2021年09月07日

中国、「医療保障法」制定へ

保険研究部 主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任 片山 ゆき

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1――国家医療保障局が「医療保障法」のパブコメ案を発表

中国の国家医療保障局は、2021年6月15日、「医療保障法」の意見募集稿(以下、「パブコメ案」)を公表し、社会から広く意見を募るとした1。医療保障法は、中国における医療保障体系のあり方や、病気やケガとなった場合、保険給付を行う公的医療保険制度について定めるもので、今後、制度運営の基礎となる法律である。以下ではパブコメ案において示された医療保障体系の構築に着目し、目指す方向性を探ってみたい。
 
振り返ってみると、これまで社会保険制度に関する法律は、2011年7月に施行が開始された「社会保険法」のみである。社会保険法において、公的医療保険(中国語では基本医療保険)については基本的な内容規定(10条ほど)にとどまっており、今般、公的医療保険で単独かつ法律レベルでの制定は初めてとなる2

これまで中国の公的医療保険は、日本の政令(内閣)・省令(主務官庁)レベルでの規定で運営されてきたと考えられよう。中国の場合、行政法規(国務院)による包括的な内容と、部門規則(主務官庁)、医療保険制度を運営する地方政府による地方性法規に基づいて運営されてきた。中国の医療保険が1951年に国有企業の企業福利として誕生した「労働保険医療制度」に端を発した点を考えると、法律レベルで定めるパブコメ案の提案までにすでに70年ほど経過していることになる3
 
パブコメ案は、対象者や制度に分けず、包括的に定めている。イメージとしては、日本の被用者やその家族を対象とした「健康保険法」と被用者保険以外を対象とした「国民健康保険法」を統合した内容に相当すると考えられよう。更に、同じく国家医療保障局が管轄する介護保険制度についても記載するなど、介護保険の実験的な導入以前に施行された社会保険法を補足している点も見受けられる。
 
1 パブコメ案は8章、70条で構成されている。内容としては、総則(1章)、保険料徴収と給付内容(2章)、基金管理(3章)、医薬サービス(4章)、公共管理サービス(5章)、監督管理(6章)、法的責任(7章)、附則(8章)となっている。意見募集は2021年7月16日までとなっている。
2 社会保険法は、12章98条で構成され、社会保険について包括的に制定。2011年7月1日施行。内容は年金(基本養老保険)、医療(基本医療保険)、労災(工傷保険)、失業(失業保険)、生育保険の5つの社会保険と、保険料徴収、社会保険基金、手続機関、監督、法的責任などについて記載されている。医療(基本医療保険)については、23~32条で定めている。2016年から試行されている介護保険について、社会保険法の改正は示されていない。
3 労働保険医療制度については、社団法人中国研究所『中国は大丈夫か?社会保障制度のゆくえ』、2001年3月20日、pp68-70。なお、日本では、早くも1922年に10人以上を雇用する企業を対象とした「健康保険法」が公布され、1926年7月1日から施行されている。

2――多層的な医療保障体系の構築

2――多層的な医療保障体系の構築、市場や寄付、非営利活動の積極的な活用

パブコメ案を概観すると、中国の医療保障体系のあり方や目指そうとする方向性が見えてくる。

その特徴の1つとして、医療保障の提供は公的医療保険といった行政のみならず、市場や寄付、非営利活動など中間団体・組織を積極的に活用しようとしている点が挙げられる。

これまでの社会保険法(2011年)、国務院通知(「中共中央・国務院の医療保障制度改革の深化に関する意見」、2020年)を振り返ってみても、大枠でその考え方は一貫している。最も基盤となる社会保険法では、体系性として「社会保険制度は広く普及させ、基本を保障し、多層的な構造、持続可能という方針を堅持する」(3条)と定めている。公的医療保険に置き換えて考えると、広く国民が加入できる制度があり、給付は上限を設けるなど基礎的な内容にとどめるが、保障のあり方を多層的にすることで持続可能な制度を構築する、という意味として捉えることができる。
 
中国の社会保険制度は整備されていないという意見もあるが、上掲から分かるように、医療保険制度は1949年の建国後、まず、労働保険として導入されている。また、1980年代の国有企業改革を経て、1990年代以降、地方政府に制度が移管される中で、給付は基礎的な内容にとどめ、それ以外の市場や非営利組織、自助などによる補完を重視するという佇まいをとっている。そのあり方は第二次世界大戦直後の1940年代から1970年代にかけてヨーロッパ諸国が主導し、日本も追随した福祉国家形成の佇まいとは大きく異なるといえよう。福祉国家の形成はその後、1973年のオイル・ショックを端緒として世界経済が傾き始めると、市場の自由な働きを重視する動き(ネオ・リベラリズム)、更にはグローバル化の進展にともなって、縮減の方向に向かっている4

