2018年09月28日

健康とは何か、誰のための健康づくりなのか~医療社会学など学際的な視点からの一考察~

保険研究部 准主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任   三原 岳

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1――はじめに~健康とは何か~

世の中は健康ブームである。テレビや新聞・雑誌、インターネットでは健康増進の方法や健康食品の情報などがあふれている。さらに、政府としても健康づくりを重視しており、自治体の財政支援を強化したり、従業員の健康づくりに取り組む会社を認定したりする動きを強めている。

しかし、「健康」という定義は意外と奥深く、しかも曖昧である。そして健康づくりの必要性が語られる時、その文脈は個人の幸福だけでなく、健康寿命の延伸、医療費適正化、関連産業の育成など多岐に渡っており、「健康とは何を指すのか」、あるいは「誰のための健康づくりなのか」といった点を意識しつつ、議論する必要がある。

さらに、戦前までさかのぼって歴史を紐解くと、健康な国民と兵士を育成する国策として健康づくりが進められてきた「不健康」な時期があることに気付く。そして、国家による過度な健康づくりは個人の自由と対立する危険性にも留意する必要がある。

本レポートでは、健康に関する医療社会学の指摘や、健康づくり政策に関する歴史的な経緯などを踏まえつつ、個人を取り巻く生活環境が個人の健康に影響を与える点を重視する「健康の社会的決定要因」(Social Determinants of health)も含めて、健康づくり政策の在り方を学際的に再考したい。
 

2――健康観の変化

2――健康観の変化

1|「健康=病気がない状態」と「病人役割」
健康を語る大前提として、疾病構造の変化を踏まえる必要がある。歴史的に見ると、人類を長く苦しめたのは感染症であり、「黒死病」という異名を持つペストは何回か中世のヨーロッパで拡大したほか、コレラも19世紀に計6回に渡って世界に伝播したという1

さらに、1918年に発生した「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザは第1次世界大戦の間に、世界各国に拡大。日本でも流行し、対外領土を含めて全人口の1%程度に相当する約74万人が亡くなったという2>。

これらに代表される通り、長らく疾病の中心は感染症だった。中でも「国民病」とされたのが結核であり、表1の通り、敗戦直後の日本では日本人を死に至らしめる最も大きい要因は結核だった。
表1:日本人の死因上位5位の推移(人口10万人対)
その後、特効薬の開発や公衆衛生の発達などを受け、悪性新生物、つまりがんが1位になった3。肺炎の動向を見ても、敗戦直後は感染症として死因の3位にランクインしていたが、特効薬の開発で一度は上位3位から姿を消し、近年は高齢者の誤嚥性肺炎を主な理由に再び増えてきている。このように見ると社会経済情勢の変化などを受けて、疾病構造が変わっている様子を理解できる。

こうした疾病構造の変化は「健康」の意味を変容させる。具体的には、結核などの感染症が疾病の中心だった頃の健康は「健康=病気がない状態」「不健康=病気がある状態」にほぼ二分できた。これを表すのが医療社会学の「病人役割」(sick role)である。

病人役割は医療社会学の本に必ず登場する古典的なモデルであり、病気になった人は(1)通常の社会的役割を免除される、(2)病気という現在の状態に関して責任を問われない、(3)回復に向けて努力する義務がある、(4)専門的援助を求め医師に協力する義務がある――の4つを満たすという4

このように「健康=病気がない状態」「不健康=病気がある状態」に切り分けることが容易な状況では、患者を通常の社会的役割に戻すことが医療の役割になる。さらに医療政策についても患者の早期社会復帰を促す医療保険の拡大・拡充か、感染症を封じ込めるための公衆衛生に力点が置かれていた。実際、初めて発刊された1956年版の『厚生白書』では、既に特効薬の開発で結核による死亡率は減少していた時期だったが、それでも結核対策に相当な紙幅を割く形で、専門病院の整備や検査の充実などの施策を列挙している5

しかし、疾病の中心は慢性疾患に変わり、病人役割の考え方をダイレクトに適用しにくい場面が増えてきた。慢性疾患の患者は「病気がない状態」に戻るのは難しく、逆に病気や障害6と上手く付き合いつつ、通常の社会的な役割を果たすことが可能なためだ。

さらに、高齢者人口の増加も影響する。通常、人は加齢とともに何かしら心身に不具合を感じるようになる分、高齢者人口の増加に伴い、心身の不具合を恒常的に感じている人は増えてくる。言い換えると、高齢化とは「病気がない状態」が難しい人が増えることを意味する。
 
1 酒井シヅ編著(1999)『疫病の時代』大修館書店を参照。
2 速水融(2006)『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店を参照。
3 表1の統計は2000年度まで10年刻みでしか表記していないが、悪性新生物がトップになったのは1981年度のことである。
4 Talcott Parsons(1951)“The Social System”〔佐藤勉訳(1974)『社会体系論』岩波書店〕を参照。
5 厚生省編(1956)『厚生白書』を参照。
6 「障害」は元々、「障碍」と表記されていたが、戦後に「碍」が当用漢字、常用漢字にならなかったため、代わりに「害」の字を当てた経緯がある。近年、「害」の字が不快にさせる可能性があるとして、「障がい」「しょうがい」と表記するケースも見られるが、本レポートは原則として法令上の表記に沿って「障害」と記述する。
2|健康の定義
では、「健康」はどのように定義されているのだろうか。WHO(世界保健機関)は1946年7月に取りまとめた憲章で、「健康とは病気がないとか弱っていないというだけではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態であること」と定義している7

