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日本の地球温暖化対策-『カーボンプライシング』の可能性を考える

総合政策研究部 准主任研究員 鈴木 智也
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イノベーションの阻害とは、カーボンプライシングの導入によって企業利益が圧迫され、研究開発の原資が失われる結果、企業の環境技術開発に遅れが生じてしまうといった問題である。
この問題に対処するには、企業が失った研究開発の原資を補う政策を同時に実施していくことが必要になる。具体的には、企業に溜まる内部留保を研究開発に振り向ける条件付減税を導入する方法や、研究開発の原資を補助金などで直接補う方法などが考えられる。なお、政府の成長戦略(2018年未来投資戦略)の中には、すでに産業競争力の強化やイノベーションを促すための政策が盛り込まれている。カーボンンプライシングを導入する際には、それらの政策を環境政策と直接結びつけることで、長期戦略に掲げた「環境と成長の好循環」を実現する手段としていくことも可能だろう。
逆進性の問題とは、消費全体に占める光熱費や食費の負担割合の高い低所得者層ほど、カーボンプライシングを導入した際の生活への打撃が大きくなるという問題である。2018年にフランスで発生した「黄色いベスト運動」は、まさにこの問題が顕在化した事例だと言える。運動が激化した要因には、燃料価格の高騰や炭素税(燃料税)の引き上げ以外にも、社会保障目的税の引き上げや富裕税の廃止などへの不満も含まれているが、カーボンプライシングの導入が、国民生活の不安を煽る一因になることを如実に示した事例だと言える。
この問題に対処するには、カーボンプライシングの導入で影響を受ける人々、特に低所得世帯への生活支援策が必要となる。具体的には、所得減税や社会保険料の軽減措置の拡大など、カーボンプライシングの導入で生じる家計の負担増を相殺する方法が考えられる。また、自動車が主要な交通手段として必需品となっている地域では、特にカーボンプライシング導入による影響が大きくなるため、これらの地域に配慮した資金支援等が必要となる。
今日のエネルギー政策は、環境対策という課題が加わったことでより複雑さが増している。日本は現在、エネルギー源の大半を海外に依存する中でエネルギーを安定的に調達しなければならないという安全保障面での要請に加え、国際競争力を維持するために安価なエネルギーを調達しなければならないという経済産業面での要請、そして、炭素排出が著しいエネルギーを削減しなければならないという環境保全面での要請という、相互に両立を図ることの難しいトリレンマの課題に直面している。
現行のエネルギー税制を見ると、安全保障面と経済産業面への配慮が優先される一方で、環境保全面への配慮が後回しにされてきたことが分かる。[図表2]は、CO2排出量1t当たりの燃料価格(税+本体価格)を示したものであるが、燃料別のエネルギーコストには部門間で大きな偏りがあるうえ、環境負荷の大きな石炭が最も安くなっている。これには、石炭が資源の偏在性の少ない資源で供給の安定性に優れていたことや、埋蔵量が多く化石燃料で最も安価に入手できたことなどの要因が、影響してきたと考えられる。その一方で、このコスト構造のもとでは、安価な石炭を用いることが合理的となるため、環境政策に逆行する選択がなされるといった問題が生じている。
4――導入の可能性 ~早ければ、2021年度以降に具体化されるが・・・~
しかし、調整には難航も予想される。実際、環境大臣の諮問機関である中央環境審議会地球環境部会の元に設置された「カーボンプライシングの活用に関する小委員会」は、2019年8月に広範なステークホルダーの意見を集約した中間整理を公表しているが、その内容は「特定の方向性や結論を示すものではない」として両論併記され、意見が収斂していない様子をうかがわせている。
また、国際金融の安定を目的に設立された国際通貨基金(IMF)は、コラム10の中で「カーボンプライシングが政治的に非常に困難なものになるのは明らか」だとし、「分配(低所得者や中小企業などへの配慮)と効率性(政策効果と行政コストのバランス)、政治的な配慮(国際競争力への影響)の間でバランスを取る必要が出てくる」と指摘している。カーボンプライシングの導入を巡る意見の対立が解けない中では、3者のバランスをどのように決めるのかについて政治の決断が求められるだろう。
特に日本では、決断を下すタイミングが国際社会の動きを受けて早まる可能性もある。来年2020年には、約190の国と地域が参加するパリ協定が実施期間入りし、地球温暖化に対する世界の関心が高まる。既にドイツでは、気候変動対策11に数千億ユーロ規模の予算を2030年まで支出することが決まり、中国では、排出量取引制度を2020年から本格的に導入することが決まっている。各国の取組みが加速する中、日本にも対策の強化を求める圧力は高まる。政府には、6月に閣議決定した長期戦略の達成にむけて新たな政策が必要になるとの事情もあり、カーボンプライシングを巡る議論が今後、大きく動き出す可能性も考えられる。2020年は、日本にとって地球温暖化対策の節目の年となるかもしれない。
