コラム
2019年10月10日

検閲ではなく勇気と自信とチャンスを-あいちトリエンナーレ2019全面再開を巡って

吉本 光宏

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10月8日、「あいちトリエンナーレ2019」の展示作品が全面再開された。展示のひとつ「表現の不自由展・その後」が開催から3日目に展示中止となり、それに抗議するアーティストたち十数名の作品も展示の中止や変更が行われていた。

表現の自由を巡って多くの報道が行われたため、ご存じの方も多いだろう。その後、文化庁があいちトリエンナーレ2019への補助金不交付を決定し、公的機関の補助金や助成金、さらには文化政策そのもののあり方にまで、議論が広がっている。

全面再開の日、運良く名古屋出張の機会があり、展示中止で8月に見そびれた作品を鑑賞することができた。「表現の不自由展・その後」ばかりが注目されるが、それ以外の作品にも力作が多い。例えばタニア・ブルゲラの《10150909》は、展示室に入る前に手の甲に作品タイトルと同じ数字のスタンプが押される(写真)。展示室の中にはガラス張りの部屋があり、壁には手の甲と同じ数字が書き出され、室内は気化したメンソールで充満されている。

この数字は、2019年に国外へ無事に脱出した難民の数と、国外脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計を表している。メンソールの刺激に涙が出る人もいるだろうが、それは、地球規模の問題の大きさを知っても何も感じない人々を泣かせるためだという。数字は毎日書き換えられていく。
手の甲に押されるスタンプ 日本は先進諸国の中で最も難民の受け入れに厳しい国だ。昨年1年間の難民認定申請者数は10,493人で、そのうち難民と認定した外国人はわずか42人、認定率は0.4%だ1。1,015万909人という数字は、そうした日本政府への痛烈な批判と受け取ることも可能だ。しかし、アーティストの真意は、私たち一人ひとりに、地球上で起きている問題の深刻さを伝え、難民に思いをはせてほしい、というメッセージだろう。

本稿のタイトル「検閲ではなく勇気と自信とチャンスを」は、英国アーツカウンシルの初代会長である経済学者ジョン・メイナード・ケインズの言葉だ。彼が、「アーツカウンシル:その政策と期待」と題してBBCで放送した一節に含まれており、それは次のようなものであった。

「芸術家の仕事というのは、あらゆる意味において、また生まれながらにして、個別のものであり、自由だということ、また、統制されるべきでも、管理されるべきでも、規制されるべきものでもない。私は、そのことを誰もが受け入れることを願っています。芸術家は魂の息吹が導くままに歩みます。芸術家に行き先を告げることは誰にもできません。芸術家自身ですら、それを知らないのです。しかし、彼らは私たちを新鮮な牧草地へと導いてくれます。公的機関の仕事は、指導したり、検閲したりすることではなく、勇気と自信とチャンスを与えることなのです」2

ケインズの生きた時代に、今と同じような難民問題があったとは思えないが、タニア・ブルゲラの作品は、まさしくケインズの示したアーティスト像を彷彿させる。

アーツカウンシルは英国発祥とされ、厳密な定義は難しいものの、「芸術文化に対する助成を基軸に、政府と一定の距離を保ちながら、文化政策の執行を担う専門機関」のことである3。英国では、1939年設立の音楽・芸術振興協会(Committee for the Encouragement of Music and the Arts, CEMA)を前身とし、1945年にArts Council of Great Britain(ACGB)として設立された。

初代会長となったケインズは、第二次世界大戦でナチス・ドイツが芸術を政治的に利用したことに異を唱え、政府から一定の距離を置く「アームズ・レンクスの法則」を提唱。政府から独立したアーツカウンシルの立場を確立したとされる。同時に彼は、アーティストを尊重し、芸術の質を重視する方針を打ち出した。

日本では、1990年に芸術文化振興基金が設置された際、特殊法人国立劇場が改組され、特殊法人日本芸術文化振興会(英語名:Japan Arts Council、2002年から独立行政法人)が発足している。しかし、英国など諸外国のアーツカウンシルと比較して、機能や組織体制などは必ずしも十分と言えるものではなかった。