しかし、これは感染症が中心だった時代の議論である。先に触れた通り、疾病構造の変化や高齢化の進展を踏まえると、「肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態」は困難となる。

むしろ、アメリカの著名な微生物学者、ルネ・デュボスが記した健康論の古典的な書籍に注目したい。ここでは、周りの環境の変化などに適応する人間本来の生物的な特性を重視しつつ、「生きているという過程は生体と環境の間の、ときには傷害や病気をもたらすような複雑な相互作用である」と指摘した上で、健康について以下のように述べている8
完全で積極的な健康という考えは、人間のこころのユートピア的な創造物である。人間の生活に、闘い、失敗、あるいは苦悩が入りこまないというまでに、人間がその環境に完全に適応し切ることは決しておこらないだろうから、この考えが現実のものとなることはありえない。

さらにデュボスは別の書籍で健康について、「人間がいちばん望む種類の健康は、必ずしも身体的活力と健康感にあふれた状態ではないし、長寿を与えるものでもない。(略)各個人が自分のためにたてた目標に到達するのにいちばん適した状態」と定義している9

これは近年、オランダの女性医師であるヒューバーらが提起した新たな健康の概念と共通している。ここでは「完全に満足している状態」とするWHOの定義が医学で対応せずに済む問題を医学で解決しようとする「医療化」などの弊害を招くとした上で、健康を身体的、精神的、社会的な側面で環境の変化や問題に「適応し、対応できる能力」(the ability to adapt and self manage)と定義しており、半世紀前の指摘と驚くほど共通している10

こうした議論に従うと、病気の有無だけで健康と不健康を線引きできない点、さらに人間の心身や健康状態が周りの環境から大きく影響を受ける点に留意する必要がある。
 
7 日本WHO協会ウエブサイト「健康の定義について」を参照。ここでは詳しく述べないが、1998年に「dynamic」「spiritual」の単語を定義に加える提案が示され、採択されなかった。
http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html
8 Renē Dubos(1965)“Man Adapting”〔木原弘二訳(1970)『人間と適応』みすず書房p263、p275〕。
9 Renē Dubos(1959)"Mirage of Health"〔田多井吉之介訳(1977)『健康という幻想』紀伊國屋書店pp208-209〕。
10 Machteld Huber et al(2011)“How should we define health?”British Medical Journal 343(4163)
3|主観と客観の食い違い
さらに議論を発展させると、「自分が健康か否か」の判断について、主観と客観が食い違う状態が生まれる。例えば、自分が何か病気や障害を持っており、医師の診断で「不健康」と認定されたとしても、病気や障害に適応できている状態を維持できたり、自らが立てた目標を満たせるように努力したりしている場合、「健康」と言える可能性がある。あるいは医学的に「健康」と見なされたとしても、その人が何らかの理由で心身に不安を感じていれば、「不健康」と見なすこともできる。その結果、「客観的には不健康だが、主観的には健康」「客観的には健康だが、主観的には不健康」という状況が生まれることになる。
図1:健康の主観と客観を巡るズレ こうした矛盾を考える素材として、医療社会学の書籍を参考にした図1を用いる11。横軸は個人的な基準から見た健康または病気(不健康)、縦軸は社会的基準から見た健康または病気(不健康)であり、両者の融和関係が崩れた時に「健康不安」が発生するという。以下、図1を手掛かりにしつつ、横軸を主観的な健康観、縦軸は客観的な健康観と言い換え、両者のズレを中心に議論を進めよう。

まず、「A」の象限は個人的基準、つまり主観的に健康であり、心身の不具合を感じておらず、社会的基準、つまり客観的にも健康である状態である。これは特に問題ないように映るが、社会的基準、つまり客観的に健康という判断への同調を迫られれば、健康に不安を感じる可能性がある。具体的には、自分は「健康」と思っているのに、健診の際、社会的基準に沿って「もう少し痩せた方が正常値に近くなり、もっと『健康』になれます」と迫られた時などが該当する。

「B」の象限は主観的に病気、つまり不健康だが、客観的には健康とされたケースである。体調が悪くて会社を休んでいるのに、周囲から「そんなに具合が悪くなさそうなのにズル休みだ」と批判されるケースが該当する。

続いて「C」の象限は主観的、客観的ともに不健康のケースである。両者の間でズレは発生していないが、先に触れた「病人役割」の考え方に沿うと、通常の社会的役割への復帰を迫られれば、やはり不安を感じる可能性がある。

「D」は主観的に健康なのに、客観的に「病気」、つまり不健康と考えられるケースである。例えば、本人は健康と思っているのに、健診で「要再検査」を受けるケースであろう。さらに言えば、本人が「正常(=健康)」と思ったとしても、医師が「精神に不具合がある(=病気)」と診断されてしまうケースも該当する。以下、精神疾患について少し考察を試みる。
 
11 上杉正幸(2008)『健康不安の社会学』世界思想社を基にしているが、図1は簡略化するなど改変を加えている。
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保険研究部   准主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

三原 岳 (みはら たかし)

研究・専門分野
医療・介護・福祉、政策過程論

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