2019年10月21日

EUは署名なき英首相の離脱延期要請にどう応えるか?-修正離脱協定から読めること-

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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首相の協定案採決を阻んだ超党派の修正動議。狙いは「合意なき離脱」阻止

英国のジョンソン首相は、10月17日のEU首脳会議で、アイルランド国境の開放を維持するための安全策を削除した「修正離脱協定案」の承認を取り付けた。

しかし、19日の英国議会下院での採決は、元保守党のレトウィン議員の「離脱関連法の成立まで協定案の採決を保留する」修正動議が賛成322対反対306で可決したことによって阻まれた。

協定案の採決を保留する修正動議(「レトウィン修正案」)の意図は「修正離脱協定案」が承認されても、10月31日の離脱期限までに関連法の法制化が間に合わず「合意なき離脱」となることを阻止することにある。

ジョンソン首相の「修正離脱協定案」への賛否を問うものではなく、協定案に基づく期限通りの離脱の可能性を排除するものではない。
 

背景には根強い首相の手法への不信感も

背景には根強い首相の手法への不信感も

「レトウィン修正案」は、(1)野党を中心とする「修正離脱協定案」そのものへの反対、(2)通常の法制化の手続きに従えば、期限内の離脱関連法の成立は時間的に困難と見られることへの不安、(3)さらに協定案に賛成した保守党内の強硬派が、法制化の段階で阻止に回り、意図的に「合意なき離脱」を引き起こすなどの懸念も加わり、賛成多数となった(表紙図表参照)。

「離脱撤回」を望む自由民主党(LDP)、スコットランド民族党(SNP)とともにウェールズ党プライド・カムリ、さらにこれまでジョンソン政権に閣外協力してきたアイルランドの地域政党DUPも全議員が(1)の理由から賛成票を投じた。

最大野党・労働党からは6人が反対票を投じたが、圧倒的多数が賛成した。新離脱協定案は改悪であり、関税同盟残留など将来関係の修正や、信認のための国民投票などの修正を加えるべきという(1)の立場からだ。

与党・保守党からの賛成者はなかったものの、9月9日に成立した「期限延期法(ベン法)」の支持に回り保守党を除名されたハモンド前財務相、ゴーク元法務相、ジョンソン政権の閣僚を辞任したラッド前雇用・年金相など元保守党の独立は議員は賛成した。動議を提出したレトウィン議員自身も含めて、(2)ないし(3)が理由と考えられる。

合意なき離脱のリスクを封じ込める最有力の手段は16年の国民投票の結果を尊重する立場を採る場合には離脱協定の法制化を急ぐことだ。法制化の勢いを削ぎかねない修正動議がまず可決されたことは、それだけジョンソン首相の手法に対する不信感が根強いことを示唆するように思われる。
 

首相はあくまでも10月31日離脱を目指す構え 

首相はあくまでも10月31日離脱を目指す構え 

修正動議の可決によって、ジョンソン首相には9月9日に成立した「期限延期法(通称「ベン法」)」に従い、20年1月31日まで離脱期限延期を要請する義務が生じた。ジョンソン首相は、19日夜、トゥスクEU首脳会議常任議長宛に書簡を送付した。1通は、「延期法」で定められた書式のコピーで署名はせず、2通目は署名入りの書簡で「来週初に法制化の手続きを開始し、期限までに完了する」との見通しと、「さらなる延期は利益と信頼関係を損なう」など自らの見解を示した。

ジョンソン首相は、9月3日の夏季休会明けの議会召集前に長期閉会という「奇策」を繰り出し、後に最高裁判所から違法という判決を受けている。今回は、「期限延期法」に従いはしたものの、本意ではないことを強調するという「奇策」に出た。当然のことながら、議会からの反発を招いている。
図表1 19年9月議会召集後の動き