民主党政権の発足した2009年、事業仕分けによって文化予算の大幅縮減という方針が示された4。芸術に対する補助金や助成金の成果を十分に説明できなかったことが、その一因であった。それを受け、文化審議会での検討に基づき、「専門家による審査、事後評価、調査研究等の機能を大幅に強化し、諸外国のアーツカウンシルに相当する新たな仕組みを導入する」ことが、「文化芸術の振興に関する基本的な方針(第3次)」(2011年2月閣議決定)の重点戦略として明記された。以降、プログラム・オフィサーなど専門家の起用が進み、アーツカウンシルとしての機能が強化されてきた。

一方、地方公共団体でも、2007年に横浜市がアーツコミッション・ヨコハマを設立して以降、各地で地域アーツカウンシルの設置が進んでいる。2016年からは、文化庁が「地域における文化施策推進体制の構築促進事業」という補助金によって地域アーツカウンシルの創設を後押しするようになった。

この補助金は、2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催が決まり、文化プログラムの全国展開が検討された際、ロンドン2012大会において英国アーツカウンシルの地域事務所が大きな役割を果たしたことから、同様の仕組みを日本も整備すべき、という議論が背景となっている。

これまで14の府県や政令市が補助金の交付を受け、他に東京都や沖縄県でもアーツカウンシルが設けられている。名古屋市も今年度この補助金に採択され、試行事業を進めており、あいちトリエンナーレ実行委員会の会長代行を務める河村たかし名古屋市長も、今回の一件以降、公の場でアーツカウンシルの設置を示唆している。

また、実行委員会の会長を務める大村秀章愛知県知事も、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」での議論を踏まえ、アーツカウンシルの設置に前向きの姿勢を示している。「表現の不自由展・その後」の展示中止と再開に対する両首長の態度は、まったく真逆の状況であるが、名古屋市と愛知県がそれぞれどんなアーツカウンシルを設置するのか、今後、注目したいところである。

しかし、今回の事件は、この二つのアーツカウンシルだけではなく、日本芸術文化振興会や地域アーツカウンシル、さらには、国や地方公共団体の芸術に対する補助金や助成金のあり方に大きな一石を投じている。文化庁の補助金不交付の決定は、アーティストの表現や芸術祭をはじめとした文化事業の萎縮ばかりか、公的機関の自主規制につながるのではないかという懸念の声も多い。

現在、複数の地方公共団体が、地域アーツカウンシルの創設を検討していると聞く。行政から独立した組織を経由すれば、首長が補助金の決定に直接異を唱えることは難しくなるだろう。それだけに、税金を投入する補助金に相応しい審査や評価の仕組み、基準について慎重な検討が求められる。

が、今問われるべきは、芸術と向き合う理念であり哲学ではないか。70年以上前のケインズの言葉が、そのことを何よりも私たちに突きつけていると思わずにはいられない。
 
1 法務省「平成30年における難民認定者数等について」。その他に、人道的な配慮を理由に在留を認めた外国人40人を合わせて82人の外国人に在留が認められた。最大の受け入れ国はトルコの370万人、先進国ではドイツが4番目で110万人を受け入れている(国連難民高等弁務官事務所「数字で見る難民醸成(2018年)」)。
2 John Maynard Keynes, “The Arts Council: Its Policy and Hopes”, The Listener , July 12, 1945(The Arts Council of Great Britain, “The 1st Annual Report 1945-6”に転載された原文を、筆者が抜粋、翻訳)。
3 吉本光宏「文化芸術へのさらなる振興に向けた戦略と革新を-新生『日本アーツカウンシル』への期待」『文化庁月報』平成23年10月号
4 実際には、その後行われた文科省の意見募集で10万件を超える反対意見が集まり、2011年度の文化庁予算は1,020億円とそれまでの最高額となった。
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(2019年10月10日「研究員の眼」)

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