そもそも議会制民主主義をとる欧米と中国とは政策決定プロセスが異なるため、単純な比較はできない。しかし、戦後、世界が福祉国家形成に向かう時期に、中国は経済的(戦後の高度経済成長とそれに伴う福祉や社会保障の拡充)、政治的(コンセンサス政治)にもヨーロッパや日本のような状況にはなかった。一方、現在の制度が形成された1990年代には、時をほぼ同じくして、世界の福祉国家の潮流が自助(個人・市場)、共助(地域社会・家庭)、公助(公的部門・行政)の役割を融合した福祉ミックス体制に移行しつつあった点にも留意が必要であろう。
 
4 斎藤純一・宮本太郎・近藤康史編『社会保障と福祉国家のゆくえ』、ナカニシヤ出版、2011年6月14日

3――5つの内容で構成される医療保障体系

3――5つの内容で構成される医療保障体系

パブコメ案では、医療保障体系を構成する内容として、主に5つを挙げている。それは「基本医療保険」、「医療救済」、「補充医療保険」、「商業健康保険」、「慈善医療救済」である(図表1)。5つの関係性は、「基本医療保険」を主体としつつも、基本医療保険に加入できない生活困窮層を「医療救済」で支え、更に「補充医療保険」、「商業健康保険」、「慈善医療救済」などと相互に連携し、ともに発展させるというものである。

「基本医療保険」は、都市の就労者(公務員を含む)を対象とした都市職工基本医療保険5(強制加入)と、都市の非就労者および農村住民を対象とした都市・農村住民基本医療保険6(任意加入)を指しており、いわゆる公的医療保険に該当する。

「補充医療保険」は、例えば、都市・農村住民基本医療保険の加入者で、高額な医療費がかかった場合に適用される大病医療保険などが該当する。基本医療保険を「補充」する役割をもち、概ね基本医療保険の給付上限額以上の部分について適用される。

「商業健康保険」は民間の保険会社が取り扱う医療保険、疾病保険、傷害保険、所得補償保険、介護保険の総称で、個人加入と企業による団体保険など市場で販売されている保険商品を指している。

一方、「慈善医療救済」は社会による慈善活動や寄付、相互扶助を指し、NPO法人やボランティア組織などの活動も該当する。
図表1 中国における医療保障体系の構成要素
 
5 2020年末時点で、都市職工基本医療保険の加入者数は、3億4455万人(うち、定年退職者は9026万人)。
6 2020年末時点で、都市・農村住民基本医療保険の加入者数は、10億1676万人。

4――介護保険制度についても言及

4――介護保険制度についても言及

一方、パブコメ案では、介護保険制度についても言及している。介護保険制度は2016年以降、全国で実験的な導入がされているが、今後、1つの社会保険制度とし位置付けられていくことになる7。介護は医療の延長線上にあるという理念の下、これまで多くの地域で公的医療保険の積立金を転用して試行されている。介護保険制度はパブコメ案を起草している国家医療保障局が管轄している。

パブコメ案では、国が介護保険を創設、発展させ、日常生活を独力で送ることが難しい人々の基本的な介護ニーズを解決するとしている。また、介護保険は、全ての国民をカバーし、保険料を合理的に負担し、保障バランスを最適化し、保険料徴収や給付レベルを調整するとしている。更に、介護サービス業者など市場や社会の支えによって制度体系を構築し、多元的で総合的な保障体系の構築を奨励するとしている。パブコメ案では、基本的な内容にとどめられているが、国が責任をもって、国民全員をカバーする介護保険制度の構築を示すのであれば、その意義は大きいと言えよう。
 
現在、介護保険制度の運営は、多くの地域で民間の保険会社に委託されている。このような社会保険における官(地方政府)と民(民間保険会社)の協働運営は、上掲の都市・農村住民基本医療保険の加入者で、高額な医療費がかかった場合に適用される大病医療保険においても採用されている。官民協働の制度の運営費用は地方政府が徴収した保険料から拠出されるが、保険会社側は原則としてノーロス・ノープロフィットを求められ、厳しい運営となる。この点からも引き受けの多くは、結果として、国有系の最大手保険会社が中心となり、民間での引き受けは、民間最大手または医療保険専門の保険会社など一部の保険会社となっている。
 
医療保障体系の1つの要素として、民間保険商品など市場の積極的な活用と同時に、社会保険の運営に民間の保険会社が関わるという手法は、習近平政権発足以降、医療・介護保障分野で見られる1つの特徴ともいえよう。背景には国の財政赤字の拡大、医療を含めた社会保障に関する経費の増大があろうが、民間企業の経営手法を導入することで制度運営の効率化をはかろうとしてる側面も見られる8。ただし、介護保険については地域によって制度内容の多様化が大きく進み、結果として地域間の受給格差を拡大させている現状もある。今後、試行が進む中で、更なる調整や検討が必要となるであろう。
 
7 介護保険は、2020年末までにパイロット地域として全国49地域を指定、2025年までに全国導入を計画している。加入者数は1億835万人、受給者数は83.5万人。
8 村上昴音(2018)博士論文「現代中国における公共サービスの民間委託~「包」(請負)の機能に着目して」(東京外国語大学)では、1980年代の半ば以降、英国などアングロサクソン系諸国を中心とした行政実務の現場を通じて形成された革新的な行政運営理論としてのNPM理論を挙げ、中国は公共サービスの民間委託において、NPM理論を活用しつつも、中国伝統の商習慣である「包(請負)」(指定した内容の完成を担保するなら、あとは請負側の自由にしてよい)の機能を活用した点を指摘している。福祉国家のNPM理論導入の背景には、財政赤字の増大と公的部門のパフォーマンスの低下がある。

