2022年10月14日

データからナラティブへ-非財務情報の開示のあり方を巡って

氷見野 良三

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4――人的資本に関する開示

さて、おととしの8月に米SECが行ったレギュレーションS-Kの改正では、人的資本についての開示義務が導入された。

日本でも、昨年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードで、上場会社は、人的資本などへの投資について情報を開示・提供すべきである、とされた。

さらに、金融庁の金融審議会が今年の6月に出した報告書では、有価証券報告書において、「人材育成方針」や「社内環境整備方針」を、サステナビリティ情報の「記載欄」の「戦略」の開示項目とするよう提言されている。

人的資本に関する開示は、サステナビリティ情報の一環と捉えられているが、これを単にESGのSだ、と受け止めるのでは狭すぎるのではないかと思う。人的資本に関する開示は、経営戦略についてのナラティブの根幹をなす要素の一つではないか。

先ほど、金融庁が行う検査・監督は、一つひとつの事柄をチェックするだけではなくて、データとナラティブの間の往復運動を繰り返す方向に変わってきている、といった趣旨のことを述べた。

しかし、金融庁に勤めていた際に、金融行政はこんなに変わってきている、更に今後こう変わっていく、形式から実質へ、過去から未来へ、部分から全体へと視野を広げていくのだ、という話をしても、何かまた新しいスローガンを作って仕事をしたつもりになっているようだが、現場の実態は何も変わらないだろうし、スローガンだって長官が代わればどうせまた何か別のことを言いだすのだろう、という感じで、話半分にしか受け止めてもらえないことも多かったように思う。

しかし、金融庁の働き方改革、マネジメント改革、職員の主体性・自発性の発揮に向けた改革の具体的な例を幾つも話して、また、職員の構成がどんなに変わっているかについても数字を挙げて話し、行政の考え方・進め方の改革に合わせて、組織としての金融庁自身の改革もやっているんだ、と申し上げると、(もしかしたら本気かな)という風に受け止めてもらえる場合があったように思う。

この経験をそのまま企業経営に当てはめて考えていいかどうかはわからないが、伝統的な企業文化のままで、デジタル・トランスフォメーションとか、グローバルとか、イノベーションとか言っても、ストーリーが完結しない場合もあるのではないか。

経営戦略についてのナラティブがクレディブルなものとなるかどうかは、人的資本面での戦略にどれだけ具体的なファクトを示せるかにかかっている、そういう場合もあるのではないかと思う。

5――サステナビリティ開示

5――サステナビリティ開示

さて、より広くサステナビリティ開示一般については、昨年の6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードで、自社のサステナビリティについての取組みを適切に開示すべきである、とされた。

また、金融庁の金融審議会が今年の6月に出した報告書では、有価証券報告書にサステナビリティ情報の記載欄を新設するよう提言されている。

サステナビリティ開示は、企業への影響の開示なのか、世間への影響の開示なのか、という議論もあるが、この点について、国際サステナビリティ基準審議会ISSBが本年3月に公表した「全般的な要求事項」の公開草案では、「サステナビリティ開示で提供される情報は、サステナビリティに関連するリスクと機会が企業価値に与える影響の評価を可能にするものである必要がある」(企業への影響に相当)、そして、「仮に企業価値の評価に影響を与える場合、必要とされる情報には、企業が人、環境、地球に与える影響が含まれる」(世間への影響に相当)、とされている。

日本的経営の理念といわれる「三方良し」の考え方でいえば、サステナビリティ開示は「世間に良し」の部分に着目した開示ということができるだろう。三方良しの「売り手によし」は、今の言葉でいえば、高い収益力にあたるだろうし、「買い手によし」は、顧客との共通価値の創造だろう。「世間によし」は、SDGsの追求にあたるのではないか。

3年前にアメリカのビジネス・ラウンドテーブルがステークホルダー資本主義ということを言いだしたら、日本では、「彼らもようやく株主資本主義の限界に気付いて、われわれの三方良しに追い着いてきたか」といった論調も見られた。「アメリカは株主資本主義で売り手によしだけ考えていたが、ようやく買い手によしや世間に良しも考えるようになった」という受け止め方だ。

しかし、米国でも昔から米国なりの「買い手に良し」があったと思う。

30年前にアメリカのビジネススクールに留学した際、株主資本主義風のテクニックをいろいろ教えるのかなと想像していたら、授業に出てみると、マーケティングはもとより、生産工程、財務、人事管理、どの科目でもカスタマー・ファーストを徹底して教えられるのに驚いた。

単なる説教ではなくて、ケーススタディについて討論をするのだが、90分議論していると、目の覚めるような戦略を発言する同級生が何人か出てきて、その彼ら、彼女たちの案というのが、だいたいカスタマーから議論が始まっていた。

なんでアメリカ資本主義の総本山で毎日カスタマー・ファーストの話なのか、と最初は疑問に思ったが、結局、お金を儲けさせてくれるのはカスタマーしかいないのだから、道徳でもなんでもなくて、徹底して儲けるためには徹底してカスタマーを研究して、社内の都合だのなんだのよりカスタマーを徹底して優先するしかない、という話らしい、という風に理解した。それがアメリカ式の「買い手に良し」なのだろうと思う。

「世間に良し」についても、私は金融規制の世界で長年彼らが国際ルールの形成を巡って戦う姿勢の徹底ぶりを見てきた。何が「世間によし」の定義づけなのかを、弁護士やエコノミストやロビイストのリソースを大量に投入して、理屈を徹底して考えて、政府に余り頼らず、理念づくりコンセプト作りからナラティブ作りまで自分たちでやる。
例えば、WTOで大きな枠組みになった「サービス貿易」という概念は、アメリカン・エクスプレス社が作って普及させたものであることはよく知られているところだ。アメリカン・エクスプレス社は、自由貿易の理念の意味合いを拡張することに成功したわけだ。

最近では、ウェブ2.0からウェブ3へというナラティブがあるが、「GAFAから自由で分権的な新しい社会」という理念を盛り込みつつ、「どこの国の規制も及びにくいビジネス空間を作り出していく」という面があるように思う。こうした方向をどう受け止めるかにはいろいろ考え方はあるだろうが、やはりその手際には天晴れなものがあると思う。

土俵づくり・ルールづくり・なにが世間にとっていいことなのかの定義づけも含めてビジネスの勝負だと考えて、自分たちが存分に競争できるための必要条件の整備として「世間に良し」を進めているのではないか。

これは、先ほど述べたISSBの言葉でいえば、「サステナビリティに関連するリスクと機会が企業価値に与える影響」を戦略的に考えた「世間に良し」だともいえるだろう。
国際サステナビリティ基準審議会ISSBで、サステナビリティ開示の国際ルール作りが猛烈なスピードで進んでいる。バーゼルIIIなど金融規制を作る場に日本から出るのは金融庁や日銀だが、ISSBに参加するのは民間の代表だ。

「世間に良し」を巡る厳しい戦いに、産業界を挙げて取り組んでいかなければならない時代になったということではないか。

6――おわりに

6――おわりに

2018年に公表された金融審議会の報告書では、こう述べられている。

「財務情報及び記述情報の開示は、投資家による適切な投資判断を可能とし、投資家と企業の建設的な対話を促進することにより、企業の経営の質を高め、企業が持続的に企業価値を向上させる観点から重要である。」

これは、開示をすれば自動的にそうなる、ということではなくて、そうなるような開示を工夫していかなければならない、という意味だろう。非財務情報開示に関する実務が、単なるコンプライアンスとしてではなく、攻めの創意工夫を伴って発展していくことを願いたい。
 
 

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(2022年10月14日「基礎研レポート」)

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