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- 歴史と文化を感じさせる街カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)-2018FIFAワールドカップロシア大会の開催都市の1つ-
コラム
2018年03月12日
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はじめに
皆さん、「ケーニヒスベルク」という都市をご存知だろうか。実は、2017年12月の研究員の眼で述べた「ゴールドバッハの予想」の中で、ゴールドバッハの出身地として紹介した。現在はロシアの飛地領であり、カリーニングラードという名称の都市になっている。ロシアの主要都市で、今年開催される2018FIFAワールドカップロシア大会の開催都市の1つとなっている。一方で、多くの著名人と深い関わりのある都市でもある。
今回は、この「ケーニヒスベルク」について紹介したい。
今回は、この「ケーニヒスベルク」について紹介したい。
ケーニヒスベルクの歴史
ケーニヒスベルクという名前からわかるように、これはドイツの都市の名前である。ドイツ語でKönigsbergとなるが、これは「王の山」の意味を有している。もともとはドイツ人の東方殖民によって1255年にドイツ騎士団によって建設された都市であり、ハンザ同盟に属するバルト海の貿易都市として栄えた。20世紀前半まではドイツの東北辺境の東プロイセンの重要都市であり、プロイセン王の戴冠式も行われていた。
第2次世界大戦の末期に東部戦線の激しい戦場となり、1945年4月6日から4月9日に行われた(ソ連の)赤軍とのケーニヒスベルクの戦いでドイツ軍が降伏してケーニヒスベルクは陥落した。ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連に併合された。
1946年7月4日に、ケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去したソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンに因んで、カリーニングラードに改称された。その後、ドイツ時代の遺物であるケーニヒスベルク城、ケーニヒスベルク大聖堂などの歴史的建造物は殆ど破壊された。
ドイツ系市民は、戦時中から西部ドイツ等へと避難していたが、多くの市民が亡くなったり、殺されたりして、戦後残留していた市民は追放されてソ連占領地域(後の東ドイツ地域)やシベリアの強制収容所等に移送された。代わりに大量のソ連市民が移住してくることで、カリーニングラードは完全にソ連の都市となった。
カリーニングラードは、不凍港であったことから、バルト(バルチック)艦隊の拠点として、ソ連にとって戦略的に重要な軍事都市となり、冷戦時代には外国人の訪問が規制される閉鎖都市だった。
また、古くから世界有数の琥珀の産地としても有名だった。現在のカリーニングラード州は、人口100万人弱の、ポーランドとリトアニアに囲まれたロシアの飛地領である。EU諸国に囲まれている「陸の孤島」であるが、その地理的な特異性を生かして、周辺国との経済関係を深めるとともに、かつてのケーニヒスベルクの歴史を見直して、観光に積極的に利用しようとする動きも見せてきている。
第2次世界大戦の末期に東部戦線の激しい戦場となり、1945年4月6日から4月9日に行われた(ソ連の)赤軍とのケーニヒスベルクの戦いでドイツ軍が降伏してケーニヒスベルクは陥落した。ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連に併合された。
1946年7月4日に、ケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去したソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンに因んで、カリーニングラードに改称された。その後、ドイツ時代の遺物であるケーニヒスベルク城、ケーニヒスベルク大聖堂などの歴史的建造物は殆ど破壊された。
ドイツ系市民は、戦時中から西部ドイツ等へと避難していたが、多くの市民が亡くなったり、殺されたりして、戦後残留していた市民は追放されてソ連占領地域(後の東ドイツ地域)やシベリアの強制収容所等に移送された。代わりに大量のソ連市民が移住してくることで、カリーニングラードは完全にソ連の都市となった。
カリーニングラードは、不凍港であったことから、バルト(バルチック)艦隊の拠点として、ソ連にとって戦略的に重要な軍事都市となり、冷戦時代には外国人の訪問が規制される閉鎖都市だった。
また、古くから世界有数の琥珀の産地としても有名だった。現在のカリーニングラード州は、人口100万人弱の、ポーランドとリトアニアに囲まれたロシアの飛地領である。EU諸国に囲まれている「陸の孤島」であるが、その地理的な特異性を生かして、周辺国との経済関係を深めるとともに、かつてのケーニヒスベルクの歴史を見直して、観光に積極的に利用しようとする動きも見せてきている。
ケーニヒスベルクゆかりの著名人
ケーニヒスベルクにゆかりのある著名人は多くいる。
例えば、偉大なる哲学者のカント(イマヌエル・カント:Immanuel Kant)は、ケーニヒスベルクで生まれ育ち、ケーニヒスベルク大学の教授であった。亡くなったのもケーニヒスベルクにおいてであり、カントの霊廟はケーニヒスベルク大聖堂にある。
