2019年08月07日

最低賃金、引上げを巡る議論-引き上げには、有効なポリシーミックスが不可欠

基礎研REPORT(冊子版)8月号

総合政策研究部 常務理事 チーフエコノミスト・経済研究部 兼任 矢嶋 康次

総合政策研究部 准主任研究員 鈴木 智也

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1―はじめに

政府は、6月に閣議決定した「経済財政運営の基本方針2019・骨太の方針」の中で、最低賃金について『より早期に全国加重平均が1,000円になることを目指す』との方針を盛り込んだ。

日本の最低賃金は、公労使各同数の委員からなる中央最低賃金審議会が厚生労働省に設置され、7月頃に引き上げ額の目安が提示されて、各都道府県に設置された地方最低賃金審議会において地域の実情を反映される審議答審が行われ、毎年8月頃に都道府県労働局長が最終的な引き上げ額を決定する。実際に改定額が適用されるのは、9月末から10月末頃にかけてとなる。

最低賃金の引き上げは、分配政策としてだけでなく経済政策としても期待される反面、企業経営に及ぼす影響も大きく、実態経済への悪影響を懸念して、より慎重な扱いを求める声も根強い。今年の審議には、大きな関心が集まると予想される。

2―最低賃金の現状

1|国際比較
日本の最低賃金は、国際的に低い水準にあることが知られている。各国の最低賃金を所得中央値に対する割合で見ると、日本は42%[2017年時点]と欧州の中で最も低いスペイン同じ水準にあり、主要国では米国の34%に次いで低い[図表1]。ほかの主要国が50%を超えていること(フランス62%や英国54%など)に比べると、日本は低い水準にあると言える。
[図表1]OECD諸国の最低賃金(対所得中央値)
2|国内比較
国内に目を向けると、地域別最低賃金は、関東・東海・近畿など都市部では高く、東北・四国・九州など地方部では低くなっている。実際、2018年の全国加重平均874円を上回るのは、東京985円、神奈川983円、大阪936円、埼玉898円、愛知898円、千葉895円、京都882円の7都府県だけであり、他の地域はそれ以下の水準だ。このような地域格差は、地方の人口流出や外国人集住などの一因とも言われる。
3|影響を受ける個人
最低賃金の近傍で働く労働者には、非正規労働者が多いとされる。独立行政法人労働政策研究・研究機構が行った研究(2016)*によると、地域別最低賃金未満で働く労働者(以下、未満率)は、一般労働者の0.9%に対してパートタイム労働者では4.8%と5倍以上高くなるという。また、年齢階層別には、20歳未満の若者と60歳以上の高齢者に多く、その傾向は男性よりも女性でより顕著である。
 
* 独立行政法人労働政策研究・研究機構「2007年の最低賃金法改正後の労働者の賃金の状況」(2016)
4|影響を受ける企業
最低賃金引き上げによる影響は、宿泊業・飲食サービス業、生活関連サービス業・娯楽業、卸売業・小売業などで大きく、パートタイム労働者比率と高い相関が見られる。規模別には、小さな事業者ほど影響を受けやすく、未満率は1,000人以上の企業で1.2%、10人以上100人未満で3.0%、5人以上10人未満で4.3%とされる。

3―国際的な先行事例に学ぶ

以下では、雇用と最低賃金の関係から、海外で見られた成功と失敗の各事例を取上げ、日本における最低賃金政策の今後を考えていく。
1|英国の成功
英国の最低賃金制度は、1993年に一度廃止され、1999年に再度復活した。最低賃金は復活後の20年間で4.61ポンド上昇し、2019年には当初の2.3倍となる8.21ポンドまで上昇した。この間の失業率は、2008年以降に起きた金融危機や欧州債務危機で上昇したものの、最低賃金の大幅な引き上げがあった2000年代初頭にはむしろ低下していた。英国では、最低賃金の引き上げが雇用抑制を招いて、失業の増加につながったとは言えないだろう。

英国で悪影響が顕在化しなかった理由としては、最低賃金の引き上げが景気に配慮し適切に調節されたこと、企業が雇用コストの上昇を生産性の向上で補ったこと、流動化した雇用が職業訓練によって質の高い労働力として市場に戻されたこと、などが挙げられる。また、負の所得税の考え方に基づく給付付き税額控除の仕組みも導入され、失業時に最低限の生活水準が保証されるセーフティーネットが強化されことも効果的であったと考えられる。

