2021年03月10日

福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (1)―イントロダクション―

保険研究部 准主任研究員 岩﨑 敬子

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1――原発事故のこころの健康への影響

東日本大震災から10年が経とうとしている。それは、一般的に当事者でなければ風化してしまうほど長い年月かもしれない。しかし、原子力発電所事故の被害を受けた方々のなかには、今もその影響が残り続けていることが、筆者らの研究グループ1が行ってきた、福島原子力発電所事故によって全町民が避難を余儀なくされた福島県双葉町民を対象とした継続的なアンケート調査2で示されてきた3

図1は、こころの健康状態について、双葉町民の「K6」と呼ばれる全般的なストレス状態を診断する指標の数値の分布を示したものである。K6 は、国際的に使用されている全般的なこころの健康状態を示す指標で6 つの質問から成り、その合計の点数が高いほど、こころにストレスを抱えている可能性が高いと考えられる4。ここで見られるように双葉町民のK6の値は、日本全体の分布と比較しても、その他の被災地域の分布と比較しても高い傾向がある。震災後、その分布は、緩やかな回復傾向が見られるが、日本全体と同じような分布になるにはまだまだ長い時間が必要であることが分かる。こうした傾向からは、多くの場合に震災後に同じ場所で生活再建が可能な津波や地震等の自然災害に比べて、震災後も別の場所での避難生活を続けざるを得ない原発事故という人的災害においては、こころの健康への影響はより長期的で甚大である可能性があることが示唆される。
図1. 日本全体、双葉町、その他被災地のK6の値の分布
 
1 東京大学「災害からの生活基盤復興に関する国際比較」プロジェクト(東京大学大学院経済学研究科 教授 澤田康幸、ニッセイ基礎研究所 研究員 岩﨑敬子)
2 調査名は「東日本大震災による被害・生活環境・復興に関するアンケート」。東日本大震災による原子力発電所の事故で全町民が避難を余儀なくされた、福島県双葉町の全世帯主を対象に、これまで、2013年から過去6回行われてきた(過去実施:2013年7月、2014年12月、2016年7月、2017年12月、2019年7月、2020年12月)。原子力発電所事故が人々にもたらした被害を多面的・長期的に捉え、その人々への影響のメカニズムを明らかにし、それを被災地域の復興政策に役立てるとともに、将来の災害対策に向けた研究蓄積とすることを目的とした調査である。第6回調査(2020年12月実施分)は2021年2月現在、集計中であることから、本稿を含めて『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (1)』~『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (4)』では、過去5回分の調査を元に議論する。
3 各回の調査概要とこれまでの調査に含まれる質問項目の詳細については、岩﨑(2020a~2020e)の通り、ニッセイ基礎研究所のホームページで公開されている。
4 Kessler et al.(2002)、Furukawa et al.(2008)、古川ほか(2003)
 

2――「こころの減災」への3つの鍵

2――「こころの減災」への3つの鍵

では、震災による様々な社会経済的な状況の変化の中でも、どういった側面がこころの健康に影響を与えているのか、そして、原発事故の甚大な被害の中でもどういった人がより良いこころの健康状態を保っているのだろうか。こうした疑問は記述統計だけでは読み解くことができない。そこで、筆者らは、被災者や町役場へのインタビューを通して得た知見を元に、ミクロ実証経済学の枠組みをベースとしつつ、ソーシャルキャピタル研究という学際分野、行動経済学の枠組みや、公衆衛生学の手法に基づいた、複数の分野を複合したユニークな学際研究の手法によって分析を行ってきた。その中で浮かび上がってきた「こころの減災」への3つの鍵が、社会的なつながり(ソーシャル・キャピタル)、損失回避、そして現在バイアス5である。それぞれの検証についての説明は、今後の基礎研レターに譲るとして、ここではまず、その3つに注目することになったきっかけを簡単に紹介しよう。
 
5 現在バイアスの概念の説明については以下を参照。
岩﨑敬子「後回し傾向で、貯蓄額は211 万円減少・肥満率は2. 8 ポイント上昇?!──ダイエットや貯金を妨げる双曲
割引とは」3 分でわかる新社会人のための経済学コラム、第110 回、2019 年4 月2 日、日本生命保険ホームページ(https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/110.html)。
1| ソーシャル・キャピタル
このアンケート調査の分析にあたってまず注目したのは、ソーシャル・キャピタルの役割である。これは、筆者が参加したこのアンケート調査を始めるきっかけとなった双葉町の避難者へのインタビューで6、人と人のつながりが避難経緯や現在の生活、こころの状態に及ぼす影響に関する話を、双葉町の皆さまからうかがっていたことから、調査を開始する際にまず注目していた概念である。筆者らの分析では、実際に双葉町民同士のつながりを保つことは、こころの健康を良好に保つ助けになる可能性があることが示された7。これは、被災前のつながりを保つことができる避難や、避難先で人と人のつながりをつくるための取り組みの重要性を示す点で、政策的な示唆を提供するものである。
 
6 関谷・高倉(2019)
7 Iwasaki et al. (2017)
2| 損失回避
双葉町長とのミーティングで、「双葉では大きな家だったのに、今は小さな家に住んでいるということがストレスだ」という町民の声を知ったことが、こころの健康と損失回避の関係に注目したきっかけである。町民にとって、震災後の生活を震災前との比較で捉えている可能性があることをデータを用いて検証することは、賠償政策にも重要な知見を生み出す可能性がある。また、実際に損失回避のモデルを災害という状況で検証した研究はこれまでなかった。筆者らの分析では、収入の喪失および、健康の喪失とこころの健康の間に、損失回避の関係がみられることが確認された8。これは、十分な賠償と災害による喪失への対策に関する早い段階でのコミットメントの必要性という政策的な示唆につながるものである。
 