総選挙を意識した首相の強硬姿勢

総選挙を意識した首相の強硬姿勢

ジョンソン首相の最大の目標は次の総選挙での勝利にあると見れば、首相が期限通りの離脱実現のために突き進む理由が理解できる。

現在、下院では、与党保守党の議席は造反議員の除名も響き、過半数を大きく割り込んでいる。閣外協力してきたDUPも、ジョンソン首相の「修正離脱協定案」に盛り込まれたアイルランド国境の開放を維持する「新たな枠組み(後述)」に強く反発、関係が悪化している。9月4日、9日の2度にわたり阻止された下院の3分の2を必要とする自主解散に踏み切るのか、単純過半数で決まる不信任案の可決となるのか、EU離脱前か後か、道筋やタイミングは流動的ながら、近い将来の総選挙が避けられないことは確かだ。

保守党の支持者は、期限の延期よりも合意なき離脱を支持する割合が高い。離脱撤回を望む有権者の受け皿となっているLDPや、残留ないしソフト離脱を支持する割合が高い労働党の支持者がジョンソン首相を支持することはいずれにせよ考え難い。期限通りの離脱に2度失敗して支持離れを招き、「合意なき離脱」を掲げるナイジェル・ファラージ氏率いる「離脱党」を勢いづかせたメイ前首相の轍を踏まないためにも、期限通りに合意を実現することが重要になる。

世論調査を見る限り、ジョンソン首相の強硬姿勢は「離脱党」に流れた支持を取り戻すという面では効果を発揮している(図表2)。
図表2 政党支持率

「合意なき離脱」リスク回避により重要なEUの対応。

「合意なき離脱」リスク回避により重要なEUの対応。原則を厳格に適用なら延期拒否も

10月31日の「合意なき離脱」リスクの回避という点では、英国議会での離脱関連法の法制化の行方とともに、EU27カ国が英首相の延期要請にどう応えるかが重要になってくる。

EUがこれまで示してきた原則を厳格に適用する場合、「期限の延期は認められない」はずだ。少なくとも、現時点では、再々延期を認める場合の条件としてきた、総選挙や再国民投票を前提する延期要請とはなっていない。
 

レッド・ラインを修正したジョンソン首相との「修正離脱協定」で見せたEUの柔軟さ

レッド・ラインを修正したジョンソン首相との「修正離脱協定」で見せたEUの柔軟さ

しかし、ジョンソン首相と「修正離脱協定」で合意した事実は、EUが必ずしも原則一辺倒ではなく、英国内の政治情勢に配慮する「柔軟さ」を有していることを示す。

「修正離脱協定」での譲歩の度合いは英国の方が大きかったが、英国側の「レッド・ライン(譲れない一線)」のを見直しに応じて、EUも譲歩した。

英国は、「単一市場・関税同盟離脱」、「アイルランド国境の開放維持」、「英国の一体性確保」の3つのバランスをいかにとるかで苦心してきた(図表3)。EUは、当初、「アイルランド国境の開放維持」する方策が移行期間終了時までに見つからない場合に発動される「安全策」として、北アイルランドのみの「単一市場・関税同盟離脱」を提案したが、メイ前首相は「英国の一体性確保」の観点から拒否。結局、「北アイルランドは単一市場と規制の調和」を図り、「関税同盟には英国全土残留」を「安全策」とすることで合意した。「単一市場・関税同盟離脱」を部分的に犠牲にする判断だった。「安全策」は、あくまでも時限的な措置だが、保守党の強硬派34人は「安全策から英国が一方的に離脱する権利がないため、恒久化しかねない」こと、DUPは規制の調和で「英国の一体性が損なわれかねない」ことを懸念して、3度目のメイ前首相の離脱協定の採決でも反対票を投じた。
図表3 英国のEU離脱のトリレンマ
ジョンソン首相の「修正離脱協定」では、問題の「安全策」は削除され、新たな枠組み(図表4)で合意した内容は「英国の一体性確保」を犠牲にする部分があることは否めない。北アイルランドは英国の関税区域であり、「関税同盟」に残留する訳ではない。しかし、事実上の関税上の境界がアイランド海に引かれるためだ。DUPが強く反発する理由はこの点にある。また、英国を構成する4カ国で北アイルランドとともに残留を支持したスコットランドから見れば、北アイルランドが「経済特区」的な地位を得ることに対して、不公平感が募る内容でもある。
図表4 「修正離脱協定」で合意したアイルランド国境の開放を維持するための枠組み

