2019年06月07日

最低賃金、引上げを巡る議論-引き上げには、有効なポリシーミックスが不可欠

総合政策研究部 常務理事 チーフエコノミスト・経済研究部 兼任 矢嶋 康次

総合政策研究部 准主任研究員 鈴木 智也

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1――はじめに

政府は、6月にまとめる経済財政運営の基本方針(骨太の方針)で、最低賃金について「より早期に(労働者数の)全国加重平均が(時間額で)1,000円になることを目指す」との方針を盛り込む。最低賃金は、近年3年連続して年3%を超える引き上げが実施され、2018年には全国加重平均が874円となる中、今年は最低賃金の更なる引き上げ加速を促す。

日本の最低賃金の水準は、先進国の中でも低いことが知られている。すべての企業に強制的な賃上げを促す最低賃金の引き上げは、直接的な賃金の押上げ効果だけでなく、消費への波及効果も大きいとされる。そのため、最低賃金の引き上げは、分配政策としてだけでなく経済政策としても効果が期待できるとの見方がある。その一方で、急激な最低賃金の引き上げは、中小企業や小規模事業者の経営に及ぼす影響が大きいとされる。経営の悪化は、雇用減少や廃業の増加などにつながるため、実態経済への悪影響を懸念して、より慎重な扱いを求める声も根強い。

本稿では、最低賃金制度の沿革と現状を振り返り、最低賃金引き上げによる経済への影響が、正反対となった英国と韓国の事例を整理し、日本ではどのように最低賃金の引き上げを実施していくべきかを考える。
 

2――日本の最低賃金制度

2――日本の最低賃金制度

1最低賃金の決定方式
最低賃金制度は、1959年に公布された最低賃金法(以下、最賃法)に基づいて、国が賃金の最低限度を定め、使用者はその最低賃金額以上の賃金を支払わなければならない、とする制度である。最低賃金は、毎年7月頃に、中央最低賃金審議会が都道府県別のランクに応じた引き上げ幅の「目安」を提示し、都道府県最低賃金審議会が地域の実情を反映させる審議答申を行い、8月頃に、都道府県労働局長が最終的な引き上げ幅を決定する。この最低賃金審議会は、公労使の各同数の委員から構成されており、公益委員が労働者代表と使用者代表の間に立つ形で合意形成を図っている。
2最低賃金の種類
審議会方式で決められる最低賃金には、地域別最低賃金と特定(産業別)最低賃金の2種類がある。都道府県別最低賃金は、産業や職種に関わりなく各都道府県に1つずつ設定されるものであり、すべての労働者に影響を与えることから、毎年の改定では大きな注目を集めている。一方、特定(産業別)最低賃金は、地域別最低賃金を上回る水準で賃金を設定することが必要と認められる産業について適用され、2019年3月時点で製造業を中心に229件が設定されている。

日本の最低賃金制度は、一部地域で始まった「業者間協定(賃金カルテル)」という仕組みを全国に展開して普及が進められたものである。この業者間協定は、直接には労働者の参画によらず、同一業種に属する使用者または使用者団体が、率先して地域の最低賃金を定めるという「世界に類例を見ない独特の最低賃金決定方式1」であった。そのため、日本の最低賃金は全国一律ではなく、それぞれの地域や産業の実態に則して決まるのが慣例とされてきた。しかし、労働者が関与しない決定方式である業者間協定は、労使が平等に参与すべきであると定めた国際労働機関(ILO)第26号条約に反するのではないかとの批判が根強く、1968年に廃止されることになる。この改定により、最低賃金の決定方式は、労使が参与する審議会方式に移行しているが、地域別と産業別の枠組みは残されることになり、「地域別最低賃金」「産業別最低賃金」という2つの制度が新設されている。労働者側は、労働組合を中心として全国一律の最低賃金を求める要望を出してきたが、1977年に同問題を議論する中央最低賃金審議会が、地域間および産業間等にある賃金格差は大きく、全国一律の最低賃金制度を開始するには時期早尚であるとの結論を最終報告にまとめ、議論は一旦棚上げされている。ただし、地域別最低賃金に全国的な整合性をもたせることについては、その必要性が認められ、中央最低賃金審議会が目安を作成して地方最低賃金審議会に提示する現行の仕組みが導入されている(図表1)。その後、2007年に最賃法は生活保護費との整合性を確保する形に改められているが、地域別と産業別の枠組みは変わらないまま現在に至っている。
  (図表1) 最低賃金の種類と決まり方
 
