2016年05月18日

近づく英国の国民投票-経済的コストへの警鐘が相次いでも落ちないEU離脱支持率

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

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3|離脱派の主張と試算結果のギャップ
各機関の試算と離脱派の主張はどの点で異なるのか。3つの論点を指摘したい。

1つはEU市場のアクセスが制限されることの英国経済のダメージに関する見方の違いだ。離脱派は、この点についてデータに基づく踏み込んだ議論を展開していないが、各機関の試算では、そろってEUの拠出金の節減効果を上回るという結果だった。

2つめは、EU市場への特権的なアクセスの確保とEUへの拠出やEUルールなどのコスト負担に関する見方の違いだ。離脱派は、離脱によってコスト負担から解放されることをベネフィットとして強調するが、現存する枠組み(図表17)を見る限り、EU市場に特権的なアクセスを確保しようとすれば、ある程度のコスト負担は避けられない。

確かに、離脱派が主張するように、大国である英国は、ノルウェーやスイスよりも有利な条件を得られる可能性はあるが、レベルの高い合意を目指せば、交渉に時間を要するだろう。EUが韓国やメキシコと結んだFTAでは交渉に4年を要し、スイスとの交渉には10年の時間を要した12。カナダとの包括的経済協定(CETA)は、14年に交渉開始から5年で合意に達したが、まだ、調印・批准には至っていない。EUの中核国であるフランスとドイツが17年に選挙を予定している政治的なサイクルや、英国に続く離脱を阻止する観点からも、内容を吟味する必要があることから、数年単位の時間を要することは間違いないだろう。

3つめは、英国とEU域外の相手国・地域との交渉に関する見方だ。離脱派の主張のように、EU加盟国としてよりも、英国単独の方が、国際社会での発言権が増し、EU域外国とより有利な協定を締結できるとは想定されていない13

米国はEUとTTIPを交渉中、日本はEPAを交渉中だが、ともに英国のEU残留を望み、貿易交渉では大市場優先の立場を明言している。オバマ大統領は今年4月の訪英時、「国民投票結果は米国にとっても重大な関心事」であり、「英国は強いEUを先導する助けをしている時が最善の状態」で「EU加盟国であることで英国の権限は強化されている」として、残留が英国の国益にかなうという見解を表明した。一連の発言の中でも、「米国の通商交渉は大市場を優先する。(離脱すれば)英国は最後列に並ぶことになる」とも発言、離脱派の楽観的主張を真っ向から否定した14

日本も、5月26~27日開催のG7サミットを前に英国を訪問した安倍首相が、5月5日の日英共同記者会見で、「英国がEUに残留」することが「日本から英国への投資にとって最善」であり離脱は「EUのゲートウェイ」としての英国の魅力を損なうと述べている。貿易交渉では「大きな貿易圏であるEUとの交渉を個別国より優先している」ことを明言した。

中国も、日米と同じ残留支持の立場だが、貿易交渉では異なったスタンスをとる可能性がある。15年10月に習近平主席が英国を訪問時、英中首脳会談で「中国は繁栄する欧州、団結するEUを希望する。英国がEUの重要な加盟国として中国とEUの関係深化により積極的で建設的な役割を果たすことを望む」と述べており、公式な立場は残留支持である。

但し、欧州でのFTAに関して、中国は、EUよりも先にEU域外国との締結に動いているため、離脱後の英国がEUよりも先行する可能性はある。しかし、中国と欧州諸国のFTA交渉を見ると、アイスランドの場合で発効まで7年、スイスの場合で5年、ノルウェーは9年経過してもまだ発効に至っていない。英国とのFTAに動くとしても、発効までに年単位の時間がかかると見るべきだろう。英国政府は、中国が提唱したアジアインフラ投資銀行(AIIB)への出資を逸早く表明、10月の習近平主席の訪英時には、複数の原子力発電所の建設計画に中国企業が参加することなどで合意するなど中国への傾斜が目立つ。中国経済は、一時期の勢いを失ったとはいえ、市場の規模と成長性では圧倒している。人民元の国際化もロンドンの国際金融センターとして魅力を高める上で取り入れていきたい思いは強いだろう。こうした背景から、中国との交渉では、英国側の譲歩が目立つという批判もあり、FTAが英国にとって有利な内容にまとまるかは不透明だ。EUから離脱することが、英国企業がフランスやドイツ企業などよりも中国市場へのアクセスで有利な条件を勝ち取ることができるのかどうかは未知数だ。
 
12 OECD(2016)による
13 CBI/PwCのFTAケースでは米国との貿易交渉の加速を想定している。
14 今年11月に予定される大統領選挙の候補者選びで共和党の指名獲得が確実になったトランプ氏はテレビインタニューで「移民の多くがEUにより押し出された」ことから「EUを離脱した方がずっと良いと思う」と述べている。

5――国民投票とEU

5――国民投票とEU

1|しばしばNOを突きつけられてきた欧州統合
EU加盟国の国民投票ではEUにしばしば「NO」が突きつけられてきた。記憶に新しいのは、昨年7月5日のギリシャの国民投票だろう。「EUの支援条件」の是非を問う国民投票で反対が61%、賛成が39%という結果だった。最近では、今年4月6日にオランダで行われた国民投票も、問いかけられたのは「EU・ウクライナ連合協定15」の批准決議への賛否だったが、EUに批判的な市民団体の呼びかけにより、EUへの信認投票という性格を帯び、結果は、反対64%、賛成36%に終わった。

