コラム
2023年08月15日

負の数について(その1)-負の数を巡る歴史等はどうなっているのか-

このレポートの関連カテゴリ

文字サイズ

はじめに

「負の数」という概念は、今からすれば、何の変哲もなく常識的なものだと思われ、殆どの人が自然に受け入れているものと思う。ただし、歴史的には、長らくその概念は多くの人にとって、容易に受け入れられるものではなく、理解しがたい概念だったようだ。負の数の考え方が導入され、確立されてきたのは、数学の古い歴史の中では比較的最近になってからだと聞けば、多くの人が驚かれるであろう。

今回は、負の数を巡る話題について、2回に分けて報告することにするが、今回はまずはその歴史や記号の由来等について調べてみた。

負の数とは

負の数(negative number 」は、「0より小さい実数」のことを指している。数字の前に負の符号である「-(マイナス)」を付けて表現される。これに対して、符号が付いていなかったり、負の数と区別するために、数字の前に正の符号「+(プラス)」が付いたりしているものを「正の数(positive number」あるいは「正数」と呼んでいる。

負の数の歴史

大昔から、物を数えるための必要性から自然数が生まれたのは、極めて「自然」なことであったと思われる。ところが、同じくものを数えるという観点からは「負の数」という考え方が生まれてくることは考え難いことになる。物の個数を数えるための数字という観点からは、「負の数」を実世界の中で見つけることができない。例えば、「負の数」をイメージすることは直感的には易しいことではない。

「負の数」を考えるためには、例えば、何らかの「基準」となるものが必要で、これを上回る場合が「正の数」で、これを下回る場合に「負の数」という考え方が必要になってくる。そのためには、また「基準」となるものが、例えば、数字の「0(ゼロ)」で表されるというようなことが必要になってくる。

こうした観点から、「負の数」を使ったのは、最初に数字としての「0(ゼロ)」を発見したインド人であるとされている。彼らは、5 世紀に「0(ゼロ)」を発見していたが、7世紀には、財産の逆で負の財産を「負債(借金)」を表すものとして、さらに16世紀には「反対の方向」を表す,つまり 0 を基準点とし,自然数の対称として存在するものとして、負の数を普及させた。

西洋と東洋における数の概念

西洋と東洋では、数の概念に対する認識が異なっており、西洋においては、古くから数は基数であるとの考え方がベースにあるのに対して、中国やインド等の東洋では、数字はより幅広い概念で捉えられていたようだ(なお、基数(Cardinal Numbers)は数や量を表す時に使われ、序数(Ordinal Numbers)は順序を表す時に使われる。英語では前者はone, two, threeなどと表現され、後者はfirst, second, thirdなどと表現され、異なっている)。

東洋における負の数

東洋では、以前から負の数は正の数と同等に扱われていたようだ。
中国
歴史上初めて負の数が登場するのは、紀元後263年に三国時代の魏の劉徽(りゅうき)が注釈した「九章算術」においてであると言われている。研究員の眼「小数について(その1)-小数の起源や記法等はどうなっているのか-」(2023.1.23)において紹介したように、中国の算木では、黒い算木で負の数を、赤い算木で正の数を表し1、これを用いて売上や税金等の計算を行っていた。「九章算術」の第8章に、連立方程式を解くために「正負術」という計算規則が記載されており、負の数が使用されている。なお、この時期に「0(ゼロ)」という数字については明示的な認識はされていなかったようだが、「無入(むにゅう)」という用語で実質的に「0」を表して、「(引き算の時)同符号は引き、異符号は加える。無入から正を引くと負であり、無入から負を引くと正である。」との説明がされている。また、中国人は右端の最後の桁の数字に斜線を引くことによって負の数を表していた。
 
1 これは現在の簿記における黒字・赤字とは逆になっている。
インド
古代インドの「バクシャーリー写本」では、「+」を負の記号として使用して、負の数による計算を実行していた。ただし、この原稿の日付は明確でなく、紀元後3世紀から9世紀頃の範囲が想定されている。