1 株式会社 労働開発研究会「季刊労働法 第226号」
(図表2) OECD諸国の最低賃金(対所得中央値) 3最低賃金の現状
日本の最低賃金は、国際的に見て低いことが知られている。図表2は、OECD諸国の最低賃金を各国の所得中央値に対する割合として示したものだ。購買力平価で見た場合、日本の最低賃金は欧州の中で最も低いスペインと同水準にあり、主要国の中では米国に次いで低くなっている。
(図表3) 都道府県別の最低賃金 国内では、地域間格差があることも分かっている。図表3は、地域別最低賃金の水準を視覚的に表したものである。地域別最低賃金は、関東、東海、近畿などの都市部では高く、東北、四国、九州などの地方部では低いことが示されている。実際、2018年の地域別最低賃金の全国加重平均は874円であるが、それを上回るのは東京(985円)、神奈川(983円)、大阪(936円)、埼玉(898円)、愛知(898円)、千葉(895円)、京都(882円)の7都府県だけであり、大部分はその水準に達していない。地域間にある最低賃金の格差は、地方の人口流出や外国人の集住といった問題を引き起こす要因の1つにもなっていると言われている。

最低賃金近傍で働く労働者には、パートやアルバイト、フリーターなどの非正規労働者が多いと言われている。独立行政法人労働政策研究・研究機構が行った研究(2016)2によると、地域別最低賃金未満(法律違反)で働く労働者は全体平均で1.9%であり、内訳を見ると一般労働者が0.9%であるのに対して、パートタイム労働者は4.8%と5倍以上高い。さらに、地域別最低賃金の+15%以内で働く労働者も、一般労働者は4.7%であるのに対してパートタイム労働者は39.2%と多くなっている。また、地域別最低賃金未満で働く労働者を年齢階層別にみると、20歳未満の若者と60歳以上の高齢者で多く、その傾向は男性よりも女性で顕著である。産業別には、「宿泊業・飲食サービス業(4.5%)」、「生活関連サービス業、娯楽業(3.4%)」、「卸売業、小売業(2.7%)」などパート労働者比率の高い産業で多い。地域別には、沖縄(3.8 %)、神奈川(3.6%)、北海道(3.4%)、大阪(2.9%)、青森(2.8%)などで多く、パートタイム労働者に限ってみると、地域別最低賃金未満で働く労働者はそれぞれ8%を超える。これには観光業や製造業など、各地域における産業構造の違いが影響した可能性がある。規模別には、事業規模が小さいほど地域別最低賃金未満で働く労働者は多いとされる。1,000人以上の企業では1.2%であるが、10人以上100人未満の企業では3.0%、5人以上10人未満の企業では4.3%になる。
 
2 独立行政法人 労働政策研究・研究機構「2007年の最低賃金法改正後の労働者の賃金の状況」(2016)
 

3――各国の先行事例

3――各国の先行事例

今般「骨太の方針」を策定する経済財政諮問会議では、最低賃金を現行より早いペースで引き上げていくことが議論されている。最低賃金の引き上げは、分配面の強化だけでなく、消費拡大や生産性向上など、様々な波及効果をもたらすと期待される。一方で、企業の経営難や失業者の増加など、様々なマイナスの影響も生じさせると考えられる。以下では、海外で見られた成功と失敗の事例をそれぞれ取上げ、日本ではどのように最低賃金を引き上げていくのが適切であるか、考えていきたい。
1英国の成功例 :補完措置が奏功?
最低賃金の引き上げが、経済社会にプラスの影響を及ぼした例としては、英国の事例を挙げることができる。
(図表4) 英国の最低賃金と失業率 英国では、1909年に産業別の最低賃金制度が導入されたあと1993年に一度廃止され、1999年に全国一律の最低賃金制度として復活している。その後、最低賃金は毎年引き上げが実施されており、最も多くの労働者に適用されるメインレートを見ると、復活当初の3.60ポンドから2019年には8.21ポンドと2.3倍に上昇している。この間の失業率は、2008年のリーマンショックやその後に深刻化した欧州債務危機で上昇しているものの、最低賃金が大幅に引き上げられた2000年代初頭はむしろ低下しており、最低賃金の引き上げが企業の雇用抑制を招き、失業率が上昇したと主張することは難しい(図表4)。また、1999年から2018年までの平均経済成長率(名目)は、日本の0.9%を上回る1.9%と高い水準を維持してきている。

英国において、最低賃金の引き上げが雇用や経済に大きな悪影響を与えなかったのは、引き上げと同時に、社会全体でその衝撃を受け止める様々な仕組みが導入されてきたからである。具体的には、最低賃金の引き上げペースが景気に配慮し適切に調整されたこと、雇用コストの上昇を企業が生産性の向上で補ったこと、流動化した雇用を職業訓練と組み合わせて労働力の質を高めてきたこと、などである。また加えて、負の所得税の考え方に基づく給付付き税額控除の仕組みも導入され、失業時にも最低限の生活水準が保証されるように、セーフティーネットが強化されたことも効果的であったと考えられる。経済への好循環は最低賃金の引き上げだけでなく、それを補完する労働市場改革と社会保障制度改革も重要との指摘はできるだろう。
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