より直接的に、EUの統合深化に「NO」が投じられたケースは、EUの基本条約の批准の是非を問う国民投票での否決だ。1992年のマーストリヒト条約ではデンマーク、2001年のニース条約ではアイルランド、2005年の欧州憲法条約ではフランスとオランダが否決したケースがある。ノルウェーがEU未加盟国であるのも、スイスがEEAに未参加であるのも、それぞれの国民投票の結果だ。

しかし、これまでの国民投票は、欧州の統合に重大な結果をもたらすことにはならなかった。デンマーク、アイルランドは、再投票によって、マーストリヒト条約、ニース条約をそれぞれ批准、欧州憲法条約はフランス、オランダの否決後、「憲法」という名称など抵抗の大きい文言などを修正してリスボン条約として全加盟国の批准、発効している。ギリシャは、国民投票の直後に、EUの条件を受け入れ支援プログラムに戻った。オランダの「EU・ウクライナ連合協定」は諮問的意味合いのもので、民意を反映すべく、何らかの修正が行われる見通しだが、暫定発効している協定の自由貿易協定などの重要部分の妨げにはならない見通しだ。
 

2|英国の選択-残留が合理的だが、離脱を選択する確率も決して低くない
今回の英国の国民投票が、これらの国民投票と異なる点は、EUの統合の深化と拡大、あるいは一層の緊縮策など「前進すべきか」を問うのではなく、EUから離れて「後退すべきか」を問う点にある。「前進すべきか」を問う国民投票ではベネフィットとコストが明確でないという理由から拒否する結果が出やすい。「現状より悪くはならない」という判断が働くからだ。

しかし、英国の国民投票の場合は、残留であれば「少なくとも当面は、現状から大きく変わらない」が、離脱という形で「後退」すれば、離脱派が主張するように「現状の問題の解決策となる」かもしれないが、残留派が主張するとおり「現状より悪くなる」リスクを伴う。特に、短期的に多少の混乱が生じる覚悟は必要だし、離脱がなければ、他の政策に割り当てることができた行政コストを、EUや域外国との交渉に優先的に配分しなければならなくなるだろう。

英国経済の構造的特徴を考えれば、合理的な判断は残留であり、国民投票の結果も、残留支持多数に落ち着く確率が高いと思われる。離脱後の単一市場へのアクセスや域外との貿易交渉の見通しが極めて不確実で、英国の豊かさの源泉であるビジネス環境を大きく傷つけるリスクを伴う。

英国は、1973年のEC(当時)加盟後、1975年6月に残留の是非を問う国民投票を行なっているが、当時とは、英国の開放度もEU市場との結び付きも、法規制の複雑さも比較にならない。

現状への不満が強ければ離脱を選択すると考えた場合、今の英国はあてはまらない。世界金融危機前に比べると、成長率は低く、賃金の伸びも鈍化しているが、(図表2)及び(図表3)で見た通り主要先進国と比較した場合のパフォーマンスは、米国に次いで良好だ。

離脱のコストが大きく、しかも、現在のパフォーマンスが概ね堅調でありながら、離脱支持多数となる確率も低くはない。政府や研究機関、国際機関からの経済的コストへの警鐘、主要国の首脳らの残留支持発言にも関わらず、世論調査では離脱支持の勢いが衰えない(図表19)。

その原因の1つとして、オンラインを通じた世論調査は電話調査よりも、より強い思いを抱く離脱派の支持が高く出やすいという点が指摘される。

しかし、世論調査の特性だけが、離脱支持率が落ちない原因とは考え難く、やはり「コストを払うことになっても軌道修正すべき」と考える現状への不満や不安を抱く有権者が少なくないと見る必要がある。

英国民は、そもそもEUの官僚主義や法規制に批判的だが、近年の移民の増大がEUへの不満や不安を増幅しているように感じられる。OECDの調べによれば16、英国の総人口に占める外国生まれ人口の比率は、主要国の平均的な水準だ(図表20)。しかし、(図表15)で見たとおり、政府が移民流入抑制方針を掲げても、ここ2年は30万人超の純流入と過去最高の更新が続く。さらに、EUには、シリアなど中東・北アフリカからの難民が危機的水準で流入している。トルコや旧ユーゴスラビア諸国など現在のEUの加盟国の平均よりも所得水準が低い国々が潜在的加盟国として控えている。将来のEUの拠出金への負担やEUからの移民の増大などを連想しやすい状況になっている。

世界金融危機以降、英国では財政緊縮が続いていることも(図表21)、移民の増大と相互に影響を及ぼし合う形で、現状の変更を求める機運につながっているように思われる。実証研究では、EUからの移民は就労を目的としており、移民はむしろ財政や社会保障制度の支え手となっているという結果が得られている。それでも、一般の国民の間には、手厚い社会保障を目的に移民が流入し、むしろ負担になっているという疑念も根強い。
図表19 国民投票に関する世論調査/図表20 G7と豪州の外国生まれ人口/図表21 英国の財政収支と政府債務残高/図表22 欧州8カ国のEU離脱に関わる国民投票に関する世論調査
 
15 幅広い分野で欧州の基準に近づくように改革をEUが支援する協定。貿易面では高度で包括的な自由貿易圏の構築を目指す。過去のEUが締結した連合協定はEU加盟を前提とするもの(中東欧が対象)とそうでないもの(地中海諸国が対象)があり、ウクライナとの協定は将来の関係についての明確な目標は決められていない。
16 OECD(2015)
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経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

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