2016年10月20日

社会保険料の帰着に関する先行研究や非正規雇用労働者の増加に関する考察

生活研究部 上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任 金 明中

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Komamura and Yamada(2004)は、Gruber(1995)の研究方法に基づいて賃金関数を推計し、事業主負担の健康保険料率の変化が労働者の賃金に与える影響を分析している(式(3))。
 
分析では、健康保険組合連合会の「健康保険組合の現勢」と「健康保険組合事業年報」の7年間(1995~2001年度)の健康保険組合ごとのデータがパネル化され使われている。分析の結果、健康保険料の事業主負担は労働者の賃金に帰着しているという結果が出ている。 一方、Tachibanaki and Yokoyama (2008)では、Komamura and Yamada(2004)とは逆に社会保険料の労働者負担が事業主に転嫁されていると結果が出た。

岩本・濱秋(2006)は、社会保険料の事業主負担が誰の負担になるかについての理論的議論とTachibanaki and Yokoyama(2006)とKomamura and Yamada(2004)の研究に対する考察を行っており、両論文の研究で得られている、解釈の混乱している部分、すなわち、「賃金への完全な転嫁」は、事業主負担が内生的に変動するのでバイアスをもった推計結果が得られていると説明している。そこで、このような解釈の混乱している部分が除外されると、事業主負担は賃金に部分的に転嫁するという結果が妥当であると結論づけている。

酒井・風神(2007)は 社会保険料の事業主負担が労働者に帰着しているどうかに関する検証を行った。彼らは、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」を用いて、介護保険の保険料負担がある40 歳以上の雇用者をトリートメントグループに、保険料の負担がない雇用者をコントロールグループとする差分の差分法(Difference in Difference Analysis, DID 分析)6による分析を行った。分析の結果、トリートメントグループでは賃金の減少が確認された。しかしながら、コントロールグループを 35 歳以上の労働者や 45 歳以上の雇用者に変更して分析を行った場合も賃金の減少が確認されており、介護保険制度の導入により賃金が減少すると断定することはできないと結論づけている。

太田(2008)は、「一般的には 「社会保険の企業負担部分は, 企業が払ってくれているのだから, 労働者には 直接の影響がない」 「企業負担割合を上げて, 労働者負担割合を下げれば, 労働者の手取り収入は増えるのではないか」、 といった考え方が強いように思われる」が、「たとえ企業が完全に負担することになっている労災保険料でも、特別な場合を除いて、労働者が実質的にその一部を負担している。」と経済学の見方を説明している。

Miyazato and Ogura (2010)は、「就業構造基本調査」や組合管掌健康保険の年間事業報告書のデータを用いて、事業主の健康保険と介護保険に対する保険料率負担が労働者の賃金に転嫁されているかどうかを分析している。分析では、事業主の社会保険料負担の増加は賃金率に負の影響を与えるという結果が出たが、統計的に有意ではなかった。一方、事業主の社会保険料負担の増加は、正規労働者と非正規雇用労働者の賃金格差を縮小させるという結果が得られた(式(4))。



一方、社会保険料の雇用への転嫁に関する研究としてBaicker and Chandra(2006)や金(2008)が挙げられる。Baicker and Chandra(2006)は、健康保険料の増加が雇用水準や正規職と非正規職の分布に与える影響について実証分析を行っている。分析では、健康保険料が10%増加すると、雇用される確率が1.2パーセントポイント減り、労働時間も2.4%減るという結果が出た。一方、労働者が非正規職として雇われる可能性は1.9パーセントポイントまで増加した。事業主が提供する健康保険の適用を受ける労働者の場合、保険料の増加は、賃金を2.3%減らす結果となった。

金 (2008)は、1984~2003 年における日本の上場企業の財務諸表をパネル化し、社会保険料を含む福利厚生費などの増加が企業の雇用に与える影響を分析した。分析には日本政策投資銀行と財団法人日本経済研究所の 『企業財務データバンク』と日本経済新聞社の『Financial Quest』、そして東洋経済新報社の 『会社四季報』 をマッチングさせてパネルデータを作成して使用している。分析では、企業が負担する福利厚生費は雇用者数に有意に負の影響を与えているという結果が出ており、福利厚生費の増加が雇用に転嫁されているとの結果が示されている。また、社会保険料を含む福利厚生費が全雇用者と正規雇用者に与える影響を比較・分析し、福利厚生費は、全雇用者よりも正規雇用者の雇用により負の影響を与えているという結果を出している。

