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2024年03月29日

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1――はじめに

2023年3月期から有価証券報告書において人的資本に関する情報開示(管理職に占める女性労働者の割合、男性の育児休業等取得率、男女の賃金の差異)1が日本の上場企業に義務付けられたこと、機関投資家の間でESG(環境・社会・企業統治)投資2の中でも人的資本を含むS(Social:社会)の要因を一層重視する動きが起こっていることなどを背景に、「人的資本経営」に対する日本企業の関心が高まっている。

経済産業省Webサイト3によれば、「人的資本経営とは、人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方である」とされる。

経済産業省が2020年9月に公表した「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書」(通称「人材版伊藤レポート」)4では、これからの在るべき人材戦略を特徴付けるものとして、「3つの視点(Perspectives)」と「5つの共通要素(Common Factors)」から成る「3P・5Fモデル」5が提唱されている。さらに同省は、「人材版伊藤レポート」が示した内容をさらに深掘り・高度化し、特に3P・5Fモデルという枠組みに基づいて、それぞれの視点や共通要素を人的資本経営で具体化させようとする際に、実行に移すべき取組、およびその取組を進める上でのポイントや有効となる工夫を示した、「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書」(通称「人材版伊藤レポート2.0」)6を2022年5月に公表した。

本稿では、人材版伊藤レポートにて示された人的資本経営を特徴付ける視点・共通要素、人材版伊藤レポート2.0にて示された各視点・各共通要素の具体化のために実行すべき取組事項、その取組を推進する上でのポイントや工夫のうち、オフィス戦略が関連し大きく貢献し得る項目を抜粋し、その各項目に対するオフィス戦略の貢献の在り方について、筆者がこれまで提唱してきた独自のオフィス戦略論の考え方に基づいて考察することとしたい。このような考察を通じて、結論としては、「メインオフィス(本社、中核的な研究所、主要地域に立地する中核的な各種拠点など本拠となるオフィス)は、人的資本経営を実践するためのプラットフォーム(基盤)の役割を果たすべきである」との考え方を提案したい。
 
1 本体(単体)に加え、主要な連結子会社についても開示されている。男女の賃金の差異は、男性の賃金に対する女性の賃金の割合を示し、全労働者、うち正規雇用労働者、うちパートタイマー・有期労働者の3つについて開示されている。
2 「ESG投資」とは、企業の環境(E:Environment)、社会(S:Social)、企業統治(G:Governance)への配慮・対応を重視し、投資プロセスにおいてESG要素を考慮する株式などへの投資を指す。また、ESGへの取り組みを愚直に実践し続ける企業経営を「ESG経営」と呼ぶ。
3 https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/index.html
4 https://www.meti.go.jp/shingikai/economy/kigyo_kachi_kojo/pdf/20200930_1.pdf
5 3P・5Fモデルを構成する3つの視点と5つの共通要素の具体的内容については、第2章にて後述する。
6 https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf

2――全社的に取り組むべき人的資本経営の実践

2――全社的に取り組むべき人的資本経営の実践

人材版伊藤レポートで提唱された「3P・5Fモデル」は、前述の通り、3つの視点と5つの共通要素で構成される。

同レポートでは、3つの視点と5つの共通要素の具体的内容について、「人材戦略は、産業や企業により異なるものの、俯瞰してみると、3つの視点(Perspectives)が存在する。①経営戦略と連動しているか(※経営戦略と人材戦略の連動)、②目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか(※As is-To beギャップ(現在の姿と目指すべき将来の姿のギャップ)の定量把握)、③人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか(※人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着)、という点である。また、人材戦略の具体的な内容として、5つの共通要素(Common Factors)が抽出される。まず、①目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているかという要素(動的な人材ポートフォリオ)が抽出される。他方、人材ポートフォリオが構築できても、多様な個人ひとりひとりや、チーム・組織が活性化されていなければ、生産性の向上やイノベーションの創出にはつながらない。こうした観点から、②個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあるのかという要素(知・経験のダイバーシティ&インクルージョン)、③目指すべき将来と現在との間のスキルギャップを埋めていく要素(リスキル・学び直し(※デジタル、創造性等))、④多様な個人が主体的、意欲的に取りくめているかという要素(従業員エンゲージメント)が抽出される。そして、新型コロナウイルス感染症への対応の中で、更に明確になった⑤時間や場所にとらわれない働き方の要素である」7と記述されている(図表1)。