7世紀のインドの数学者ブラフマグプタ(598-665頃)は『ブラーフマ・スプタ・シッダーンタ』(628年)において、二次方程式の負の根を含む2つの根を求める解法を示している2。また、彼は、負の数とゼロがかかわる演算に関する規則も与えており、「正数割る正数あるいは負数割る負数は正数である。ゼロ割るゼロはゼロである。正数割る負数は負数である。負数割る正数は負数である。正数または負数割るゼロは分母にゼロを持つ分数である。」(Colebrooke, H.T. (1817)の翻訳「数学の歴史Ⅰ-数学の萌芽から17世紀前期まで」メルツバッハ&ボイヤー著 久村典子訳 朝倉書店 より抜粋))と述べて、(0÷0=0 と定義している点を除けば)ほぼ現代の考え方に近いものを示している。彼は、正の数を「財産(fortunes)」、ゼロを「0(cipher)」、負の数を「借金(debts)」と呼んだ。

12世紀のインドにおけるバースカラ2世(1114-1185)3は、その著書『リーラーヴァーティー』や『ビージャガニタ』で有名だが、二次方程式に負の根を与えていたが、問題の文脈では不適切なものとして負の根を拒絶していたようだ。

また、16世紀に、注釈者クリシュナは、バースカラ2世の『ビージャガニタ』 に対する注釈書を刊行しているが、その中の負の数に関する記述の中で、「数には、場所、時間、物体に関する3種類のものがある。」とし、また「東西や南北の場所、前と後の時間、上下の位置について、一方が正数性を有するとすれば、他方が負数性を有する。」というような内容を述べている。さらに数の演算を数直線の概念で説明し、「数 a に正の数 b を掛けるとは、 a から a と同じ方向にb回分だけ進めることで、負の数-bを掛けるとは 、a とは反対の方向にb回分だけ進めることである。」というような説明を行っている4

即ち、「数」に対する考え方が、欧州における個数を基準としていたものとは大きく異なり、「負」というものも、元々の「正」に対して、逆性(逆の方向性)を有するものと考えられていたようだ。
 
2 以下の方程式等に関する記述において、「解」と「根」という用語を使用している。現在の高校以下の数学教育においては、両者は「解」に統一されているようだ(ただし、「平方根」、「立方根」という用語は引き続き使用されている)が、2つは厳密には異なる意味合いを有しているとされている。ここでは、(必ずしも適当ではないかもしれないが)基本的には、方程式を解くことによって得られる全ての値を「根」、そのうちの文脈との関係の中で認められたものを「解」として表現するような形にしている。
3 彼は、(ブラフマグプタとは異なり)有限の数をゼロで割ると(ゼロ除算)無限大になるという現代の数学と同じ考え方を示していた。
4 「インド代数学研究 (『ビージャガニタ』+『ビージャパッラヴァ』全訳と注) 林隆夫(著)恒星社厚生閣、および数理解析研究所講究録「数概念について」早稲田大学・理興学術院 足立恒雄 に基づいている。
イスラム世界
8世紀以降、イスラムの数学者たちは、ブラフマグプタの著書から負の数を学び、9 世紀には、負の数に通じていた(ただし、その使用等については積極的なものではなかったようだ)。10世紀には、アル・カラジはその著書の中で「負の量は項として数えなければならない」と書いており、アブ・アル・ワファー・アル・ブズジャーニーは『書記とビジネスマンのための算術の科学から何が必要か』の中で負債を負の数とみなしていた。さらに、12 世紀までに、アル・カラジの後継者は記号の一般規則を述べ、それを使って多項式除算を解くようになっていた。アル・サマワㇽは次のように書いている。

「負の数 al-nāqiṣ(損失)と正の数al-zāʾid(利得)の積は負であり、負の数との積は正となる。より大きな負の数から負の数を引くと、残りはそれらの負の差になる。より小さい負の数から負の数を引いても、差は正のままである。正の数から負の数を引くと、残りはそれらの正の合計になる。空の累乗(martaba khāliyya)(=0)から正の数を引くと、残りは同じ負になり、空の累乗から負の数を引くと、残りは同じ正の数になる。」(The Development of Arabic Mathematics: Between Arithmetic and Algebra:Roshdi Rashed著からの抜粋の筆者翻訳)

古代ギリシャにおける負の数

プトレマイオス朝エジプトにおいて、3世紀のギリシャの著名な数学者ディオファントスは、その著書「算術(Arithmetica)」の中で(負の解を持つ)4x+20=4と等価な方程式に言及して、この方程式は馬鹿げていると述べており、ギリシャの幾何学者は、正の解のみを与える全ての二次方程式を幾何学的に解くことが出来ると考えていたようだ。このように、この時代のギリシャでは、幾何学や度量衡を記述するためには、正の数だけで十分であり、負の数を認める必要は無かったようだ。

