
懸念から、日銀が財務毀損を避けるためにあえて金融引き締めを遅らせ、経済・物価に悪影響が出る恐れもある。

2―異次元緩和のまとめと意義

つまり、異次元緩和の効果は全面的に否定されるものではないものの、見た目よりも限定的で物価目標の達成もかなわなかった一方、物価目標に拘って硬直的な政策運営を続けた結果、その副作用は着実に高まってきたと考えられる。

実際、日銀は異次元緩和導入後、物価目標未達を受けて段階的に緩和を強化していったが、次第に増大する副作用への対応が必要になり、緩和の強化よりも副作用を抑制しながら緩和状態を維持することに腐心することになった。

足元では、今春闘における大企業の賃上げ拡大など、物価目標達成に向けた前向きな動きも出てきてはいるが、賃上げの持続性は不透明であり、異次元緩和の出口は未だ見通せない状況にある。

振り返ってみると、10年余り前、白川元総裁時代の終盤には日本の経済情勢が芳しくない主因として円高とデフレ*2が挙げられ、その責任は金融緩和を出し渋る日銀にあるとの論調が広がっていた。そうした社会的背景のもと、「デフレ脱却」を旗印に誕生した安倍政権が物価目標を掲げ、その達成を託された黒田総裁が異次元緩和に踏み切ったわけだが、その結果はこれまで見てきた通りだ。

つまり、異次元緩和は大規模な金融緩和によって経済の好循環を起こし、物価目標を安定的・持続的に達成するという壮大な社会実験であったわけだが、結果的に難しいことが実証された形になった。その対価は10年もの時間の経過と蓄積・顕在化した副作用ということになる。

一方、異次元緩和の経験から得られたものもある。一つは「教訓」だ。この10年、日本は世界的に見ても、歴史的に見ても極めて大規模な緩和を経験した。この経験は今後の金融政策運営に生かせる貴重な知見になる。今後、日銀自身が総括し、受け継いでいくことが望まれる。

そして、もう一つ得られたものは「賃上げの重要性が改めて認識されたこと」だ。大規模緩和を続けても、賃金が十分上がらないと経済の好循環や物価目標の安定的な達成はままならないことが改めて明らかになった。当然、国民の暮らし向きも良くならない。日本経済の最大の課題が賃上げであるとの共有化は進んだ。今後は、政府、日銀、企業、労働者が協力し、持続的かつ十分な賃上げが可能な経済の実現に向けて取り組みを加速することを期待したい。
 
*2 この言葉には単に物価の持続的な下落という意味だけでなく、景気低迷という意味合いも含まれていた。
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経済研究部   上席エコノミスト

上野 剛志 (うえの つよし)

研究・専門分野
金融・為替、日本経済

経歴
  • ・ 1998年 日本生命保険相互会社入社
    ・ 2007年 日本経済研究センター派遣
    ・ 2008年 米シンクタンクThe Conference Board派遣
    ・ 2009年 ニッセイ基礎研究所

    ・ 順天堂大学・国際教養学部非常勤講師を兼務(2015~16年度)

(2023年05月10日「基礎研マンスリー」)

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