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今年の春闘も期待されたような効果を上げることなく終わったようである。かつてマルクスが唱えたような絶対的窮乏化論の亡霊が、生きているかのような錯覚を与えかねないわけではないが、どうも現在の賃金の大幅引き上げが困難な理由は、ただ単に労使の力関係といったものでなく、広く日本経済を取り巻く国際的環境が、日本だけの大幅賃上げを困難にしているようである。
今までの日本は、新しい技術の積極的取り入れによって、大幅な生産性の向上と賃金の引き上げが可能であり、それにより今日の経済の繁栄を築いてきた。いわば優れた技術と勤勉ささえあれば、高い生活水準を保障する高賃金は当然のようにみられてきた。しかしそのような幸せの時代も大きく転換し始めたようである。
かつての英国の繁栄は100年余続き、それに続く米国は約80年の繁栄を享受してきたが、日本のそれは、あったとしてもわずか四半世紀で終わろうとしている。
従来、技術の優位性というものは容易に追随を許さないものであり、またそのことが長い繁栄を可能にしてきた。しかるに最近は、交通、通信の発達で学術・技術の交流も盛んになり、技術の優位性を一国だけで保つのは難しく、早い速度で伝播していく。従って、後続する国々からのキャッチアップが非常に早く可能になった。
日本の得意品目であった、カラーTVやカメラが、今や輸入の方が輸出より多くなっていることは、近年の円高を背景とした産業の空洞化の進行だけでなく、日本の技術優位の喪失も反映しているようである。
このようなことは、日本だけの現象ではなく、米国、ドイツいずれにおいても顕著な現象である。過日、ドイツの経済学者で、賢人会議のハックス博士と話す機会があったが、「今のドイツの最大の問題は、賃金の上昇と、労働生産性の低下である。こうした状態が続けば、技術革新による再興は難しく、国際競争力の回復のためには、労働者の賃下げや労働時間の延長といった労働条件の低下が避けられない。しかし、それは政治的に大きな問題であり、現在のドイツの政情の中では大変難しい。」ということを苦衷の表情で打ち明けていた。
何故このように、各国で賃金引き上げが困難になったかは、世界経済に起こった出来事から見ると明白である。米国では、元々実質賃金はここ数年引き上げが行われてこなかったが、これに、メキシコを含む北米三国(将来は南米にも参加国を増やす予定)のNAFTAという市場統合によって、新たに数分の一の賃金水準のメキシコ人労働者が参入したわけで、これが、米国労働者の賃上げをますます困難にしている。同様のことは、欧州でも起こっており、EUはその範囲を拡大し、北欧、南欧の国々をメンバーにして、労働者の往来を自由にしたわけであるから、高賃金のドイツ、イギリス、フランスは、低賃金の脅威に晒されるわけで、先のハックス博士の言を待つまでもなく、そうした国々の賃上げは、産業の自殺行為になりかねない。
日本は、今まで先端技術の導入と大量生産方式によって、単位当たりのコストは切下げながら、労働者一人当たりの賃金は上げることに成功してきた。しかし、いかに大量生産の優位性をもってしでも、賃金水準が十分の一以下で、また質もさほど劣らない労働力が何億と存在するアジアの中にあって、日本の労働者だけが賃金の上昇を続けていくのは困難と言わざるを得ない。
日本の労働者は、その勤勉さと適応能力の速さでは群を抜いているとはいえ、ソフトウェア等創造性が必要とされる分野にあっては今一歩の感がある。こうした状態が続けば、日本の産業は豊富、低廉なアジア諸国の労働者の前にその競争力を失うことは自明であり、賃金の壁が既に発生していると言わざるを得ない。
その壁を打ち破るためには、創造性と独創性といった知的な価値の創出によらなければならず、これなくしては日本の産業の競争力を維持することは難しい。
日本の当面の「壁」である。
(1994年06月01日「調査月報」)
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