英国の事例からは、経済の好循環を生むためには、最低賃金の引き上げだけでなく、それを補完する労働市場改革や社会保障の制度改革が必要である、と指摘することができるだろう。
2|韓国の失敗
韓国では、1988年に最低賃金制度が導入されて以来、比較的大きな引き上げが毎年実施されてきた。特に、ここ最近の引き上げは凄まじく、2017年に6,470ウォンであった最低賃金は、2019年には8,350ウォンと29%も高くなった。韓国の最低賃金委員会による試算では、直接的な影響は全労働者の4分の1(約500万人)に及ぶとされている。労働者への影響が大きいだけに期待も大きな政策であったが、現実には失業率の上昇という形で実体経済を悪化させることにつながった。

韓国で悪影響が顕在化した理由としては、経済の実情を反映しない急激なペースで最低賃金が引き上げられたこと、法人税率引き上げや規制強化といった反企業的な政策が企業活動を委縮させ、企業が防衛的な行動を強めたこと、などが挙げられる。

韓国の事例からは、所得分配に偏った政策が企業負担の増加につながり、経営効率改善に必要な政策的支援や時間的猶予が与えられなかったことが、問題をさらに深刻にした、と指摘することができるだろう。

4―「引き上げへの「3条件」

日本の最低賃金は、ここ最近3年連続して3%を越える引き上げが実施されてきた[図表2]。
[図表2]最低賃金・全国加重平均額の推移
足元の経済をマクロな視点で見ると、雇用環境は完全雇用に近く、企業利益は2018年度に過去最高を更新するなど、良好な状態が続いている。一方、稼いだ利益がどれだけ労働者に回ったかを示す労働分配率は低下傾向にあり、雇用者に対する還元は遅れ気味である。

このような状況のもと、全ての企業に賃上げを迫る最低賃金の引き上げは、労働者への還元を強化する、格好の機会となり得る。とりわけ、最低賃金近傍で働く労働者は生産性の低い企業に多く、そのような企業で組織改革や先端技術の導入、統廃合の動きなどが活発化すれば、日本全体の競争力が中長期的に強化されることも期待できる。他方で、韓国の事例が示すように経済実勢に見合わない引き上げは、雇用調整や投資抑制などを通じて経済に負の影響を及ぼす可能性もある。また中には、美容室のように資本や技術で対応することが難しい業界もあり、キメ細かな対応が必要となる場合もあるだろう。

以上を踏まえて、日本で最低賃金の引き上げを加速するには、以下3つの点に留意することが必要だと考える。3つとは、すなわち「経済実勢に見合わない引き上げをしないこと」「企業に生産性向上を迫ること」「雇用の安全網を整備すること」である。

1つ目、経済実勢を反映しないスピードでの引き上げは、社会に大きな歪を生みかねない。失業率の上昇や産業の空洞化を進めるような事業環境の激変は、明らかにやり過ぎである。 

2つ目、経済実勢に配慮した引き上げであっても、企業にとって雇用コストが上昇することに変わりはない。コスト増に見合う生産性向上とは不可分である。最低賃金の引き上げを経済の好循環につなげるためには、企業の生産性向上を促すポリシーミックスが必要だ。具体的には、研究開発減税の拡大、多方面での規制緩和、積極的な外資誘致政策などの政策は有効だろう。また非効率が改善されない企業に対して、経営統合や廃業などを促し、産業の新陳代謝を高めていくことも必要である。

3つ目、雇用が不安定化した場合に備えて、労働市場に安全網を整備しておくことも必要である。具体的には、最低限度の生活を保障するためのセーフティーネットの充実、労働の質を高め雇用のミスマッチを小さくする教育訓練プログラムの導入、労働のインセンティブを高める税制改革など、労働市場を補完する政策が必要である。

最低賃金の引き上げ加速は、有効なポリシーミックスを如何に早く整備していくことができるかに掛かっていると言える。
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総合政策研究部

矢嶋 康次 (やじま やすひで)

総合政策研究部

鈴木 智也 (すずき ともや)

(2019年08月07日「基礎研マンスリー」)

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