2024年06月20日

物価安定とSDGs、中央銀行が抱える新たな二律背反

日本生命保険相互会社 執行役員/PRI(国連責任投資原則)理事 木村 武

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1―― 事業基盤脅かすシステムレベル・リスク

ステークホルダー資本主義のもとで、機関投資家や企業の行動が変わり、実体経済においてはインフレ圧力となってその影響がではじめている。これに中央銀行はどう対応すべきだろうか。考えてみたい。

最初に、近年における資本市場のトレンドの変化を整理しておこう。今後の中銀の政策対応を考えるうえで、重要な出発点になる。

環境や社会の持続可能性は、世界中全ての企業の事業基盤を支えるものであり、それが損なわれれば(すなわち、SDGsが未達成に終われば)、世界規模で市場リターンが悪化する。そうなれば、機関投資家は受託者責任を果たすことができなくなる。いくら分散投資をしても、あらゆる企業の事業基盤を脅かす地球温暖化の進行や生物多様性の喪失などシステムレベル・リスクが発生すれば、その影響は免れない。

年金基金や保険会社は、マーケット全体を薄くスライスしたようなポートフォリオ構造を持つユニバーサル・オーナーであり、投資リターンの長期変動は、(ベンチマーク対比の)超過収益「α」よりも市場リターン「β」によってかなりの部分が説明できる。このため、近年、ユニバーサル・オーナーは、αの追求よりもβの安定・底上げを重視する投資アプローチに関心を持つようになっている。「システムレベル投資」とか、「サステナビリティー・インパクトのための投資」など、業界での呼び名は複数あるが、共通しているのは、システムレベル・リスクへの対応である。

投資アプローチを評価するうえで、個別リスク(idiosyncratic risk)とシステムレベル・リスクの違いは重要である。ESG投資手法の一つであるネガティブ・スクリーニングは、システムレベル・リスクへの対応ではなく、個別(企業の)リスクを考慮したものである。ESGリスクの観点で、高リスクの企業をポートフォリオから除外しただけでは、システムレベル・リスクを考慮したことにはならない。なぜなら、除外された企業が外部不経済を出し続ければ、他企業のパフォーマンスにも悪影響を及ぼすからである。ESGリスクの低い優良銘柄の企業の投資パフォーマンスにもいずれ影響が及び、市場リターン全体も沈むことになる。

個別リスク管理を重視したESG投資ではSDGsは達成されない。機関投資家が受託者責任を果たすには、システムレベル・リスクへの対応(様々なステークホルダーへの影響を考慮した投資アプローチ)が不可欠になっている。

2―― 金融のノルムの変化

2―― 金融のノルムの変化

投資家がシステムレベル・リスクの抑制のために行動するというのは、金融のノルム(社会通念)を変える大きな挑戦である。伝統的な教科書である「現代ポートフォリオ理論」は、市場全体のリターンβをいわば「神から与えられた」外生変数として扱い、分散投資によってリスク・リターンのプロファイルを改善することを目指す。システムレベル・リスクに左右される市場全体のリターンβに投資家が影響を与えることを、伝統的な教科書は想定していない。

しかし、今、機関投資家は、現代ポートフォリオ理論の前提を変えようとしている。システムレベル・リスクを抑制し、市場リターンβの安定化のために行動しようとしている。英国のスチュワードシップコード(機関投資家の行動指針)は、システムレベル・リスクへの対応を機関投資家に促している。PRI(国連責任投資原則)は、システムレベル・リスク抑制のためのスチュワードシップ活動である「Active Ownership2.0」のガイドラインを作成し、投資家間の協働エンゲージメントも広がっている。投資家は企業のネットゼロ実現に向けた移行計画の策定を促し、サステナビリティー・アウトカム達成に向けたマイルストーン管理を進めている。

長い間、システムレベル・リスクへの対応や金融システムの安定は、規制当局や中央銀行の専管事項と考えられてきたが、ステークホルダー資本主義のもとで民間部門自らが金融システム安定のために行動し始めている。

もちろん、機関投資家は自分勝手にSDGs達成やシステムレベル・リスクに対応しているのではない。受益者や顧客(広く言えば国民)の最善利益のために動いている。中央銀行や監督当局は、金融システム安定のために、資本市場とどう歩調をあわせていくべきか考える必要がある。金融安定理事会(FSB)は、機関投資家(ノンバンクセクター)の構造的脆弱性ばかりに焦点を当てる傾向があるが、機関投資家が果たす金融システム安定の役割にも注目してほしい。

