2022年09月05日

北京銀行での行列、原因は引き出し自由な‘医療専用口座’の存在

保険研究部 主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任 片山 ゆき

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8月19日、北京銀行の支店の前には市民が殺到し、長蛇の列ができたことが報道された1。折しも7月以降、河南省や安徽省の地方銀行では預金が凍結され、引き出せなくなる事態も発生しており、地方銀行の動きに預金者が敏感になっているというタイミングでもあった。北京銀行でも同じ状況かと思われたが、その原因は全く異なる。それは、北京市当局による公的医療保険制度の健全化にあった。
 
北京市が管轄する公的医療保険制度は、雇用主である企業と従業員である個人がそれぞれ保険料を拠出している2。雇用主が拠出した保険料は北京市共通の基本医療保険基金に積み立てられ、入院給付などに使用される。従業員の拠出分は、医療保険専用の個人口座(医療口座)が設置され、積み立てられる。北京市では、この医療口座を北京銀行や北京農村商業銀行が管轄している。医療口座は、本来、通院の自己負担部分の支払いや、診療後の薬代の支払いの際に活用するために設置されたものである。
 
しかし、北京市においては、これまで医療口座の資金を自由に引き出すことができ、別の目的で使用することも可能であった。行列ができたのは、北京市当局が8月19日に、9月1日以降、医療口座の資金は医療費などの支払いに限定すると発表したためである3。焦った加入者が北京銀行に押しかけ、医療口座の資金を引き出すといった事態となった4
 
この医療口座は医療保険制度の改革の一環で1990年代半ば以降、全国で導入されている。一度も引き出していないとなると、人によってはそれなりの金額が積み立てられていることになる。銀行側は、9月1日以降、医療保障カードなどを通じて、本来の目的である医療費への支払いなどに限定されることになるが、医療口座の資金は没収されるのではなく引き続き本人のものであること、医療口座の管轄は市の専門機関に変更となるが、口座の資金残高は医療保険専用サイトで引き続き確認できることなどを説明し、事態の収拾をはかった。
 
北京市当局にしてみれば、医療口座の役割を本来の姿に戻すという‘最後の一押し’が政策の趣旨であろう。2021年4月、国は地方政府に、医療保険制度の改革の一環として医療口座の使用範囲を明確に規制するよう求めている4。また、北京市当局も国の通知を受けて、2021年8月に別途通知を発出し、医療口座の使用範囲について注意を促している5。北京市当局としても、今般のような政策を突然出したというわけではない。 
 
北京市が出した2021年8月の通知では、医療口座の資金は、加入者が指定した医療機関または診療薬の販売拠点において、自己負担部分の支払いに使用することができるとしている。また、加入者本人に加えて、その配偶者、父母、子女の医療費、薬代、医療機械、医療消費財の自己負担部分に使用することもできるとしている。その一方、公的医療保険で適用されない費用の支払いに使用してはならないと明確化した。
 
翻って、今般の2022年8月の北京市当局の通知をみると、重要な内容は大きく分けて2つある。1つ目は上掲の9月1日以降の医療口座資金の使用についてであるが、2つ目は再分配機能の向上である。当局としては、この2つ目の方に重きを置いているのではないであろうか。

それは、2023年1月1日から、通院(急診を含む)の年間給付限度額2万元(約40万円)を撤廃し、2万元を超える医療費についても給付対象とするという新たな措置である。現行の北京市の通院給付は、年間の医療費1,800元(約36,000円)までは全額自己負担で支払い(免責額)6、1,800元から2万元までについてのみ公的医療保険による給付の対象となっている7。つまり、2万元を超える通院費は100%自己負担となる。これが2023年からは2万元以上の部分についても給付対象とするとしたのである。なお、自己負担は40%であるが、上限を設けない形で通院給付がされることになる。
 
通院給付の政策緩和は、医療保険制度全体から見れば部分的ではある。しかし、疾病リスクの低い加入者から、高齢者などリスクの高い加入者へのリスクカバー範囲が拡大することになる。また、保険料は所得に応じて徴収されていることから、給付上限がなくなることで、再分配の効果も向上することになるであろう。北京市当局は、この通院給付の緩和措置によって恩恵を受ける加入者は17万人、負担軽減はおよそ10億元にのぼると試算している8。国としても医療保険におけるリスク分散、再分配機能の向上を目指しており9、その先には所得格差の是正、共同富裕の実現がある。今般は、北京銀行での行列によって注目が集まったが、北京市当局の政策は、制度における機能を健全化し、更に、社会保障の役割である所得格差の是正に向けた小さな一歩と捉えることもできよう。
 
 
1 北京日報「北京銀行提示:不必着急到網点排隊取款 已打入医保存折資金仍可支取」、2002年8月19日、https://china.huanqiu.com/article/49IsewN9GEx  2022年8月29日アクセス。日本においても、8月21日に読売新聞「預金引き出そうと「北京銀行」に行列できる騒ぎ・・・市当局の新規制が発端か」、https://www.yomiuri.co.jp/world/20220821-OYT1T50095/(2022年8月29日アクセス)など同様の報道がなされている。
2 北京市の公的医療保険制度は2階建てとなっており、1階部分が基本医療保険、2階部分が高額医療費用互助保険となっている。保険料は雇用主が基本医療保険料として従業員の総賃金の8.8%、高額医療費用互助保険料として、1%を負担。従業員は基本医療保険料として、前年の本人の平均賃金の2%と、高額医療費用互助保険料として3元を負担。このうち、個人の医療保険専用口座に積み立てられるのは、前年の本人の平均賃金の2%となる。
3 北京市医療保障局「関于調整本市城鎮職工基本医療保険有関政策的通知」、2022年8月19日、
http://www.beijing.gov.cn/zhengce/zhengcefagui/202208/t20220820_2796348.html  2022年8月29日アクセス
4 国務院弁公庁「関于建立全職工基本医療保険門診共済保障機制的指導意見」、2021年4月13日、
http://www.gov.cn/xinwen/2020-08/27/content_5538051.htm  2022年8月29日アクセス
5 出典:「関于城鎮職工基本医療保険個人賬戸使用範囲的補充通知」http://www.btch.edu.cn/jyfw/ybzl/zcfg_ybzl/79130.htm  2022年8月29日アクセス
6 『中国衛生健康統計年鑑2020』によると、2020年の北京市における平均通院費は前年比21.5%増の682.1元、平均入院費は前年比14.9%増の26846.9元である。
7 自己負担も最も基層の医療機関(社区衛生サービスセンター)で10%、上位病院となる指定医療機関では30%となっており、上位病院の方が自己負担割合が高くなっている。
8 出典は、中華人民共和国中央人民政府「北京明年起不再設置職工医保門診最高支付限額」、2022年8月19日。http://www.gov.cn/xinwen/2022-08/19/content_5706053.htm、 2022年8月29日アクセス。また、北京市医療保障局によると、2021年末時点での北京市の都市職工医療保険の加入者は1486万人、基金からの支出は1359億元となっている。
9 出典は注釈5参照。
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保険研究部   主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任

片山 ゆき (かたやま ゆき)

研究・専門分野
中国の社会保障制度・民間保険

経歴
  • 【職歴】
     2005年 ニッセイ基礎研究所(2022年7月より現職)
     (2023年 東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了) 【社外委員等】
     ・日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
     (2019年度・2020年度・2023年度)
     ・生命保険経営学会 編集委員・海外ニュース委員
     ・千葉大学客員准教授(2023年度~) 【加入団体等】
     日本保険学会、社会政策学会、他
     博士(学術)

(2022年09月05日「基礎研レター」)

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