社会保険料の帰着に関する最近の日本の研究としては、小林・その他(2015)が挙げられる。小林・その他(2015)は、「税・社会保険料等の企業負担に関する意識調査」と「企業活動基本調査」をマッチングしたデータセットを用いて、企業の公的負担の変化が企業行動に及ぼす影響について分析を行った7。分析では、被説明変数として企業の負担吸収・利益分配割合を、説明変数として資本金、従業者数、企業年齢(年)、売上高経常利益率、企業属性ダミー等を用い、八つの仮説を検証するための回帰分析を行っている。

分析の結果、企業は多様な負担吸収・利益分配行動をとる用意があること、社会保険料の変化は正規労働者の賃金・雇用に大きな影響を及ぼすが、法人税は設備・研究開発投資に影響を及ぼす傾向が強いこと、短期的には利益の増減で対応する傾向が強いが、中期的には雇用・賃金や投資などで対応する割合が高くなること、流動性制約に直面している企業は手元キャッシュを重視すること、規模の大きな企業は公的負担を外部に転嫁することなどがわかったと説明している。
 
6 ある政策を実施する前と政策を実施した後の効果を推計する場合、次のような式により推計することができる。

 ここで、は、政策を実施したことにより影響を受ける変数である。は、政策の影響を受ける対象であれば1で、政策の影響を受けない対象であれば0 となるダミー変数である。は誤差項であり、は推計するパラメーターである。この式による推計結果を用いて、ある政策を実施することによりYが増加したという解釈をすることは可能である。しかしながら、Yが増加した要因が、すべてある政策によるものかどうかは断定できない。例えば、一部の都道府県のみある産業政策を実施することにより、該当する都道府県の一人当たりGDPが増加したとしても、それがすべて政策の効果であるとは言い切れない。つまり、その効果には政策による効果のみならず、時間が変化することにより発生する外生的要因(time effect)が含まれている可能性もある。そこで、差分の差分法(Difference in Difference Analysis, DID 分析)では、政策の影響を受けるトリートメントグループと、政策の影響を受けないコントロールグループという 2 つのグループに分けて分析を行う。つまり、純粋な政策の効果だけを見るために、政策により影響を受ける対象(トリートメントグループ)のみならず、時間が経っても政策の影響を受けない対象(コントロールグループ)を一緒に分析に利用する必要がある。

 
 上記の表を用いて説明すると、トリートメントグループ(政策の影響を受ける都道府県)の政策の実施前後の効果(b-a)には、政策の効果のみならず、時間が経つことにより発生する外生的要因も含まれていると言える。一方、コントロールグループ(政策の影響を受けない都道府県)の政策の実施前後の効果(d-c)には、時間の変化による外生的効果だけが反映される。ということは、(b-a)から(d-c)を除くことにより、時間の変化による外生的効果を除いた、純粋な政策効果が得られることになる。但し、一つ注意すべきことは、外生的効果はトリートメントグループとコントロールグループともに同じであると仮定する必要がる。これが差分の差分法の主な内容である。→ 金明中(2016)「韓国における給付付き税額控除制度の現状と日本へのインプリケーション―軽減税率より給付付き税額控除?―」基礎研レポート、2016年3月15日から引用。
7 「税・社会保険料等の企業負担に関する意識調査」では、過去5年間における各企業の社会保険料(年金・医療)負担増や将来の社会保険料負担増、そして将来の法人実効税率増減に対する企業の対応について聞いている。一方、企業活動基本調査は、企業活動の実態を明らかにし、企業に関する施策の基礎資料を得ることを目的に経済産業業が1992年から毎年実施している調査であり、各企業の従業員数や財務状況、そして事業内容などが利用できる。
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生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中 (きむ みょんじゅん)

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴
  • プロフィール
    【職歴】
    独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

    ・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
    ・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
    ・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
    ・2021年~ 専修大学非常勤講師
    ・2021年~ 日本大学非常勤講師
    ・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
    ・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
    ・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

    ・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
           東アジア経済経営学会理事
    ・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

    【加入団体等】
    ・日本経済学会
    ・日本労務学会
    ・社会政策学会
    ・日本労使関係研究協会
    ・東アジア経済経営学会
    ・現代韓国朝鮮学会
    ・韓国人事管理学会
    ・博士(慶應義塾大学、商学)

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