5――新型コロナ以降

5――新型コロナ以降、雇用形態が流動化する中で、民間保障・保険市場が果たす役割が拡大

このように、中国における医療保障体系の維持には、今後、民間保障分野が果たす役割が更に拡大すると考えられる。パブコメ案では、民間保険会社による販売を奨励する保険商品を挙げ、健康保険の中でも特に重大疾病保険の給付範囲の拡大を奨励するとしてる。また、個人加入のみならず、企業による従業員向けの団体健康保険の加入を奨励するとしている。パブコメ案の段階とはいえ、法律で民間保険商品への加入を奨励する点にも、市場が果たす役割に多くを委ねて行こうという動きが表れていると考えられよう。
 
社会のデジタル化の進展の中で、特に新型コロナウイルス以降は、若年層を中心に雇用形態の流動化が進んでいる。流動化する雇用形態と医療保障の仕組みをどう結びつけ、維持していくのかが新たな社会課題としても浮上してきている。例えば、新型コロナ以降、雇用の受け皿として機能しているデリバリー配達員などは、多くが地方や農村部の出身者で、現在の就労地における基本医療保険(公的医療保険)、労災保険に加入していない(経済的に加入することが難しい)ケースが多い。雇用契約面の問題もあろうが、地域ごと、戸籍ごとに加入する社会保険の脆弱性が、都市生活の基本機能やサービスを支えるワーカー層において最も表面化しやすい状況になっているのだ。
 
この点、民間保険は地域や戸籍などの制約を受けないため、結果として、民間保険がセーフティーネットの一部を担うといった状況も発生している。例えばフードデリバリー最大手の美団は民間損保最大手の平安損保と契約し、非正規の配達員向けに、不慮の事故による死亡や後遺傷害、ケガの治療、突発的な発病による死亡、更には対人・対物の賠償責任などをカバーする保険に加入している9。保険料の支払いについては、配達員がその日最初の配達の発注を受けた際に、保険料3元(約50円)を日払いで保険会社に直接支払う仕組みになっている。非正規の配達員は兼業をしているケースも多く、長期の保険契約や、高額な保険料の一時払いは難しいといった点が考慮されていると思われる。このような取り組みは、オンライン配車サービスやライブコマースなどオンライン販売の従事者などデジタル化に伴って創出されたギグワーカーや、短期の雇用期間で流動性が高い職種に従事するフリーランス業などに向けて更に広がりを見せている10。結果として、民間の保険商品が、本来であれば労災や公的医療保険のような社会保険、社会扶助のような役割も果たす形となっているのだ。
 
9 「現状調査:霊活就業者保障欠失」、中国銀行保険報網、2021年6月18日、2021年9月1日アクセス
10 同様の取り組みが年金分野においても実施されている。中国銀行保険監督管理委員会は、実験的な取り組みとして、保険会社6社を指定し、ITなど新たに創出されている職業や、フリーランス向けに年金の開発を指示している。また、公的年金についても戸籍などにかかわらず、就業地での加入を可能とするなど規制が緩和されている。

6――公的領域と私的領域の境界や…

6――公的領域と私的領域の境界や役割分担がフレキシブルな協働運営へ

以上述べたように、中国の医療保障体系の構築は、公的領域(官)を基礎としながら、私的領域(民)を積極的に取り込み、活用していく点に特徴がある。民の活用については市場における商品提供に加えて、公的領域における制度運営の請負いといった企業の経営手法の提供も含まれる。

更に、社会が大きく変容し、雇用が流動化、多様化する中においては、民間保険商品が本来の市場における取引のみならず、公的領域におけるセーフティーネットの役割も引き受けつつある点も重要であろう。民間保険は、基本医療保険から漏洩するという社会保障に関するリスクを抱えつつ、所得が医療救済(貧困救済)を受けるまでには困窮していないレベルの都市部のワーカー層を側面的に支える存在にもなっている。制度改革が社会の急速な変革に追い付いていない状況下では、公的領域と私的領域の境界や役割分担をフレキシブルなものとし、官民が多方面で協働することで持続可能な医療保障体系の構築を目指していくであろう。
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保険研究部   主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任

片山 ゆき (かたやま ゆき)

研究・専門分野
中国の社会保障制度・民間保険

経歴
  • 【職歴】
     2005年 ニッセイ基礎研究所(2022年7月より現職)
     (2023年 東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了) 【社外委員等】
     ・日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
     (2019年度・2020年度・2023年度)
     ・生命保険経営学会 編集委員・海外ニュース委員
     ・千葉大学客員准教授(2023年度~) 【加入団体等】
     日本保険学会、社会政策学会、他
     博士(学術)

(2021年09月07日「基礎研レポート」)

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【中国、「医療保障法」制定へ】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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