は再交渉はしないはずの離脱協定の修正、認めないはずの検査・関税徴収の代行、枠組み停止

再交渉はしないはずの離脱協定の修正、認めないはずの検査・関税徴収の代行、枠組み停止

EUは、こうした英国側の「レッド・ライン」の見直しに応じて、そもそも「再交渉しない」と繰り返してきた離脱協定の修正に応じた。

そして、新たな枠組みの内容にも、EUの譲歩が見られる。例えば、北アイルランドを経由して「EU圏内に流入するリスク」がある物品の検査・関税の徴収は、アイルランド島外、つまりグレート・ブリテン島内で、英国当局が実施することを認めたことだ。アイルランド島内で検査を行わないことはEU側の条件だ。しかし、英国当局による実施を認める点については、徴収した関税は、差額分を企業に払い戻すため、英国がEUの「代行徴収」を行う訳ではないにせよ「検査や関税徴収を第3国に認めない」という立場を軟化させたように見える。

さらに枠組みの継続についての北アイルランド議会の同意メカニズムについても、EUは譲歩した。ジョンソン首相が提案に盛り込んだ「英国の一体性を重視するユニオニスト(=DUP)による拒否権」こそ認めなかったが、議会が枠組みの継続を拒否した場合、2年後の適用停止を認めた。国境の開放維持への「保険」にこだわる姿勢を修正したように思われる。
 

EUも「合意なき離脱」を回避したい、責任を負いたくない

EUも「合意なき離脱」を回避したい、責任を負いたくない

EUは、ジョンソン首相との「修正離脱協定」の協議で柔軟さを見せた。北アイルランドの特殊事情に配慮したという側面もあるが、同時に、EUも「合意なき離脱」は回避したいし、まして、その責任を負いたくないという思いが働いたと思われる。

国民投票から3年4ヶ月が経過し、英国内でも「離脱疲れ」は深刻だが、EUも英国が「離脱する加盟国」として留まり続けることを望んでいない。欧州委員会の新体制発足、21年度からの新たな予算枠組みの作りが大詰めを迎える状況でもある。

EUから見れば、英国が「合意あり離脱」できる環境を作ることが、「合意なき離脱」のリスクをヘッジすることになる。
 

英国議会では「修正離脱協定」の承認も、信認のための国民投票の動議の可決もあり得る

英国議会では「修正離脱協定」の承認も、信認のための国民投票の動議の可決もあり得る

離脱期限に向けて、英国議会での攻防が激しさを増し、様々な展開が想定しうる状況だ。

「修正離脱協定」の採決は、国民投票で示された民意は尊重すべきとの立場を採る離党した元保守党議員や一部の労働党議員が賛成にまわることで、承認される可能性も出てきている。

他方、野党の間では、離脱案への信認投票として国民投票を実施することを求める動議や、EUの関税同盟に残留することを求める動議を提出する動きも出ている。「修正離脱協定」による離脱を阻止したいDUPが、国民投票動議に賛同する可能性も取り沙汰されている。野党共闘が実現すれば、修正動議可決の可能性も出てくる。
 

EUは複数の選択肢を準備しつつ英国議会の動向を見守る

EUは複数の選択肢を準備しつつ英国議会の動向を見守る

EUは期限内の「合意あり離脱」を望む姿勢を保ちつつ、離脱協定の法制化に必要な数週間程度の短期の延期から、総選挙、国民投票となった場合の数ヶ月の延期など複数の選択肢を準備して、英国議会の動向を見守るものと思われる。
 
 

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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

(2019年10月21日「Weekly エコノミスト・レター」)

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