「現代数学の父」と呼ばれ、非常に多岐にわたる分野での業績があるヒルベルト(ダフィット・ヒルベルト:David Hilbert)も、ケーニヒスベルクで生まれ育った。1900年のパリの国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」は、その後、数多くの数学者がこの問題に取り組んだことで、20世紀の数学の方向性を形作るものになった。日本の有名な数学者である高木貞治氏はドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。
数学者としては、以前の研究員の眼で述べたゴールドバッハに加えて、オイラー(レオンハルト・オイラー:Leonhard Euler)も、以下で述べる「ケーニヒスベルクの橋の問題」で、ケーニヒスベルクに関わっている。
作家、作曲家、画家等として多彩な分野で才能を発揮したホフマン(エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン:Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)1もケーニヒスベルクで生まれ育った。ホフマンの作品を基にした楽曲としては、オペラの「ホフマン物語」(ジャック・オッフェンバック作曲)やバレエの「くるみ割り人形」(ピョートル・チャイコフスキー作曲)、「コッペリア」(レオ・ドリーブ作曲)等が有名である。
また、「楽劇王」として知られる偉大な作曲家であるワーグナー(ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー: Wilhelm Richard Wagner)もケーニヒスベルクに住んでいたことがあり、この地で最初の妻である女優のミンナ・プラーナーと結婚している。
日本人でも、関わりのある人はいる。第2次世界大戦中に多くのユダヤ人等に大量のビザを発行して6,000人に及ぶ避難民を救ったことで「東洋のシンドラー」として有名な杉原千畝氏は、リトアニアの赴任後、ケーニヒスベルクに外交官として赴任していた。
以上のように、カリーニングラード(ケーニヒスベルク)は、悲惨な過去を経験した歴史を有する街であるが、一方で文化の香りを強く感じさせる街である。
1 筆名は、エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)で、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにあやかって、「アマデウス」を付与しており、通常E.T.A.ホフマンと呼ばれる。
例えば、偉大なる哲学者のカント(イマヌエル・カント:Immanuel Kant)は、ケーニヒスベルクで生まれ育ち、ケーニヒスベルク大学の教授であった。亡くなったのもケーニヒスベルクにおいてであり、カントの霊廟はケーニヒスベルク大聖堂にある。
「現代数学の父」と呼ばれ、非常に多岐にわたる分野での業績があるヒルベルト(ダフィット・ヒルベルト:David Hilbert)も、ケーニヒスベルクで生まれ育った。1900年のパリの国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」は、その後、数多くの数学者がこの問題に取り組んだことで、20世紀の数学の方向性を形作るものになった。日本の有名な数学者である高木貞治氏はドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。
数学者としては、以前の研究員の眼で述べたゴールドバッハに加えて、オイラー(レオンハルト・オイラー:Leonhard Euler)も、以下で述べる「ケーニヒスベルクの橋の問題」で、ケーニヒスベルクに関わっている。
作家、作曲家、画家等として多彩な分野で才能を発揮したホフマン(エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン:Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)1もケーニヒスベルクで生まれ育った。ホフマンの作品を基にした楽曲としては、オペラの「ホフマン物語」(ジャック・オッフェンバック作曲)やバレエの「くるみ割り人形」(ピョートル・チャイコフスキー作曲)、「コッペリア」(レオ・ドリーブ作曲)等が有名である。
また、「楽劇王」として知られる偉大な作曲家であるワーグナー(ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー: Wilhelm Richard Wagner)もケーニヒスベルクに住んでいたことがあり、この地で最初の妻である女優のミンナ・プラーナーと結婚している。
日本人でも、関わりのある人はいる。第2次世界大戦中に多くのユダヤ人等に大量のビザを発行して6,000人に及ぶ避難民を救ったことで「東洋のシンドラー」として有名な杉原千畝氏は、リトアニアの赴任後、ケーニヒスベルクに外交官として赴任していた。
以上のように、カリーニングラード(ケーニヒスベルク)は、悲惨な過去を経験した歴史を有する街であるが、一方で文化の香りを強く感じさせる街である。