そして、こうした資本市場の変化に関連して、中央銀行がより注視すべきポイントは、ステークホルダー資本主義のもとで発生するインフレ圧力である。

3―― 外部不経済の内部化に伴うコストプッシュ・ショック

3―― 外部不経済の内部化に伴うコストプッシュ・ショック

脱炭素化を目指す動き「グリーン」と価格上昇を指す「インフレーション」をかけ合わせた造語である「グリーンフレーション」という言葉が広く知られるようになった。化石燃料への投資が抑制される中、相対的に環境負荷の少ない天然ガスへの需要が高まりエネルギー価格が上昇したほか、再生可能エネルギーの供給に必要な銅やリチウムなど様々な金属・商品価格も上昇した。

脱炭素化が引き起こすコストプッシュ・ショックは様々なところに広がっている。ネットゼロへの「公正な移行(just transition)」は、労働者の配置転換やリスキリングための費用などコストプッシュ・ショックの発生要因になる。公正さを欠けば摩擦コストが発生する。2023年秋の全米自動車労働組合(UAW)のストライキは、ガソリン車からEV車への生産シフトに対する組合側の反発が背景にあった。

こうした脱炭素化がもたらすコストプッシュは、企業が外部不経済の内部化を進める過程で発生したものである。企業におけるサステナビリティー経営の浸透は、脱炭素化以外にも様々な面で、外部不経済の内部化につながっている。例えば、企業がこれまで外部不経済をまき散らすことで入手できた安価な労働力や原材料は、サプライチェーンにおける人権問題の改善や(EUの森林破壊防止規則にみられるような)森林破壊フリーの動きによって、調達が困難になっている。新たな鉱山の開発も、環境や地域住民への配慮や鉱山労働者の人権問題の懸念から、プロジェクト開発の長期化が常態化している。欧州サステナビリティー報告基準(ESRS)は、適正賃金などの労働条件や人的資本投資(研修・スキル開発)、人権に関して、自社の労働者のほかバリューチェーンの労働者に関する情報開示を求めている。

企業経営のサステナビリティーを高めるには、自然資本や人権・人的資本などの非財務資本の維持・保全・増強が必要であり、それには相応のコストがかかる。そのコストは少なからず市場価格に転嫁される。例えば、温室効果ガス排出によって自然資本の毀損につながるガソリン車に比べ、自然資本の毀損度が少ない電気自動車(EV)は、購入価格が一般に高い。航空業界は、コスト高の再生航空燃料(SAF)を利用したカーボンオフセットを希望する乗客に対し、グリーン運賃を提供し始めている。消費者がプレミアムを支払い、「飛び恥」をオフセットするということだ。自然資本以外の面でも、人権への配慮や人的資本への投資にかかる費用(賃上げや研修コスト等)はじわじわと製品・サービス価格に転嫁されていく。

4―― SDGs達成に向けた機関投資家の行動

4―― SDGs達成に向けた機関投資家の行動

こうした外部不経済の内部化に伴うコストプッシュ・ショックは、SDGs達成に向けて今後、より広がっていくものと考えられる。

SDGsが2030年までに達成すべきグローバル目標として国連総会で採択されたのは15年。23年はちょうど折り返し地点だったが、SDGs達成の中間ラップをみると、30年の目標達成に向けて順調に進んでいるターゲットは、(17の目標に基づく169のターゲットのうち)2割に満たず、8割強のターゲットはほとんど進捗していないか、目標からむしろ遠のいている状況である(図1)。
図1.SDGsの2030年達成に向けた進捗状況
このため、30年の目標達成を目指すとなると、これから残り7年間で、グローバル社会は相当なペースで行動を加速させていかなければならない(図2)。

この点に関連して、機関投資家向けのアンケート(22年調査)によると、投資先企業のネガティブ・インパクト(外部不経済)について、積極的に管理や低減を行っている投資家は、世界全体でまだ半数にとどまっている日本の投資家に限って言えば2割に満たない
図2.SDGインデックス世界平均 パンデミック前のトレンドと2030年までにSDGsを達成するためのトレンド
しかし、機関投資家は、今後、SDGs達成に向けてギアをあげていくとみられる。実際、PRIの署名投資家向けアンケートではその方向性が明確に確認できる(図3)。企業のポジティブ・インパクトの創出はもちろん、ネガティブ・インパクトの削減に向けて、投資家は企業への働きかけを強めていくことが見込まれる。すなわち、資本市場におけるシステムレベル・リスクへの対応である。

投資家は、エンゲージメントや議決権行使を通して、企業がもたらすネガティブ・インパクト(外部不経済)への対応を一層促していくであろう。その過程において、コストプッシュ・ショック(外部不経済の内部化)の規模と影響は今後より広まっていこう。
図3.PRIによる署名機関向けアンケート

(2024年06月20日「基礎研レポート」)

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