コラム
2007年07月18日

三つの過剰対策の残したもの

常務取締役理事 神座 保彦

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日本企業は1990年代から2000年代初頭にかけての「失われた10年」の厳しい淘汰の時期を漸く乗り切り、生き残った企業は過去最高水準の利益を記録するところまで出現している。

この「失われた10年」は、企業が三つの過剰、すなわち、雇用の過剰、設備の過剰、負債の過剰への対策に費やした10年ということにもなろう。この間の企業経営の合言葉は「減量経営」であった。過剰な人員を解雇し、バランスシート上にある低収益資産を売却し、過剰な借入金の返済に充当した。努力の甲斐あってスリムな経営資源が効率的に利益を生み出すところまで到達し、企業業績が回復したことは日本企業の危機対応能力を示したことでもあり、その成果は賞賛されるべき部分も多かろう。

他方、修羅場の時期を過ぎてみると、この成功したはずの減量経営の置き土産の負の部分も見えて来る。典型的な減量経営の負の置き土産は、企業の抱える人材ポートフォリオに見られよう。減量経営が10年にも及んだため、役員・従業員が減量経営に適応し過ぎた点が典型例といえよう。すなわち、どの役員・従業員を見ても、「縮小均衡の達人」になっているということだ。まして、この期間に新規採用された約10年分の従業員については、この過程しか経験していない。

経済環境が好転して、いざ拡大を目指そうとしても、それを得意とする人材が少なくなっている状況は深刻だ。「失われた10年」で、事業環境と無関係に拡大戦略を叫ぶ人材に活躍の場がなくても当然であった。しかし、その結果は、いわば、ディフェンス・チームだけでアメリカン・フットボールを戦うような「攻めを忘れた」構造の定着といえよう。

縮小均衡に過剰適応したのは、企業関係者だけではないかも知れない。最近の国民世論では、格差の存在が耳目を集めているが、これは国民が「失われた10年」を過ごす中で上昇志向を忘れ去った結果かもしれないと懸念している。格差は乗り越える対象ではなく、抜け出せない枠組みとしての意味合いが強まっている。

格差を乗り越えることが自己実現であり、構成員の動機付けの源泉となっているのがプロ・スポーツの世界であろう。そこには、厳しい練習を通じて少しでも上を目指す行動原理が若干弱まったとは言われつつも残っている。

社会に存在する格差を是認したり、ワーキング・プアを個人の問題として切り捨てたり、国民の生活にプロ・スポーツの精神を無条件に取り入れろというつもりは毛頭ない。しかし、「失われた10年」のなかで日本国民が攻めの姿勢を忘れ、格差が永遠に抜け出せない枠組みとして目に映るような構造が強まっているとすれば、日本の国力衰退の予兆として懸念すべきことといえよう。
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神座 保彦 (じんざ やすひこ)

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