2024年11月05日

低賃金はESGリスク、脱・環境対策偏重のススメ

日本生命保険相互会社 執行役員/PRI(国連責任投資原則)理事 木村 武

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1―― 最低賃金と生活賃金の違い

生活賃金(living wage)とは、労働者とその家族が基本的な生活水準を維持するために必要な賃金水準である。具体的には、食費や住居費、教育費、医療費、交通輸送費、衣服費など、最低限の生活に必要な費用をカバーする労働所得が生活賃金である。一方、最低賃金(minimum wage)とは、法的に保障された「働いて受け取る賃金の最低額」である。

最低賃金制度は多くの国で導入されているが、ヨーロッパの一部の国やカナダ、オーストラリアなど(下図の黄緑と橙色の国)を除くと、ほとんどの国(青と濃紺色の国)において、最低賃金が生活賃金を下回っている。つまり、最低賃金では、労働者とその家族は基本的な生活を送ることができないということである。このことは、日本や米国も当てはまる。米国では、最低賃金による生活賃金のカバー比率が8割未満となっている。
最低賃金による生活賃金のカバー比率(最低賃金÷生活賃金、単位%)

2―― 日本の生活賃金の実態

2―― 日本の生活賃金の実態

日本の生活賃金については、日本労働組合総連合会(連合)が公表している。これによると、最低賃金による生活賃金のカバー比率は、都道府県によって異なるが、80%台が多い。ただし、これは自動車保有を前提としない生活賃金の場合である。自動車保有に伴う費用を勘案した場合には、最低賃金による生活賃金のカバー率が70%以下に落ちる都道府県が多い。都市圏に比べると地方圏では、自家用車は生活必需品としての側面がより強いため、最低賃金で基本的な生活水準を維持するのは非常に困難ということになろう。
最低賃金÷生活賃金
生活賃金の視点からみた社会課題がどれほど重要かは、生活賃金未満の労働所得で生計を余儀なくされている世帯数の多寡に依存する。各世帯に必要な生計費は、世帯の構成員数によって変わるので、それに応じて生活賃金の水準も異なる。下図に、単身世帯と3人世帯の年収分布と生活賃金(年収換算ベース)の水準を示した。生活賃金は、自動車保有の有無で2パターンを示している。

単身世帯をみると、少なくとも4割の世帯が生活賃金未満の所得で生計を立てている。3人世帯でも、少なくとも2~3割の世帯が生活賃金未満の所得での生計を余儀なくされている――図は省略するが、2人世帯や4人世帯も同様の結果――。

なお、詳細は省略するが、賃金構造基本統計調査をみると、生活賃金未満で働く労働者は、雇用形態別では正規雇用者よりも非正規雇用者において、企業規模別では大企業よりも中小企業において多い。
単身世帯の年収分布/3人世帯の年収分布

3―― ESGの視点とシステムレベル・リスク 

3―― ESGの視点とシステムレベル・リスク 

日本において、これだけ多くの労働者が生活賃金未満で生計を立てていることは、企業や投資家にとって何を意味するだろうか。

企業にとってみると、非正規雇用の増加などによって賃金コストを抑制することは短期的な利益につながる。しかし、生活賃金未満で従業員を働かせ続けることは、従業員とその家族の生活の質(well-being)の改善支援に消極的であるとステークホルダーから受け止められる可能性がある。サステナビリティ経営を謳いながら、持続可能な労働環境の提供に消極的であるという、「サステナビリティ・ウォッシング」の評判リスクに晒されかねない。また、生活賃金未満の雇用契約では、高い離職率による人手不足に加え、従業員のモラルや労働生産性の低下から、企業価値を長期的に毀損する可能性があることが多くの分析で示されている。これらは重大なESGリスクである。

そして、この問題は企業単体の問題にとどまらない。多くの企業が他社と比較した相対的な収益水準に重きを置けば、囚人のジレンマに陥り、互いに賃金コストを抑制し続け、経済全体に負の外部性を撒き散らすことになる。所得不平等の拡大に伴う、低所得者層の社会への不満拡大など社会の不安定化に加え、経済全体の生産性(GDP)を下押しすることになる。つまり、生活賃金の問題は、サステナビリティに関連する重大なシステムレベル・リスクといえる。日本に関していえば、全雇用者の約4割を非正規雇用者に依存している労働システムそのものが、システムレベル・リスクを抱え込んでいるとみることもできる。単一の企業、セクター、地域よりも大きな規模で生活賃金の問題が拡がっているため、投資家は、分散投資を行っても、同問題が投資ポートフォリオに与える影響やリスクをヘッジしたり軽減したりすることは困難である。気候変動の影響も、生活賃金の問題も、システムレベル・リスクという点で同じである。年金基金や生命保険会社などの機関投資家にとっては、投資リターンの長期パフォーマンスの低下につながり得る重大なリスクである。

(2024年11月05日「基礎研レポート」)

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