コラム
2019年07月02日

健康オタクとしての徳川家康

保険研究部  常務取締役 研究理事 兼 ヘルスケアリサーチセンター長   松澤 登

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筆者は平成2年から東京勤務となり、10年以上、東京都杉並区の今川町というところに住んでいた。この今川町というのは、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の子孫が、江戸時代になって徳川幕府から土地を与えられ知行したところで、町名に今川の名前が冠されている。その後、筆者は山梨県甲府市に転勤となり、屋形町というところに住むこととなった。屋形というのは、格式のある守護大名等に用いられた尊称で、武田家の当主がお屋形様と呼ばれたことにちなんでおり、すぐそばに武田家の住居であった武田神社(躑躅ヶ崎(つつじがさき)館跡)があった。今川義元を継いだ今川氏真を駿河の国から追放した武田信玄の居所のそばに、今川町から転居するという奇縁を感じたものだが、武田家も信玄の子の武田(諏訪)勝頼の代に織田・徳川連合軍に破れ、滅亡する。以降、曲折は経るものの甲斐の国は徳川の領地となり、徳川幕府の西の押さえとして明治維新まで続く。

さて、天下を取った徳川家康が健康オタクであったことはよく知られているところかと思う。暴飲暴食を避け、粗食を旨とし、今で言うセルフメディケーションの走りともいえるような、薬草の調合を自分で行ったりしている。特筆すべきは、鷹狩りを特に好んで行っていたことである。鷹狩りとは狩場を区切って鹿や猪などを追いたて、鷹に狩らせたり、矢で射たりする。残酷なようだが、軍事訓練としての意味も持つため、当時の武士団としては基本となるものだったのであろう。

家康は鷹狩りを、適度な運動をすることにより快適な生活をおくるという健康生活の基と考えていたとの説もある。健康オタクとしての本領発揮であろう。もちろん自分自身の健康だけではなく、家臣団にも健康的な生活を勧めたと思われる。

結果、家康は大阪の夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年、1616年に73歳で亡くなった。当時の平均寿命を考えると長命である。また、家康は鷹狩りの場で倒れ、病に伏したのが1616年の1月、死亡したのが同年4月であるから、健康寿命も長かったようだ。

豊臣秀吉が1598年に62歳で亡くなって、1600年に関が原の戦いが起こったことを考えると、秀吉が家康並みに長生きすれば子である豊臣秀頼が十分成長し、徳川幕府の成立はなかったかもしれない。

家康は狸親父とのイメージが強く、信長・秀吉・家康の三大天下人の中では人気がないようだが、健康経営の先駆者として、見直してみるのも良いかもしれない。
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保険研究部   常務取締役 研究理事 兼 ヘルスケアリサーチセンター長

松澤 登 (まつざわ のぼる)

研究・専門分野
保険業法・保険法|企業法務

(2019年07月02日「研究員の眼」)

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