8 Iwasaki et al. (2019)
3| 現在バイアス
最後に注目した現在バイアスは、社会経済的状況によって人々の選好も変わるかもしれないという経済学の分野の学術研究と、現在バイアスが健康と関係しているという公衆衛生学の分野の学術研究の流れからヒントを得た分析である。これらの先行研究から、双葉町の深刻なこころの健康の状況は、現在バイアスの変化によって説明される可能性があり、もしそうであれば、こころの健康悪化を防ぐために現在バイアスの変化を考慮に入れた政策が有効である可能性がみえてくるからだ。筆者らの分析では、震災被害は震災前の現在バイアスの程度を増大させ、そのことがこころの健康悪化につながっている可能性があることが確認された9。これは、現在バイアスの増大による健康への影響を防ぐナッジの可能性を示す点で政策的な示唆につながるものである。
 
9 Sawada et al. (2018)

次回以降、ソーシャル・キャピタルの変化がこころの健康に与える影響の検証については『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (2)-ソーシャル・キャピタル-』、損失回避とこころの健康の関係の検証については『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (3)-損失回避―、現在バイアスの変化がこころの健康に与える影響の検証については『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (4)-現在バイアス―』の3本の基礎研レターで、順次紹介していく。さらに筆者が執筆した『福島原発事故とこころの健康-実証経済学で探る減災・復興の鍵』(日本評論社、2021年3月15日発売開始)10では、双葉町の調査に至った経緯や、3つの鍵概念である「ソーシャル・キャピタル」「損失回避」「現在バイアス」の説明及び因果関係に迫るための分析方法についても詳しく記載している。読者の興味に合わせてぜひご参照頂きたい。
 
10 岩﨑敬子『福島原発事故とこころの健康-実証経済学で探る減災・復興の鍵』(日本評論社、2021年3月15日発売開始)に関するWEBサイト: https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8515.html

参考文献

岩﨑敬子(2020a)『「東日本大震災による被害・情報取得経路・復興に関するアンケート」2013 年調査結果概要──福島県双葉町民を対象とした第1回調査』基礎研レポート、2020 年2 月7 日
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63610?site=nli
岩﨑敬子(2020b)『「東日本大震災による被害・生活環境・復興に関するアンケート」2014 年調査結果概要──福島県双葉町民を対象とした第2回調査』基礎研レポート、2020 年2 月7 日(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63611?site=nli
岩﨑敬子(2020c)『「東日本大震災による被害・生活環境・復興に関するアンケート」2016 年調査結果概要──福島県双葉町民を対象とした第3 回調査』基礎研レポート、2020 年2 月7 日(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63612?site=nli
岩﨑敬子(2020d)『「東日本大震災による被害・生活環境・復興に関するアンケート」2017 年調査結
果概要──福島県双葉町民を対象とした第4 回調査』基礎研レポート、2020 年2 月7 日(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63613?site=nli
岩﨑敬子(2020e)『「東日本大震災による被害・生活環境・復興に関するアンケート」2019 年調査結
果概要──福島県双葉町民を対象とした第5 回調査』基礎研レポート、2020 年2 月7 日(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63614?site=nli
関谷雄一・高倉浩樹編(2019)『震災復興の公共人類学──福島原発事故被災者と津波被災者との協
働』東京大学出版会
古川壽亮・大野裕・宇田英典・中根允文(2003)「心の健康問題と対策基盤の実態に関する研究」平成14 年度分担報告書、厚生労働科学研究費補助金厚生労働科学特別研究事業
Furukawa, T. A., Kawakami, N., Saitoh, M., Ono, Y., Nakane, Y., Nakamura, Y., Tachimori, H., Iwata, N., Uda,H., Nakane, H., Watanabe, M., Naganuma, Y., Hata, Y., Kobayashi, M., Miyake, Y., Takeshima, T. and Kikkawa, T.(2008)“The Performance of the Japanese Version of the K6 and K10 in the World Mental Health Survey Japan,” International Journal of Methods in Psychiatric Research, 17(3): 152-158.
Iwasaki, K., Lee, M. and Sawada, Y.(2019)“Verifying Reference-Dependent Utility and Loss Aversion with Fukushima Nuclear-Disaster Natural Experiment,” Journal of the Japanese and International Economies, 52(C): 78-89.
Iwasaki, K., Sawada, Y., and Aldrich, D. P.(2017)“Social Capital as a Shield Against Anxiety Among Displaced Residents from Fukushima,” Natural Hazards, 89(1): 405-421.
Kessler, R. C., Andrews, G., Colpe, L. J., Hiripi, E., Mroczek, D. K., Normand, S. L., Walters, E. E. and Zaslavsky, A. M.(2002)“Short Screening Scales to Monitor Population Prevalences and Trends in Non-Specific Psychological Distress,” Psychological Medicine, 32(6): 959-976.
Sawada, Y., Iwasaki, K. and Ashida, T.(2018)“Disasters Aggravate Present Bias Causing Depression: Evidence from the Great East Japan Earthquake,” CREPE Discussion Paper No. 47.
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保険研究部   准主任研究員

岩﨑 敬子 (いわさき けいこ)

研究・専門分野
応用ミクロ計量経済学・行動経済学 

経歴
  • 【職歴】
     2010年 株式会社 三井住友銀行
     2015年 独立行政法人日本学術振興会 特別研究員
     2018年 ニッセイ基礎研究所 研究員
     2021年7月より現職

    【加入団体等】
     日本経済学会、行動経済学会、人間の安全保障学会
     博士(国際貢献、東京大学)
     2022年 東北学院大学非常勤講師
     2020年 茨城大学非常勤講師

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