同レポートは、この3つの視点と5つの共通要素に着目して、企業価値の持続的向上につながる人材戦略を策定・実行することを経営陣に求めている。

一方、人材版伊藤レポート2.0では、人材版伊藤レポートで提唱された3P・5Fモデルを受けて、各視点(P)・各共通要素(F)ごとに、それを人的資本経営で具体化させようとする際に、実行に移すべき取組について、(1)その取組の概要、(2)その取組の重要性(ポイント)、(3)その取組を進める上で有効な工夫、が示されている。3P・5Fの各項目ごとに実行に移すべき取組事項を図表2に示す。
図表1 人材戦略に求められる3つの視点・5つの共通要素(3P・5Fモデル)
人的資本経営においては、人材版伊藤レポートによれば、「経営陣、特にCHRO(最高人事責任者:Chief Human Resource Officer)のイニシアティブで人材戦略を策定し、経営陣のコアメンバー(5C:CEO(最高経営責任者:Chief Executive Officer)、CSO(最高経営戦略責任者:Chief Strategy Officer)、CHRO、CFO(最高財務責任者:Chief Financial Officer)、CDO(最高デジタル責任者:Chief Digital Officer))が連携して戦略を実行することが必要になる。加えてCHROには人材戦略を従業員や投資家に積極的に発信・対話する役割が重要となる。また、こうした経営陣の取組を監督・モニタリングする取締役会の役割、そして、経営陣と経営戦略や人材戦略について対話する投資家の役割も重要となる」という。

人的資本経営は、人事部門やその責任者であるCHROだけで行うのではなく、経営トップ(CEO)のコミットメントの下で、あらゆる経営資源や経営戦略を総動員し最適化することで実践しなければならない。すなわち、CEOの主導により、従業員や投資家など多様なステークホルダーを巻き込み共鳴・共感を得ながら、社内のあらゆる部門が関わり連携して全社的に取り組むことが欠かせない。
図表2 3つの視点・5つの共通要素(3P・5F)を具体化させるための取組事項
 
7 (※ )は、人材版伊藤レポートの他の箇所から引用して加筆したもの。

3――「企業文化」「従業員エンゲージメント」

3――「企業文化」「従業員エンゲージメント」「時間や場所にとらわれない働き方」に資するオフィス戦略

「人的資本経営は、経営トップのコミットメントの下で、あらゆる経営資源や経営戦略を総動員し最適化することで実践しなければならない」と前章にて述べたが、とりわけ不動産という経営資源としての「オフィス」、従業員の働き方(ワークスタイル)を内包する働く場(ワークプレイス)に関わる経営戦略としての「オフィス戦略」は、人的資本経営に向けた人材戦略の実践に大きく貢献し得ると考えられる。前述の3P・5Fモデルにおいて、とりわけオフィス戦略が関連し大きく貢献し得ると筆者が考える項目を抜粋すると、3Pの中の「視点③:企業文化への定着」、5Fの中の「要素④:従業員エンゲージメントを高める」および「要素⑤:時間や場所にとらわれない働き方を進める」が挙げられる(図表2)。

次に人材版伊藤レポート2.0にて示された、3P・5Fを各々具体化させるための取組事項、その取組を進める上で有効となる工夫のうち、3P・5Fから筆者が抜粋した3つの項目(視点③、要素④・要素⑤)について、とりわけオフィス戦略が関連し大きく貢献し得ると筆者が考える事項をさらに抜粋した。「視点③:企業文化への定着」については、「取組(3):CEO・CHROと社員の対話の場の設定」、「要素④:従業員エンゲージメントを高める」については、「取組(5):健康経営への投資とWell-beingの視点の取り込み」が各々挙げられる一方、有効な工夫の中にはオフィス戦略と関連性の強い項目が見い出されなかった(図表3)。