西洋における負の数

負の数の考え方は、インドやイスラムの著書のラテン語翻訳を通じて、欧州にも伝わった。

13 世紀に、「フィボナッチ数列」で有名なイタリアのフィボナッチ(Leonardo Pisano)は、『算盤の書』(1202年)の第13章において、負の数を負債と解釈し、後には損失と解釈して金融問題に負の解を認めた。

しかし、殆どの欧州の数学者は、すぐには負の数を数として認めなかった。基数主義の下での西洋においては、数は物の個数や大きさ等の量を数えるものとの認識から、負の数は、17世紀後半においても、「虚構の数」と呼ばれていたようだ。

例えば15世紀に、フランス人のニコラ・チュケ(Nicolas Chuquet)は欧州人として初めて著書の中で、指数として負の数を使用したが、それらを「ばかげた数」と呼んだ。ドイツの数学者マイケル・スティフェルは、1544 年のArithmetica integraにおいて負の数を扱ったが、それを「不条理な数(numeri absurdi)」と呼んだ。

16世紀の数学者で三次方程式の解の公式で有名なジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano)(1501-1576)も負の数について言及しており、これが負の数が数学者に受け入れられていく1つの契機になっていったとも言われている。方程式における負の根については、フランスの数学者アルベール・ジラール(Albert Girard)(1595-1632)が、現在「代数学の基本定理」と呼ばれる「全ての代数方程式は、最高次の項の次数と同じ数の根を持つ」を主張し、負の根を正式な解として認めていたとされる。

また、ラファエル・ボンベリ(Rafael Bombelli)(1526-1572)は、虚数の理解における中心人物として有名だが、彼はまた1572 年に出版されたその著書「代数(Algebra)」において、当時知られていた代数を包括的に説明しており、欧州人で初めて、負の数で計算を実行する方法を書き留めた。

ところが、この時期においても著名な数学者の間でも、負の数についての概念は十分に認められていなかった。いくつかの例を挙げると、以下の通りである。

方程式論の業績で有名で「代数学の父」とも言われるフランスの数学者フランソワ・ビエト(François Viète)(1540-1603)は、n次方程式に対するn個の根を考えていたが、負の解は認めていなかった。フランスの哲学者であり数学者でもあるルネ・デカルト(René Descartesb)(1596-1650)は、負の根を認めて、そのデカルト座標においても、その存在箇所があったが、これを「偽根(偽りの解)」と呼んでいた。あの有名な数学者で哲学者であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)(1623-1662)ですら、その著書「パンセ」において、「ゼロから4を引けばゼロであることを理解しない人がいる」と書いていた。

17世紀には、無限大記号(∞)を導入したイングランドの数学者ジョン・ウォリス(John Wallis)(1616-1703)は、負数を左、正数を右に描く数直線の考え方を考案したとされているが、それでも負数が 0 より小さいという考え方を不合理だとして拒絶し、負数は無限大より大きいという見方を支持していたとのことである(負数が無限大より大きいという考え方は、x を正の大きな数から 0 に近づけていくと 1/xの値が無限大になることを根拠としているようだ)。スイス人の大数学者レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler)(1707-1783)も同様な考え方を有していた。ドイツの数学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz) (1646-1716) も、負の数は無効であると考えていたが、それでも計算には使用していた。英国の数学者フランシス・マセレス(Francis Maseres)(1731-1824)は1759年、負の数は「方程式の理論全体を暗くし、その性質上過度に明白で単純なものを暗くする」と書き、負の数は無意味であるという結論に達していた。

このように、欧州においては、かなり現代に至るまで、負の数の概念は十分に理解されずに認められていなかったようである。
Xでシェアする Facebookでシェアする

このレポートの関連カテゴリ

中村 亮一

研究・専門分野

公式SNSアカウント

新着レポートを随時お届け!
日々の情報収集にぜひご活用ください。

週間アクセスランキング

レポート紹介

【負の数について(その1)-負の数を巡る歴史等はどうなっているのか-】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

負の数について(その1)-負の数を巡る歴史等はどうなっているのか-のレポート Topへ