1 筆名は、エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)で、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにあやかって、「アマデウス」を付与しており、通常E.T.A.ホフマンと呼ばれる。
ケーニヒスベルクの橋の問題
ケーニヒスベルクと聞いて「ケーニヒスベルクの橋の問題」を思い出す人もいるかもしれない。
「ケーニヒスベルクの橋の問題」とは、次のような問題である。
ケーニヒスベルクの中央に、プレーゲル川という大きな川が流れているが、18世紀の初め頃に7つの橋が架けられていた。このプレーゲル川に架かっている7つの橋を2度通らずに、全て渡って、元の場所に戻ってくることができるか。
オイラーは、この問題をグラフで表して、このグラフが一筆書き可能であるか否かという問題に置き換え、それが不可能であることを証明した(こうしたグラフが一筆書き可能であるためには、全ての頂点から出ている線の数が偶数(→この場合起点に戻ってくることが可能)か、2つの頂点からの線の数が奇数で残りの頂点からの線の数は全て偶数(→この場合起点には戻らない)であることが必要十分条件となる)。この考え方は、グラフ理論や位相幾何学につながっていくことになる。
「ケーニヒスベルクの橋の問題」とは、次のような問題である。
ケーニヒスベルクの中央に、プレーゲル川という大きな川が流れているが、18世紀の初め頃に7つの橋が架けられていた。このプレーゲル川に架かっている7つの橋を2度通らずに、全て渡って、元の場所に戻ってくることができるか。
オイラーは、この問題をグラフで表して、このグラフが一筆書き可能であるか否かという問題に置き換え、それが不可能であることを証明した(こうしたグラフが一筆書き可能であるためには、全ての頂点から出ている線の数が偶数(→この場合起点に戻ってくることが可能)か、2つの頂点からの線の数が奇数で残りの頂点からの線の数は全て偶数(→この場合起点には戻らない)であることが必要十分条件となる)。この考え方は、グラフ理論や位相幾何学につながっていくことになる。
2018FIFAワールドカップロシア大会の開催都市の1つ
カリーニングラードは、2018 FIFAワールドカップの開催都市の1つである、と述べた。カリーニングラード・スタジアムは収容人数45,000 人を超えるものになるとのことであるが、残念ながら、日本の試合はここでは行われない2。従って、テレビ等でワールドカップ開催都市の紹介が行われるような機会があったとしても、カリーニングラードが対象になることはないかもしれない。
2 カリーニングラード・スタジアムで予定されている試合は、グループリーグにおける、スペインvsモロッコ、クロアチアvsナイジェリア、セルビアvsスイス、イングランドvsベルギー、の4試合である。
2 カリーニングラード・スタジアムで予定されている試合は、グループリーグにおける、スペインvsモロッコ、クロアチアvsナイジェリア、セルビアvsスイス、イングランドvsベルギー、の4試合である。
最後に
私は、大学時代に数学を専攻し、個人的に音楽を趣味としていることから、先に述べた著名人が関わった街として、以前からケーニヒスベルクという街に興味関心を抱いていた。ただし、これまでに、ドイツやロシアには観光やビジネスで何回か訪問し、ポーランドやリトアニアにも旅行したことはあるが、カリーニングラード(ケーニヒスベルク)には行ったことがない。この都市を観光ルートに加えているツアーは極めて限られており、ポーランド周遊の中で含まれているケースが見られるくらいのようである。もちろん、個人旅行として訪問することはできる。
今回、カリーニングラードが2018FIFAワールドカップロシア大会の開催都市の1つになっていることを知って、個人的には改めてケーニヒスベルクへの興味関心を呼び起こされた形になった。
いつかは訪れてみたい街の一つであり、定年後に時間ができたら是非考えてみたいと思っている。もちろん、現在のカリーニングラードは、昔の古き良きドイツの時代のケーニヒスベルクとは異なる雰囲気の街になっているだろう。ただし、「ケーニヒスベルクの橋の問題」のテーマになったルートを辿って、カントやヒルベルトやホフマンが生まれ育った街を散策するのは、何となく楽しい気持ちがしないだろうか。こんなことを言うと、かなりオタクのように思われるかもしれないが、それはそれで良し、若き日の憧れをどこかで忘れずに持ち続けていたいと思っている。
今回、カリーニングラードが2018FIFAワールドカップロシア大会の開催都市の1つになっていることを知って、個人的には改めてケーニヒスベルクへの興味関心を呼び起こされた形になった。
いつかは訪れてみたい街の一つであり、定年後に時間ができたら是非考えてみたいと思っている。もちろん、現在のカリーニングラードは、昔の古き良きドイツの時代のケーニヒスベルクとは異なる雰囲気の街になっているだろう。ただし、「ケーニヒスベルクの橋の問題」のテーマになったルートを辿って、カントやヒルベルトやホフマンが生まれ育った街を散策するのは、何となく楽しい気持ちがしないだろうか。こんなことを言うと、かなりオタクのように思われるかもしれないが、それはそれで良し、若き日の憧れをどこかで忘れずに持ち続けていたいと思っている。
(2018年03月12日「研究員の眼」)
中村 亮一のレポート
日付 | タイトル | 執筆者 | 媒体 |
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