2024年06月20日

物価安定とSDGs、中央銀行が抱える新たな二律背反

日本生命保険相互会社 執行役員/PRI(国連責任投資原則)理事 木村 武

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5―― 石油ショックより手ごわいSDGsショック

では、中央銀行は、こうしたSDGs達成に起因したコストプッシュ・ショック(以下、SDGsショック)にどう対応すべきだろうか。SDGsショックは、1970年代の石油ショックのような伝統的なコストプッシュ・ショックとは、3つの点で異なることに留意が必要である。

第一に、SDGsショックは一過性のものではない。前節で述べた通り、少なくとも2030年にかけて持続し、かつ、規模はより拡大すると見込まれる。SDGsショックに起因したインフレーションは、既に全世界で広く発生しており、今後さらにインフレ圧力が高まると認識すべきである。米国のインフレ圧力が市場やFRBの予想以上に強い背景には、SDGsショックが影響しているのではないだろうか。

第二に、SDGsショックは、プラスの需要ショックを伴う。1970年代の石油ショックは日本のような原油の輸入国に対して、実質購買力の低下というマイナスの需要ショックを同時に発生させ、景気悪化をもたらした。しかし、SDGs達成の場合、企業は(ネットゼロへのトランジションなどのために)設備投資が必要になり、プラスの需要ショックが発生する。これは景気を浮揚させ、更なるインフレ圧力として作用する。

第三に、SDGsショックは、社会にとって外生的なショックではなく、国民・社会のサステナビリティーに対する選好の内生的かつ構造的変化によるものである。この点は、中央銀行の金融政策運営の在り方に大きな変更を迫る要因になり得る。中央銀行の目的関数は、経済厚生損失の最小化(国民の効用の最大化)として定められ、理論的には、物価安定とGDP(国内総生産)ギャップの安定の加重平均によって近似される。ただし、伝統的な金融政策理論はSDGsを考慮していないことに留意が必要である。SDGsに貢献する企業と貢献しない企業とでは、財・サービスに対する消費者の需要(選好)は異なるが、そうした点をこれまでの金融政策理論は考慮していない。

6―― 物価安定とSDGs達成、二正面の難路

6―― 物価安定とSDGs達成、二正面の難路

中央銀行が国民のサステナビリティー選好の変化にどう対応すべきか(すなわち、SDGs達成をどう支援するか)は、今後重要な政策課題になろう。物価の安定を通して、SDGsの達成に貢献するという論法は必ずしも通用しない。なぜなら、SDGsの達成自体がインフレ圧力を生むのだから、そのインフレ圧力を抑制することは、SDGsの達成に反する。

よって、中央銀行は、物価安定とSDGs達成の間のトレードオフに直面することになる。物価安定を重視すれば、SDGsショックに対して、自然利子率以上に実質金利を引き上げて対応する必要があるが、これは企業活動を抑制することになる。例えば、SDGsの達成に必要な設備投資が削減され、企業による外部不経済の内部化も抑制される。外部不経済の内部化によるインフレ圧力に対して、中央銀行が金融を引き締めればSDGsは達成されず、文字どおり国民経済の持続的発展が損なわれる。

もちろん、国民・社会がSDGsの達成を望んでいても、賃金があがらずに物価だけが上昇するのであれば、そうした帰結は国民にとって受け入れがたいであろう。そもそも、国民の購買力が改善しないまま物価だけ上昇したのでは、サステナビリティーに配慮した(価格面で割高な)財やサービスの消費は増加せず、結果としてSDGsは達成されない。しかし、今、社会や資本市場が目指している姿は、株主利益重視から様々なステークホルダーの便益総和重視の流れの中で、賃金上昇や労働分配率の改善が実現し、SDGsが達成されるということである。

「今日」の物価安定を過度に重視しSDGsの達成が遅れれば、自然資本など非財務資本の毀損から、将来制御不能なインフレに見舞われるリスクがある。SDGs達成というチャネルを通して、中央銀行は「今日」の物価安定と「将来」の物価安定の間の異時点間トレードオフに直面していると言い換えることもできよう。ステークホルダー資本主義への移行過程で、中央銀行がインフレ圧力にどう対応すべきは難しい課題である。

7―― 新たなマインドセットを

7―― 新たなマインドセットを

伝統的な経済学の教科書では、企業の外部不経済に伴う市場の失敗への対処は、政府の役割となっているが、政府の対応だけでは限界がある。今や、民間投資家が企業とともに外部不経済への対応に動きだしている。

SDGsが未達成に終わり、環境・社会の持続可能性が損なわれれば、全ての企業の事業基盤が毀損し、金融システムの不安定化と制御不能なインフレを招くことになる。中央銀行が政策運営において、SDGsの達成を考慮することは、国民・社会の要望に沿うものであり、資源配分の中立性の点で問題を引き起こすこともない。

中央銀行にも相応の役割が期待される。資本主義の変化にあわせて、中央銀行が新たなマインドセットをもつことを期待したい。

木村武(きむら・たけし)日本生命保険執行役員、PRI(国連責任投資原則)理事。1989年に日本銀行入行。米国連邦準備制度理事会(FRB)金融政策局への出向を経て、企画局政策調査課長、松江支店長、金融機構局審議役、決済機構局長を歴任。この間、FSB/AGV(金融安定理事会、脆弱性分析グループ)やBIS/CPMI(国際決済銀行、決済・市場インフラ委員会)のメンバーとして活動。2020年に日本生命保険入社、21年にPRI理事に就任(23年末に再任)。工学博士、経済学修士。
 
 

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(2024年06月20日「基礎研レポート」)

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