次に「要素⑤:時間や場所にとらわれない働き方を進める」については、「取組(1):リモートワークを円滑化するための、業務のデジタル化の推進」、およびこのための有効な工夫のうち、「工夫1:コミュニケーションツールのデジタル化」、「工夫3:サテライトオフィス等の整備」が挙げられる(図表3)。さらに「取組(2):リアルワークの意義の再定義と、リモートワークとの組み合わせ」、およびこれに紐づく「工夫1:リアルワークで行う必然性のある職務の特定」、「工夫2:部門を超えたコミュニケーション機会の確保」が挙げられる。
図表3 オフィス戦略が大きく貢献し得る3つの視点・要素:具体化のための取組と有効な工夫
人材版伊藤レポートおよび同レポート2.0では、基本的にオフィスやオフィス戦略に関わる直接的な記述はほぼ見当たらないが、「要素⑤:時間や場所にとらわれない働き方」のパートに限っては、他のパートに比べ例外的に比較的多くの紙幅が、オフィス戦略に関わる記述に割かれている。例えば、「取組(1):リモートワークを円滑化するための、業務のデジタル化の推進」に紐づく「工夫3:サテライトオフィス等の整備」では、「多様な働き方を認める中で、本社から離れた場所で働く人材や、リモートワークを希望しつつも、事情により自宅では勤務ができない人材等が出てくることが想定される。このような人材に対して、郊外や地方のサテライトオフィスの整備や、シェアリングスペース等を活用した勤務を認めることを検討する。また、地域との関係性構築や、イノベーションの創出といった観点から、リモートワークを活用し、観光地等、普段の職場とは異なる場所で仕事を行う『ワーケーション』の活用も検討する」との記述があり、企業が働き方・働く場の多様な選択肢を用意することの重要性を具体的に説き、オフィス戦略の重要な論点の1つに踏み込んでいる。

以下では、人材版伊藤レポートにて示された、人的資本経営に求められる3P・5Fのうち、とりわけオフィス戦略が強く関連し大きく貢献し得ると筆者が考える項目、すなわち、「視点③:企業文化への定着」、「要素④:従業員エンゲージメントの向上」、「要素⑤:時間や場所にとらわれない働き方の推進」に資するオフィス戦略の在り方を中心に、筆者の考え方を紹介したい。
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社会研究部   上席研究員

百嶋 徹 (ひゃくしま とおる)

研究・専門分野
企業経営、産業競争力、産業政策、イノベーション、企業不動産(CRE)、オフィス戦略、AI・IOT・自動運転、スマートシティ、CSR・ESG経営

経歴
  • 【職歴】
     1985年 株式会社野村総合研究所入社
     1995年 野村アセットマネジメント株式会社出向
     1998年 ニッセイ基礎研究所入社 産業調査部
     2001年 社会研究部門
     2013年7月より現職
     ・明治大学経営学部 特別招聘教授(2014年度~2016年度)
     
    【加入団体等】
     ・日本証券アナリスト協会 検定会員
     ・(財)産業研究所・企業経営研究会委員(2007年)
     ・麗澤大学企業倫理研究センター・企業不動産研究会委員(2007年)
     ・国土交通省・合理的なCRE戦略の推進に関する研究会(CRE研究会) ワーキンググループ委員(2007年)
     ・公益社団法人日本ファシリティマネジメント協会CREマネジメント研究部会委員(2013年~)

    【受賞】
     ・日経金融新聞(現・日経ヴェリタス)及びInstitutional Investor誌 アナリストランキング 素材産業部門 第1位
      (1994年発表)
     ・第1回 日本ファシリティマネジメント大賞 奨励賞受賞(単行本『CRE(企業不動産)戦略と企業経営』)

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【人的資本経営の実践に資するオフィス戦略の在り方-メインオフィスは人的資本経営実践のためのプラットフォームに】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

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