10 IMF「Getting Real on Meeting Paris Climate Change Commitments」(2019年5月)
11 ドイツ連邦政府「The Climate Action Programme 2030」(2019年9月)
【補足】――温暖化対策が進まない原因 ~協調を阻む2つの壁~
そもそも、地球温暖化対策の取組みは“何故”難航するのだろうか。国際社会で地球温暖化の問題が認識されたのは1985年のフィラハ会議であるが、パリ協定が実施期間入りするのは2020年である。国際社会が問題を認識してから行動に移るまでには35年の月日が経過している。そこには、国際社会の協調を阻む2つの壁があると考えられる。すなわち『立証の壁』『利己主義の壁』だ。
『立証の壁』とは、科学的根拠が十分に得られないことで生まれる議論の前提や問題の認識に関する意見の隔たりである。地球温暖化の問題は、科学的根拠を以って説明されるべきであるが、地球環境を説明する際に考慮すべき要素は多く、その関係は複雑であり、気候変動を説明する様々な説が存在する。現在のところ、多くの科学者は“人為的な地球温暖化が存在する”との立場を支持しているが、中には“温暖化どころか寒冷化に向かっている”との説を主張する科学者もおり、問題の存在や対策の必要性を巡る議論は一致していない。さらに、地球温暖化の影響の大きさを巡っても意見は対立する。実際、幅広いステークホルダーが集まる前述の「カーボンプライシングの活用に関する小委員会」の中間整理においても「温暖化が進行することによって、他に大事な国民生活の要素が全部吹き飛ぶぐらい大変なことになるリスクがある前提なのか、それほどでもなくワンオブゼムである前提なのかについて、委員間でも認識にはかなり差がある」と指摘している。科学的根拠が十分に得られないために立場の隔たりが生まれ、共通の認識に至る道が『立証の壁』に阻まれるのである。
『利己主義の壁』とは、各主体が自らの経済的な利益を失わないために起こす抵抗を指す。地球温暖化対策は、受益と負担のバランスが悪い政策であり、対策で得られる便益の多くは、地球全体(主に低所得者の多い発展途上国)と将来世代のものとなるが、その抑制に伴うコストは、現役世代(主に高所得者の多い先進国)が直ちに支払うものとなる。従って、現役世代にとっては、積極的に取組むインセンティブの働かない構造にあると言える。また、環境対策と経済的な利益が両立しない場合、人は現状を維持する保守的な傾向を示す。とりわけ、地球温暖化の問題は、抑制の恩恵を全ての人が享受できるため、自らは行動せずに誰かの恩恵に授かる「フリーライダーの問題」が生じる。さらに、地球温暖化対策の取り組みに差が生じれば、規制のアービトラージによって、前述の「炭素リーケージの問題」も誘発される。地球温暖化を巡るステークホルダーは空間的にも時間的にも幅広く、利己主義に根ざした利害対立は至るところで生じるため、誰もが納得する合意の形成はより困難になる。
地球温暖化の問題は、上記2つの壁に阻まれて足並みを揃えていくことが難しい。しかし、例え無駄になる可能性があったとしても、対策が不十分なまま地球温暖化が進めば、将来世代は修復不可能な環境から、壊滅的な被害を受けることになる。それを考えれば、行動することには重要な意味がある。また、現在の協調の枠組みは、個々の利益より全体の利益を優先する「高潔な精神」に依拠している。理想的ではあるが、利己主義に根ざした行動は後を絶たない。利害の衝突が生じる現実的な立場に立てば、「小さな試みから始めて大きな枠組みにつなげる」「狭い範囲から始めて対象を拡大する」「緩い規制から始めて徐々に厳格化していく」など、漸進的な試みを用いざるを得ない。求める水準との乖離が大きかったとしても、歩みを止めないことこそが最も重要なことだと言えるだろう。
・ジャン・ティロール「良き社会のための経済学」pp225-261
(お願い)本誌記載のデータは各種の情報源から入手・加工したものであり、その正確性と安全性を保証するものではありません。また、本誌は情報提供が目的であり、記載の意見や予測は、いかなる契約の締結や解約を勧誘するものではありません。
(2019年12月25日「基礎研レター」)

03-3512-1790
- 【職歴】
2011年 日本生命保険相互会社入社
2017年 日本経済研究センター派遣
2018年 ニッセイ基礎研究所へ
2021年より現職
【加入団体等】
・日本証券アナリスト協会検定会員
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