コラム
2014年01月20日

「専門知」と「市民知」の協働- 成熟社会への道程

土堤内 昭雄

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近年、科学技術が進歩すればするほど、その力だけでは解決できない複雑な社会的課題があるように思う。たとえば再生医療における生命倫理や原発再稼動の是非など、科学的知見だけでは解決の方向性が見えてこない。このようなトランスサイエンス的な課題に応えるためには、科学者の「専門知」と一般社会の「市民知」の協働が必要だろう。

イタリアでは2009年のラクイラを襲った地震の予知をめぐり、2012年に科学者6人に実刑判決が下った*。その結果、専門家と市民の間に相互不信が生じている。ラクイアの場合、専門家がいかに科学的知見を効果的に市民に伝えるのか、また市民はすべてを専門家に委ねるのではなく、いかに自らが主体的に判断を下すのかということが問われているのだと思う。

日本でも同様に、福島の原発事故を契機に地震学者や原子力の専門家に対する不信感が募っている。このような相互不信を解消するためには具体的にどうすればよいのだろう。鷲田清一著『パラレルな知性』(晶文社、2013年)には、多くのヒントが示されている。科学がまず「限界」の知であることや科学研究を超えるトランスサイエンス的問題には専門家は存在しないことを認識し、専門家の論争に決着がつく前に市民が議論に加われるようにしておくことが重要だという。

また、専門的研究は科学技術のリスクにさらされた市民をサポートすることで市民の厚い信頼を得られる一方、市民は専門家への委託により当事者能力を失っており、問題解決のコンテクストを創り出してゆく「専門知」と「市民知」のパラレル・キャリアの養成が必要だとしている。

私は最近『ハンナ・アーレント』という映画を見た。ユダヤ人哲学者アーレントが、ナチスの戦犯を裁く裁判の傍聴録である。彼女は、思考を停止した人間が犯した大罪を個人の罪としてではなく、「悪の凡庸」という社会的病理として捉えている。人間は複雑な社会構造の中で、ひとつの歯車として組織の命令に従っているうちに、誰もが重大な罪を犯す存在になってしまうかもしれないのだ。

さまざまな社会的課題を職業政治家や官僚に丸投げし、市民が政治や行政サービスの顧客と化してしまうことは、ある意味、自らの思考を停止する危うさをはらむ、市民は知的体力を向上させることが必要だ、と鷲田さんは指摘する。高度な専門知識が必要な司法判断においても、裁判員制度による市民感覚の導入が求められているように、社会がますます高度に分業化する中、自ら考える自立した市民による成熟社会への道程には、「専門知」と「市民知」の協働が不可欠になっているのである。




 
* 2009年4月6日、イタリア中部のラクイラ市で地震が発生し、300名以上の死者が出た。当地は08年から群発地震に見舞われ市民の不安が高まっていた。そのためイタリア政府は地震学者を集めた地震予知の災難委員会を開催して安全宣言を出したが、その6日後に地震が発生した。地震で犠牲となった人の遺族が、関係する科学者6名を起訴し、2012年10月に禁固6年の実刑が言い渡された。

(2014年01月20日「研究員の眼」)

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